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180228

今日で2月も終わり
青空の良い天気だ

新しい家が建ち景色が変わった
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いよいよ植木屋を始めた
まずは例年通り、ケヤキとアオギリ
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植木屋さんの勉強も
モチノキの剪定
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今日の花
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青いレモン 番外編 59 イランに向けて  
修士2年の後半は、秋にイランの首都テヘランで行われる第2回アジア国際見本市の清家研究室に来た日本館の仕事と、修士論文が重なった。博士課程に進学し、すぐに休学して、約半年、日本館の設計監理に行かせて頂き、仕事が終わってからひとり旅をし、その後、結婚し二ヶ月にわたる新婚旅行を続けるのだが、その頃の話は既に書いた「旅と車と私たち」。・・・・・と云うことで、イランへの出発に向けて、イランでの仕事などについて思い出すまま纏めておく。
年が明けてイランへの出発の年になる。日本で製作し、工事に合わせて船で輸送する鉄骨とテントの原寸チェック、仮組立、テントの張り方の習得などなど初めてのことが目白押し。もう一つ、見本市会場の展示コーナーで使う既成のブーツのデザインがあった。こちらの製作は入札の結果、丹青社が受けることになったが、展示関係のデザインは、ポール、幕板、間仕切りパネル、その他、細かいネームプレートなどほとんど第1回アジア国際見本市に習った。それでもイランの見本市の会場の規約もありそのまま使う訳にはいかず、結局一通りデザインし直すことになった。
ともあれ、修士を出なければ話にならない。実験は済んでいるもののいざ纏めると成ると結構時間が掛かる。勿論、ワープロもパソコンもプリンターも無い時代である。まだゼロックスも無かった。黒焼きと呼んでいた透過せずにプリントできるものはあったが、普通紙は使えないから高くつく。マス目の入ったトレーシングペーパーの原稿用紙に清書して、リコピーで必要部数コピー刷る。
その頃、個人的なこともなかなか忙しくほとんど寝る暇が無かった。それでも今と違い一日に幾つもの用事をこなせた。今は、一つの仕事に時間が掛かり、何もできないうちにあっと言う間に一日が、いや一週間、一ヶ月が経ってしまう。それに睡眠不足のまま毎日のように車を運転したが、不思議と運転中に眠くなるようなことも無かった。
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180227

まあまあの天気か?
昨日はプロジェクターがパソコンに結局繋がらなかった。

新構法開発研究会
少し時間があったので、
高橋是清公園による
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網野先生の話
ヨーロッパ文化圏と木造の話
地方都市は、周囲に農地を確保する。都市は広げられず高くなる。
木造、混構造
また、地産地消を常に心がける。
しかし、平野の多いフランス・ドイツについては、同じように網野さんの話が当てはまるか疑問である。
あくまでもスイス、オーストリアの西側の部分での話。
少なくともこの地域では、
私の煉瓦のために森がなくなった話も考え直さなければいけないか?
この話についても聞きたかった。
また、保存のヨーロッパ文化と更新の日本文化についても。

内田先生は、
今年は花粉症も克服され極めてお元気でした。

観世水で懇親会
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青いレモン 番外編 58 旅立ち 
修士2年が終わる頃、石田くんは、修士を出ずにヨーロッパに旅立つ。多分、番匠谷尭二さん、高浜和秀さん、山口泰治さん、村口昌之さん、後藤宜夫さん、大萱昭芳さんなどの先輩の行状を見習ったのだと思う。番匠谷さんは大学を出てフランスに渡り、ダマスカスでお会いしたときは国連の仕事をされていた。公用ビザを待たれていたので、国境はフリーパス。ダマスに住んでいると、品数の多いレバノンまで定期的に買い出しに行くのだが、峠の国境を越えるのについやする時間がほとんど無くうらやましかった。愛車、アルファー・ロメオを駆って何処へでも出かけていく、ロシヤ大使夫人と噂があり、あるひ番匠谷宅にロシヤ大使が怒鳴り込んできたという。
左利きなのだが右手も使え、右手で英語、左手でフランス語を同時に書くことができると云う。小説の主人公に十分になりそうな話題の多い人であった。
高浜さんもやはり大学を出てヨーロッパに渡り、イタリアでデザインしたオフィス家具があたり、イタリアのお城のような住居に住んでいるという。山口泰治さんは、やはりドイツに残り、ドイツの空港を設計している。村口さんもヨーロッパで仕事を見つけ、その縁が、70'大阪万博のスイス館のコ・アーキテクトに繋がっている。
そのほか、後藤さんや大萱さんもヨーロッパに渡りその後を楽しんでいる。
石田くんについては、これ以後、石田さんと書くが、石田さんは日本の景気が良くなり、外国へのあこがれが薄らいでいく寸前に、ヨーロッパへ出て行って、成功した最後の研究室関係者だと思う。

180226

二月もあと3日

朝・・・雨の予報だったがまだ降っていない・・・曇り空
税金・国民健康保険など支払い
お年玉葉書の引き替え

鳥の餌台
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高円寺の空き地
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区役所にお礼

中野たてもの応援団
定例会議
於:スマイル中野
ついに雨は降らず

今日の花
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青いレモン 番外編 57 修士2年
修士の2年が始まる頃から大学は次第に騒然としてきた。学生紛争である。安保闘争のデモに国会前に出かけていったのが、高三の時であるから、それ以後、学生の政治派の関心は強かったのだと思う。東工大の正門付近にも一種独特の書体で書かれた立て看が林立し出す。しかしああいう意見の表明は、うるさいと思っても出させておく方が良いと思う。
何から何まで意見を言うことを制限してしまうと、鬱積した不満が爆発する。当時、立て看に書いてあることが全て真実であるとは、誰も思わなかったと考えられるが、一方で、世の中で、あるいは学内で、どのようなことが問題になっているか理解できた。今は大学側が発行している印刷物だけに支配されている。特に独立法人化以後、そういった印刷物も大学の宣伝をかねて、立派なものがつくられるようになったが、当然、問題点は全くさらけ出していないから、ある意味では臭い面に蓋がなされてしまったことになる。
学内で集会が幾つも行われていた。学生の入構制限はそれほど厳しくなく、スト破りと云うほどのこともなく入構でき、研究室はほとんど日常通りに活動していた。正門や西門は閉められていても何カ所か垣根に穴があいているところがあり、そこを利用して入構していたし、そこを塞ごうという者もいなかった。研究室にいったり、建研に行ったり、デザインシステムに行ったり、ジェトロで打ち合わせをしたり、瞬く間に修士2年が過ぎ去った。車は勿論入構できなかったが、当時は、駐車禁止もそれほど厳しくなく脇道には駐車禁止の表示がないところもあり、一日中止めて置いてもまず捕まらなかった。ふり返ると人生で、修士の1,2年ほど時が早く流れた時期はなかったような気がする。それまで、縁遠かった女の子と会う楽しみもでき、それも時の流れを速くしたのだと思う。

180225

曇り空
風も少しある
2月は短い
今年の2月はあっと言う間だった
例年の通りだが

13時からTBS「噂の現場」を見る!
大谷石蔵のこと
武井さんが頑張っていた

鳥の餌台が傷んできたので造り替える
杉の赤身
夏には葉のある枝を挿すと木陰ができるかな
古い一代目の餌台は16年1月17日からだから2年と1ヶ月以上持ったことになる。
酒瓶の蓋にしては上出来だ。
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餌もおいてみたがまだ鳥は来ない。
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近所の現場
一軒が4軒に
人口が減っているのに!
不思議な現象
しかし、日本全体としては減少、高齢化しても
都心は必ずしもそうとはいえない
中野区の年齢による人口変化の減少は
瓢箪型
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今日のガスメーター
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青いレモン 番外編 56 学生紛争と加藤先生
学生紛争がだんだん激しくなってきた。凡研にも二年下の卒論生がいたが、彼は谷口先生のことを、君、おまえ呼ばわりを始めた。
学生紛争は、イランの留守中にクライマックスを迎えるのだが、この頃でも、正門をスチール家具等でシャットアウトしていた。学生運動が激しくなると執行部の先生方を部屋に閉じ込めつるし上げた。そのせいか、学長は病に倒れ、建築の加藤先生が学長代行になった。
加藤先生の焼き物は、陶芸は三越で個展を開くどの力の入れようで、卒論の頃だったか晩秋に先生の部屋に用があって入ったことがあるが、目の高さほどの大きな丸い竹カゴが五つほど(うろ覚え)並んで置かれ、銀杏の落ち葉が詰め込まれていた。「君ね、これで焼くと実に良い色が出るんだよ。」と云われていた。
これは更に後のことであるが、イランに送られていた新聞記事の写真では、大岡山の正門に見事なバリケードが築かれていた。さすが工業大学との説明が書かれていた。
加藤先生は、かなり早い時期に自衛隊を入れデモ隊を排除した。
やがて加藤六美学長がうまれ、退職後、人事院の人事官になった。

180224

天気が回復して
空が青くなった
風もほとんどない

荒井先生を偲ぶ会のことで連絡あり

キッチンのカランがかなり傷んできた
カラーのカランはもう無いようだが
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新宿TOTOショールーム
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南極の氷に閉ざされた湖の中
地球の酸素の起源の探求
シアノバクテリア

青いレモン 番外編 55 修論の発表会
3月に入ってから、2月の終わりだったかも知れないが、修論の発表会があった。と云っても大学はシャットアウト中、個々の修論生に修論について話を聞きたいので、建築学会の会議室に来いと連絡があった。特にあまり詳しく教えてくれる人もいなかったので、多少の資料をもって、出かけていくと学会の廊下に数人の修論生がいたが、個別に会議室に呼ばれているらしく終わった連中はもう退去して帰ったという。会議室から出てきた奴に聞こうとしたら、すぐに部屋に入れという。
部屋に入ると大きな古いテーブルがあった。建築学会が有楽町にあった頃、建物は保存に値する古い建物で、中で使われている家具も学会の歴史をいかにも物語っているような机であり椅子であり本棚であった。
そのどっしりした長いテーブルの片側の真ん中に私一人、向かい側に教授・助教授がずらりと並び、20分だか30分だか忘れたが、発表しろという。話を聞きたいと云われていたが、発表しろとは聞いてなかった。資料はどうしたか覚えてないが、多分、梗概の資料を先生方が用意してもっていたのだと思う。時間を掛けてやってきたことなので、説明もそれほど苦労せずに出来たと思う。二三ごく普通の質問があり、終了。しかし、殆ど何も用意をせずに部屋に入ったときのあの裏切られた圧迫感は忘れられない。いつも弛んでいるためか頭の回転が極めて遅いが、緊張すると何故か不思議と落ち付いて説明がでてくる。構造系の研究室の連中はみな発表会だと認識して用意していたみたいである。イランの仕事で、難波さんのところ、ジェトロ、デザインシステムには行っても殆ど大学に顔を出さなかったこともある。先生方が大学には入れなくとも大学に行けば情報は得られたのではないかと思う。
学生紛争で頑張っていた何人かは修論の発表をボイコットした。

180223

昨日の雨で道路が濡れている
なんとなく冴えない天気
今日を含めて、
2月はもう6日しかない
本当にあっと言う間に過ぎ去った

最上稲荷神社
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久しぶりに荒牧医院の前を通る
入口の扉が付く
いよいよ完成か?
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三月になると
山亘の劇が高円寺の「座」である
「埋没」
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三月になると
確定申告の季節だ

大和町の民家
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今日の花
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青いレモン 番外編 54 デザインシステム 
芝増上寺裏の三庚文化会館は、敷地に大きな緑があり、RCの建物だったが、なんとなく木造の臭いがして、和やかな雰囲気であった。特に駐車場というのではないが建物の周りが空いていて、何台も車が停められた。一寸高台にあって、東の方を望むことができた。
たまに東京タワーの近くのレストランに昼飯を食べに行った。レーモンドの教会や白井晟一の建物も気楽に歩ける範囲の距離にあった。ある日、まだその頃、東京にも超高層の建物が数棟しかなかったのだが、誰だったか忘れたが、かなり上層まで鉄骨が組まれていた超高層の工事現場のタワークレーンが落ちるのが見えたという。数人が見たと云うので間違いないはずであるが、夕刊にも明くる日の新聞にも記事は出ていなかった。建設会社の恐ろしさを知った。
デザインシステムの所員は、昼休みに近くにゴルフの練習場に運動に出かけていった。練習所に行かず三庚文化会館の敷地の中でも練習ができた。市瀬さんが、ゴム紐の先に玉の付いた練習具で、遊んでいたら、自分の打った玉がぐるっと回って、自分の後頭部にあたり卒倒し、救急車のお世話になるなどという事件もあった。市瀬さんは後に桑沢デザイン研究所の所長になる。
私はイランのアジア国際見本市の日本館の設計を研究室でやっていたが、先生や、ジェトロとの打ち合わせのためにによくデザインシステムに立ち寄ったが、その頃、デザインシステムは万博の建物の設計で忙しかった。
暫くして、デザインシステムは場所を移し、三庚文化会館は暫くはそのまま建っていたが、やがて建て直され面影もなくなってしまった。

180222

珍しく小雨
一時霙か雪

人形町で会議
久しぶりに三光稲荷神社
お雛様が飾られていた
狐の嫁入りではない
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今しか見ることができない
エルメスのファサード
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千駄ヶ谷
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JIAから
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今日の花
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青いレモン 番外編 53  イランの準備
修士2年の後半になると話が進みだした。アジア国際見本市の日本館の建設を主宰するのは日本貿易振興会のジェトロで、先生と難波さんと3人で、ジェトロの見本市の責任者に会いに行く。その方は確か柳川さんといわれ、恰幅のよい前回のインドの見本市の責任者でもあった。先生とご一緒したのは、2,3回、後は、難波さんと二人か一人でジェトロと打ち合わせを行った。
国際見本市に関して、イランから様々な書類が送られてきた。まずは要項その他の翻訳であるが、会期は1969年秋である。日本館の敷地は東西に極端に細長い敷地である。先生の基本的構想は細長い煉瓦の建物で、予算に応じて、短くしたり、低くして予算に対して調整可能にしようというものであった。基本的には、鉄骨の柱、煉瓦の壁、天幕の屋根というシンプルなもので、鉄骨とテントを日本で作製して、船で運ぶ。煉瓦の壁は現地で材工ともに調達する。
図面は研究室で描き、先生のお宅の東南の隅の鉄骨の小屋の2階の難波さんの事務所で打ち合わせをした。この建物の下はガレージで先生のトヨペットクラウンのバンが駐まっていた。日本館の透視図は野村工芸の石原さんにお願いした。石原さんとはだいぶ後になって、日本建築学会の資料集成の展示の項目作成委員会でご一緒した。
日本での準備作業は、修論のまとめと平行して行われた。その頃、学生紛争が次第に熱気を帯びてきた時期で、ストの決行の日以外は学生は構内に自由に入れるが先生方は入構が制限されていた。ストの日も塀には破れ目があって、適当に入り込んで研究や、イランの仕事をしていた。
出発前の作業として、屋根の天幕について太陽テントとの打ち合わせ、鉄骨の原寸図のチェックと仮組立の立ち会い。
展示ブースのパネル等も日本で制作し、イランに送ることになっており、丹青社と打ち合わせをした。社長が、イスラム教に詳しく生活習慣、コーランなどについていろいろ教わった。

180221

朝は曇り空
多少風がある

中野区立こまどり公園の
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のからまる
卵ではありません。安田侃の彫刻でもありません
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今日のガスメーター
ここにも
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妻恋稲荷?
祠があって小さなお稲荷様が沢山
狛狐は金網の中
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今日の
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今日の花
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青いレモン 番外編 052 研究室にイランの話が来る
修士2年になって暫く経ち、先生からイランの話が伝えられた。来年、第2回アジア国際見本市がイランの首都テヘランで行われるが、そこの日本館の設計を清家研究室でやることになりそうなので、手伝えという話で、勿論いやはない。何故か修論は、僕が卒業すると同時に建研に移った瀬尾さんとオープンジョイントの研究をすることになった。瀬尾さんとのつながりの経緯は別のところで述べるが、実験は修士1年の時に殆ど済んでしまいあとは纏めればよいという恵まれた状況にあった。
第1回アジア国際見本市の時は、村口さんが担当し、先生も難波さんも最初同行した。場所はインドで、村口さんは建物完成後、ヨーロッパに渡りドイツで仕事を見つけて何年かして帰国した。今回は先生の同行はなく難波さんと二人で進めることに成りそうである。仕事は日本貿易振興会JETROである。出発は来年の4月、修論は今まで以上に早めに終わらせる様に努力することにした。
当時、学生運動がだんだん盛んに成り、先生方の会議も学外で行われていた。イランの日本館の打ち合わせは主として、清家先生のご自宅か、敷地の東南の隅の車庫の2階で、そこは主として難波さんが設計の仕事に使っていた。学生は割合自由に学内に入れるので、仕事は研究室で行い、半分修論、半分日本館の設計と忙しくなる。
日本館のパースは野村工芸の石原さんが担当。次第に打ち合わせも現実味を帯び、ジェトロに行くことが多くなった。難波さんを乗せてジェトロに行くが駐車場がなかなか入れない、目の前のホテルオークラの駐車場を利用させてもらった。当時は駐車はうるさくなくあちらこちらに自由に止めることができた。
4月に初めての海外、日本館の設計、修論、彼女とのデートと今考えるとどうしてそんなに時間があったのかと思う。今など一枚お礼状を書くと午前中が終わってしまう。

180220

今日も良い天気だ
風もない
やはり寒いが、なんとなく
春めいてきた

八幡様お地蔵様
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鳥の餌台
まだ途中
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青いレモン 番外編 051 万博 ヨコハマ けん玉 
新学期を迎え、研究室には新しい4年生が入ってきた。それと同時に、北大を卒業した石田くんが研究室修士のメンバーに加わった。
研究室が本館にあったときは、工業振興会の嘱託の人達も学生も少し大きな細長い一部屋に一緒にいた。と云うよりも先生と助手以外の席は、工業振興会の嘱託の人達で締められ、学生や院生の席があったことは余り覚えていない。緑が丘に建築棟ができて、研究室が移るのにほぼ合わせて、工業振興会の嘱託の人達はデザインシステムという組織を学外に作り出て行った。場所は芝の増上寺の裏側の三康文化会館の2階。車は停められるし、ゆったりとしてなかなか良い環境だった。先生の用事や、仕事の手伝いで、緑が丘とデザインシステムの間をよく往き来した。
この“デザインシステム”という名前を決めるのに研究室で議論したことも楽しい想い出である。先生は“システム”は“一式”だと云われていたが、建築の見積もりでよくつかわれる“一式”は確かにシステムの一面を上手く言い表していると思った。
70年万博の前で、研究室では虹の塔のような専売公社館と柱が林立した国連館、村口さんがコアーキテクトをやっている電気の樹木のようなスイス館など入り乱れていた。
当時、大学院の授業というのは殆どなかった。枠はあっても休校が多く、院生自体数も少なく出席もとらなかった。レポートなどが当たってなければ、殆ど拘束されず、設計のちょっとした手伝いをし、講演会を聴きに行ったり、新しく建った建物を見に行ったりしていた。特に修士の1年の時は、自由な時間が多かった。皆でつるんで、横浜あたりまで出かけ、丘の見える公園や、元町あたりをふらついて帰って来るだけなのだが、あるとき、赤や緑、黄色にペンキを塗った剣玉を見つけて買って帰った。それから暫く研究室は、剣玉が大流行、全国一周や灯台など、中には小さいときにかなり遊んだとみえ上手い奴がいて、一寸得意顔になっていた。
よく遊んだが、遊んでいたばかりではなくコンペにもよく参加した。研究室として参加するもの、個人的に参加するものとかなりの数があったように思う。読書会もよく開いた。クリストファー・アレキサンダーに夢中になっている杉山くんというのがいたが、おかげで、アレキサンダーの本を随分読ましてもらった。後に、彼はアレキサンダーのところに留学し、帰ってきてから、アレキサンダーをテーマに修論を纏め皆からはアレキサンダー杉山と呼ばれていた。卒業して、菊竹事務所に行き、そのあとパシフィック・コンサルタントにいたがそのあと知らない。彼は今どうしているだろうか?

180219

良い天気だ
風もない
二月はあっと言う間に過ぎていく

17日のまち歩きで外から見た
警察病院の敷地内の
撮影
陸軍中野学校跡 もう一つは伝書鳩に関して
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東京駅八重洲口
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ちゃんこちゃんこ
今日はここで5人の集まり
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青いレモン 番外編 050 寮の火事 
建築学科が緑が丘の建設棟に移って、暫くして、すぐ3~40メートル南側に木造の学生寮が建っていたのだが火事になりほぼ全焼した。
学生寮は建設棟よりも一段低い敷地に建っており、木造瓦葺きで、もうかなりの時代もので真っ黒になった下見板張りの小学校の校舎のように細長い建物だった。多少離れていたのと風もなかったこと、すぐに何台も消防自動車が駆けつけてきたことで、研究室の窓から高みの見物をしていた。火元から遠いところは火が移るまでにかなり時間があったのか部屋から持ち物が持ち出され、建設棟との間の南向きの土手の斜面に並べられる。
研究室の事務のモトヤマさん(だったと思う)が火事の様子を電話でデザインシステムに実況放送宜しく伝えていたが、電話線が焼けたのか電話中の声が途中で小さくなりついに途絶えてしまったという。
学生紛争の盛んな時代である。それでなくとも寮生は昔から大きな声で主張するのが得意である。寮費が月200円だったもの300円(具体的な数値は覚えていないがこんなものだったと記憶している)になる!学校当局は、寮費をまさに1.5倍に上げる暴挙を敢えて行おうとしていると、寮費値上げ運動でアジっていた。確かに物価は今よりも安くだいたい昼飯が100円程度で十分食べられる時代だったが、その寮費の安さにびっくりした。
ところが持ち出されてくるものは、高級ステレオや大きなテレビが建築棟と寮の間の斜面に並び、見る者の顰蹙を買っていた。当時、研究室から東京以外に電話するときは交換に申し込まなければいけない時代だったが、学生寮からは日本全国自由に電話ができたとも云われていた。
寮のあったところは更地に成り、寮はキャンパス外に移され、さらにその更地になった敷地に、社会工学の建物が計画された。どうも上手すぎる・・・・・大学側の陰謀ではないかなどという噂も立ったが、この火災で死人・怪我人が出なかったのは何よりであった。その後、キャンパス内の原子力研の奥にあったやはり時代がかった木造の学生寮も外に移されたが、当時、寮こそ学生運動の温床だと見なされており、あとで私が移った宇都宮大学でも、学生寮がキャンパス内にあって問題になっていた。しかし、キャンパス外の志方寮(字が不確か)が最後まで、学生運動を続けていて、会計検査院の査察を拒否したことで、工学部長選のウイスキー事件と相まって大学はだいぶ文部省に対して窮地に立たされていた。実は、医学部の設置を学内の縄張り争いが原因で拒絶したことが大きいようであるが。学生紛争の温床として、寮がキャンパス内外と云う要因はあまり問題ではなかったのかも知れない。寮の部屋が数人部屋であることも問題を生むとされ、最近の学生寮はみな個室になっているが、昔の寮生からは数人部屋こそ寮の味だとも聞かされた。しかし、数人部屋の寮は募集人員を満たすことができないという。現代の子供室で育った世代の風潮に沿わないことは確かだ。

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良い天気だが
少々風があって寒い

昨日よく歩いたせいか
よく寝た

鳥の餌台
第一段階 (杉の赤身の板)
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ホームの端部
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今日の果実
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今日のガスメーター
180218-05.jpg 180218-07.jpg 背が十分低い

今日の夕焼け
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今日の花
180218-01.jpg 180218-06.jpg 満開

青いレモン 番外編 049 杉坂事務所による木造住宅の開発の話
これも修士の頃、木造住宅の新しい構法の工程調査をしたことがある。朝吹さんという有名な女性シャンソン歌手、石井好子の甥っ子?であるユニークな人がプロデュースしてくれた。この人は、24時間目盛りの腕時計をしており、手帳もそれに合わせて24時間記入できるように自分でデザインしたものを使っていた。24時間腕時計というものをこの時始めて見た。合理的に思えて予定表を24時間目盛りにしてみたが、12時間で一区切りの方がなれのせいもあるが実感しやすい。時計が12時間で一周となっているのも人間の知恵かも知れないと思った。朝吹さんは靴を履いているのだが、靴下でなく、こはぜの付いた黒くて、足の裏だけ白い足袋を愛用。とにかく見た感じは体格は好く髭を生やした一見縄文系の人間だが色は白くとにかく忘れられない面白い人物であった。
新しい構法の木造住宅の開発をした設計事務所は杉坂何某さんが所長で、おしゃれな人であった。銃の免許を持っていて狩りが趣味だという話をされていた。銃と云っても散弾銃でなくライフル何ですよと得意顔に説明する。これは最初に散弾銃の免許を取って、何年かしない取得できないものだという。しかも杉坂さんは、そういった銃の愛好家の中でも古株で、会員の管理のようなこともやっているように聞いた。
これはずうっと後になっての話だが、宇都宮通いが始まって、電車の中で小説が離せなくなっていた頃、井上靖の「猟銃」という小説を読んだがその主人公と杉坂さんを重ね合わせながら読んだのを覚えている。
僕がチーフになり、HくんとYくんが一緒に建て方の調査することになった。建設場所は名古屋の近くで、海のそばの空き地であったように記憶している。建設に数日かかった。この時始めて、メモモーションカメラなるものを使った。建設初日、僕は東京で用事があり、午後から現場に行くことになっており、二人が、前日から泊まり込み朝から、メモモーションカメラを動かすことになっていたのだが、寝坊したらしい。現場に着いたら、もう柱が、かなり立ち終わっていた。朝吹さんにがっかりされ、模型の撮影で対応させてもらったが、大失敗であった。

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良い天気だ

今日はJIA中野地域会とTAAF中野支部の合同主催〈中野四季のまち散策〉区民参加のまちあるき
サンプラザ前に集合
中野たてもの応援団メンバーなど区民の参加もあった
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中野四季のまち(都市)
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セントラルパークサウス
土曜日でキリンのショウルームには入れず
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高級マンション
人の気配が全くうかがえない
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明治大学
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このあと早稲田大学も1階のみ見せて頂く

線路との間に挟まれた不思議な土地
線路がもたらして曲線
地境
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素晴らしい天気に恵まれたが、
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昼食をしている間に風が強くなり、
雨もぱらつく

一度帰宅してから
やはりデザインはオリジナルであるべきだと
新宿ハンズ
新宿は凄い人出だった
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青いレモン 番外編 048 八幡製鉄とバトラー  
研究室に八幡製鉄(当時の社名)からアメリカのバトラー社の鉄骨工場建屋のシステムの調査研究が持ち込まれ、このお手伝いを八木くんと清水くんと3人で行うことになった。最初に、会社の人と、先生と我々3人でご馳走になりながら打ち合わせをした。調査は、実際に八幡製鉄の用意した敷地に何スパンかの工場建物を建て、その工程を克明に記録することであった。
よくは覚えていないが、この建物を建てる敷地は八王子に近い山の中で、車でないといけない場所で、3人ともおんぼろ車を持っていたので担当させられたのだと思う。2人で見ることを原則にしたが、工事に変化があるときや、単純作業が続くこともあり、日によって、3人で行ったり、2人で行ったり、1人で行ったり調整をした。敷地の中に既存の鉄骨の建物があり、その2階を調査の基地に使わしてもらった。工場のような建物で、1階は人がいて何か仕事をしているようであったが、2階はがらんとした大空間で、その片隅に机が置いてあった。この2階の机と対角線方向の窓から、建設途中の建物がよく見え概略の工程はここからつかめた。季節はよく覚えていないが、暖房の要らない時期、1~2ヶ月ほどだったと思う。
このバトラー社のシステムは、仕上げ材をつなぎ合わせたり、間柱などに取り付ける接合ボルトに特徴があり、ねじを締めていくとまず向こう側が広がり抜けなくなり更に締め付けると接合が完成する。広い面積の鉄板等を止めるときに裏に入らずに表から全てひとりで工事ができるところに特徴がある。工事が終わり、報告書を書いたと思うが、よく覚えていない。

180216

昨夜は比較的暖かかったが、
今朝なまた寒さが戻ってきたように感じた
しかし温度計を見るとそれほどでもない
青空だがなんとなくもやっている

妙正寺川の水鳥
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今日のポスト
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今日の
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今日のマンホール
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大谷の石蔵に関するTBSの取材

今日の花
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青いレモン 番外編 047 研究室の飲食  
博士課程になってすぐに休学し、イランに行き、丁度一年後に復学。建築材料の吉岡先生の部屋に出入りする様になると、毎日の様に飲むので驚かされたがそれはまた後の話。清家研究室は、先生が飲まないことや、自動車の利用者が多かったこともあって、飲む機会は皆無に近いほどなかった。多分、卒業するまでに飲んだ記憶は、4年生の時の忘年会で、あと一回は道路公団のサービスエリアの設計の手伝いの打ち上げだったのではないだろうか。清家先生は、美校の出身、その後東工大に来られたので、上野には詳しい。
忘年会は、上野の公園の中にある洒落た韻松亭と云う料理屋で開かれた。美味しく食べたのだが、清家先生と宮坂先生と忘れたがあともう一人が頭に布を被り黒い輪を載せアラブの格好して現れ、三人の博士であるとクリスマスの歌を唄った。クリスチャンらしい清家先生の嗜好を始めて見た思いがした。打ち上げの会は渋谷の鳥長だったと思う。
研究室の行事とは別に八幡製鉄や、大成建設、ジェトロの仕事で先生とご一緒させて頂き飲み食いした回数はかなりの数になるし、先生を囲む会や先生の慶事を祝う会で会食したことも数え切れない。しかし、個人的に先生にご馳走になったのは、多分イランに出発する前の目黒通りに面したホテルでの一回だけだと記憶している。
先生は飲まれないが、飲んだ席で、一番酔っ払っている様によくしゃべられるし、飲食に関係なく人が集まっていると楽しそうに次から次へと話をされた。おそらく先生にとっては、アルコールはそれほどコミュニケーションのための必要素材でなかったのではないかと思う。お飲みになれないのではなく、インドに行かれたときに調子を崩され、それ以後心臓を心配され飲まれないのだとも聞いたが真意は分からない。
大学では先生は帰りがけに、10分か15分ぐらい、長いときでは小一時間立ち話をされていたことを思い出す。何の変哲もない話なのだが、楽しく、また、その中でいろいろなことを教えて頂いた。
いつもにこやかで、他の人にはあまり不機嫌なところは見せない。特に50才を超えられてからは研究室では学生達を坊や達と呼ばれて優しい先生になられた。あるいはデザインシステムとして、設計の組織が外へ出たからかも知れない。大岡山にいた頃など機嫌がわるいと、研究室の本や器具が曲がっている、灰皿に吸い殻があると其れが汚いと、普段あまり云われないことを次から次へといわれ、八つ当たりしているのではないかとさえ思えてしまことが度々あった。それがまたもの凄く怖いのである。

180215

相変わらずの天気

今日は秋葉原
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駅で
レールではないがリベット止め
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ビルの隙間
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ビルの谷間に蔵がある
土蔵ではなく
鉄筋コンクリート造
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青いレモン 番外編 046 研究室とヨット  
ヨットは借り物を入れても数艘しかないわけだから交代で乗ることになるが、一度沖にでるとなかなか帰ってこない。言い訳は何とでも付く、調子よく沖まででたら、風がなくなっちまって・・・・・等々である。これは、あとでグライダー部の顧問をやったが、全く同じで、上がったらなかなか降りてこない。
夕方になり夕食の時間が近づくと船をあげ、セイルとシート類を水洗いして明日に備える。食事は、勿論、会費は払うのだがお寺で用意してくれる。時にはバーベキュー、食後はハーバーに出て花火大会。夜はお寺に泊めてもらう。幾つかの和室と本堂の床に蒲団を敷いて眠る。しかし、よくしたもので、先輩達は仕事があるからそう長いこといることはできない。そこでその後は学生が乗り放題となる。
タックだジャイブだと毎日乗っているとそこそこ乗れる様になる。ヨットも楽しかったが、和船もなかなか面白かった。これは沖に止めておいて、交代の時に使ったり、釣りを楽しむ。和船だ竿はない。海は深すぎる。櫓が付いているのだがこれがなかなか難しい。慣れないと同じところをくるくる回ってしまう。船外機もあるのだが、掛かりが悪く、音ばかり大きくあまり調子がよくない。もっぱら櫓の修練に励んだ。おかげで、和船は可成り上手に操縦できる様になった。今でも時代劇を見ていて櫓をこいでいるシーンを見るとなんとなく上半身を動かしてしまう。押して戻す時の力の入れ
夏が終わり少し寒くなる頃には来年に備え簡単な整備をして店じまい。
ヨットには東工大にいたときにはずうっと参加していたから、10年ぐらい通ったが、やはり一番熱にできたのは4年生の時と修士の二年間だったと思う。
こちらの合宿が終わり、次の日から始まる学習院の女子のヨット部の合宿のために、合宿の間借りていたヨット2隻を初瀬から学習院の本拠地の葉山まで帆走した。晴れているが風が強くうねりもあって、波頭が白く砕けている。風見の糸も真横を向いている。斉藤くんと辻くんがスキッパー、僕は斉藤くんの操るA級ディンギーのクルー。辻くんのクルーが誰だったかは覚えていない。二艘ならんで北へ向かう。すぐ脇を走っているのだが、うねりが大きくうねりの谷と谷に入ると隣のヨットの帆柱の先がほんの少ししか見えなくなる。クローズドホールドだから船足は速いのだが、波があるときにA級ディンギーは調子よく走りすぎるとバウから水を被る、重心をできるだけ後ろに掛けているのだが、数回水を被りそのたびに水をかい出す。ここで沈したらどうなるだろうかと心配になるも何とか葉山のマリーナに到着。お礼を言ってヨットを引き渡す。

180214

今日も良い天気だ
気温は相変わらず低い

中野区との話し合い
JIA中野地域会の定例
終了後タイ料理

青いレモン 番外編 045 研究室とヨット 
清家先生がお酒は飲まないので、研究室で飲むことはなかった。先生は5時頃になるとなんとなく雑談混じりに様々な情報を流して、冗談を言い帰宅される。我々院生は、夕方になると自由が丘や、等々力渓谷沿いの一寸洒落た店にお茶を飲みに云った。研究室の若いメンバーで建築を見に行ったり、横浜へ遊びに行ったりした。数人が車をもっていたことや、当時、学内の駐車もそれほどうるさくなかったことなどがそういう日常を可能にしていたと思う。しかし先生が飲まないためかアルコールには殆ど縁がなかった。
4年生に成り研究室の所属が決まり少し暖かくなった頃、先輩に連れられて、三浦半島に行った。初瀬という小さな入り江のそばのお寺に研究室の船が預けてあるという。A級ディンギーとシーガル、あと一艘は和船である。ヨットには先生の趣味でαとかΩとかΔとかギリシャ語の名前が付いていたが、どっちがどっちだったか覚えていない。当時の船は木製で、今の様にFRPではなかった。FRPの船もあったがポリバス、ポリバスと云って馬鹿にしている時代だった。木製の船はメンテナンスが大変である。季節始めに船の整備をした。日曜日になると横浜の桜木町で、中村船具に寄って部品やマリンペイント、刷毛などを買って初瀬に向かう。古いペンキをそぎ落とし、隙間をパテで埋め、ペーパーを掛けてペンキを塗る。これが結構時間が掛かる。金具類を見直し、必要なシート類を並べて干す。夏まで毎週の様に通って船の整備をした。
何故か我々の代には、斉藤くんと辻くんというヨット部の人間がいた。また、研究室で仕事をしている先輩の角永さんもヨット部の出身である。だんだん季節もよくなり、研究室の夏の合宿が始まった。確か、A級ディンギー1艘ともう一艘を葉山にある学習院の女子のヨット部から借りてくる。村口先輩の奥様が、この部の出身で口をきいてもらえたらしい。整備した船に乗れるぞと勇んで出かけたのだが、船に乗るのは先輩達、夕暮れ近く成って、少しだけ乗せてもらえた。と云っても当初は操縦できるわけでないから、操縦を教わることになる。

180213

よい天気

渋谷乗り換えで、
等々力
渋谷駅の動線はまだまだだが、
一頃よりはだいぶ簡潔になってきた

帰りに書店による

から大分経つが
まだ所々にが残っている
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青いレモン 番外編 044 研究の手伝い=修論の実験 
よく遊んだし、先生が研究室から独立させたデザインシステムの設計の仕事も手伝った。日建設計や先輩の村口さんの事務所でアルバイトもしたし、成田の国際空港の計画も手伝った。修論も修士一年で修論のデーターはほぼ揃え終わった。と云ってもこれは瀬尾さんの博士論文とのつながりがあったからそれができたといえる。雨仕舞いの実験のために風洞が使える草加の建材試験センターへ車で通った。朝、建研によって瀬尾さんを拾い書類や道具を積み込んで草加に向かう。建研の瀬尾研究室の助手の確か依田さん(字は不確か)が一緒の時もあった。建材試験センターでは、大和久さんという研究員が対応してくれた。日曜日も休まず随分通った。日曜日は、実験棟の鍵を預かって実験した。装置の電源の入れ方が分からず数時間無駄にしたこともあった。
高速度カメラを借りてきて、水滴の飛ぶ様子をとろうとしたが、これがなかなか難しい。径が十数㎝あるフイルムのロールがあっと言う間に流れて撮影が終わってしまう。始めは分からず試しに動かしてみたら、あっと言う間に1巻分フィルムが流れ何も写さず無駄にしてしまった。そのあっと言う間にカメラの先で水滴が上手く飛んでくれればよいのだがそうは上手くいかない。何本か無駄にしてやっと何とかそれらしいものが撮れた。
実験はコンクリートのプレハブ化されたカーテンウォールの目地を対象にしたもので、10キロ弱の目地の形状・寸法を様々に変化させた試験体を風洞の前面に数列、5~6段重ねて壁状に組み立て、風圧を掛け水を散布する。水量は計算上かなり多くなったが、実際の壁面では降った雨の大半は壁に到達せずに吹き飛ばされてしまい、それほど多く成らないと云うことがだいぶ後で分かった。
それはともかく、実験が終了し、コンクリートの試験体をばらしているときに、その全体で数百キロあると思われるコンクリート壁が崩壊した。要所、要所を建材試験センターの人が溶接して、ステーをとってくれたのだが、その溶接が十分でなかったらしい。幸い人はほんの僅か離れたところにいたため怪我人は出なかったが真下にいたらとんでもないことになっていただろうと冷や汗が出る。
当時、建材試験センターの風洞のある実験室は波形スレート張りの鉄骨造で、周囲に雑草が茂っていた。今年(2017年)、新しく実験棟が完成し見違える様になった。勿論風洞も最新型のものが設置された。


180212

真っ青な空
建国記念日の振替休日

北に向かって歩く
今日はだいたいこの辺りまで
練馬のお稲荷様
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今日の電線
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今日の小屋
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今日の夕焼け
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青いレモン 番外編 043 学科の引っ越し 
修士の1年になって、緑が丘地区に建築学科と、土木学科が入る建設棟ができ、建築学科は大岡山の本館の三階から、緑が丘の建設棟の3,4階に移り、清家研究室は3階。そのほか青木研究室、谷口研究室、平井研究室、学科会議室図書館があった。4階は構造材料系と設備系の研究室が入る。そして最上階の5階に新設の土木学科が入った。
多分この時の関わりで、宇都宮大学で、建築工学科に増設の話が来たときに、丹さんは土木工学をつくったのだと思う。何回も丹さんはよかったのだと繰り返して云われていたが、それまでの宇都宮大学の流れからすると、機械に精密機械、化学に応用化学、電気に電子という増え方をしているから建築関係の学科を増設すべきだと思った。選挙や学科の力配分などで、成功したとは思えないしやはり土木とはそう仲良くやっていくことができなかったような気がする。しかし、最初に来られた土木先生方は、土木工学科を建築がつくってくれたということも多少あり非常に協調的な印象があった。須賀先生、阿部先生など。
話は戻るが、建築学科が緑が丘に移り、大岡山では少し広めの一部屋だった研究室が、清家先生の部屋、武井助手の部屋、学生の大部屋、地下の実験室に増えた。特に地下の実験室はエレベーター室の脇にあり、一部が地階から3階まで吹き抜けていて真上から地下室の観察写真を撮ることができた。
緑が丘に移って間もなく北大を卒業した石田くんが大学院生として仲間に加わった。 
修士の一年は70才過ぎは別にして、人生で一番自由な一年だったと思う。当時、大学院の授業は殆どなく週数時間で、その上休講も多かった。昼間から横浜の元町辺りに出かけることもままあり、研究室で剣玉が流行ったのもその頃である。勿論、夏はヨットに明け暮れた。
構造系の連中は先輩の論文や、研究室の委託実験を手伝っていた。時々手が足りなくてかり出されたが、当時高張力ボルトが使われ出した時期で、それを使った鉄骨の構造体に荷重をかける実験が多く、ボルト部分がずれるとどっきっとする様な音がするのであまり好きでなかったが、当時はまだまだ実験も人力に頼るところが多く、ダイヤルゲージを読む人数が足らず良くかり出された。実験が終わると親子丼とかカツ丼とか天丼がでた。

180211

昨夜少し雨が降ったが
回復している

寒さが少し薄らいだ感じだが、
まだ二月の半ば

今日は中野たてもの応援団
白鷺の茅葺き民家のお掃除会
その後コア会議

青いレモン 番外編 042 大学院にはいって 修士 アトリエオメガのことⅢ 
瀬尾さんが最年長であり、理論家であり、かなり自分の好みを押し通す。幾つかのプロジェクトはそれで対応してかなり面白いものができたが、実施設計となると、デザイン上、施主を無理やり説得する様なことになるのだが、必ずかなりの予算オーバーに成り、話が進まなくなる。
それでも建研が大久保に在ったときは交流が持て予算との調整をしながら十分に時間が掛けられ創作活動も盛んに行われたが、筑波に移るとそうはいかない。そんなこともあって、次第に個人的に来た話は個人的に対応するようになる。僕は下北沢の改修や、The Two Pairs House、小玉くんは浦さんの家やコンクリートブロックの小住宅など。
そのうち僕も宇都宮大学に移ったし、お互いの往き来はなかなか難しくなる。それでも渋谷にある永井くんのアトリエを基点にいくつかのプロジェクトを進めることができた。郡リースという仮設業からの依頼だったと思うが、7Daysという仮設用のプレハブシステムを使ったプロジェクトもそのひとつで、札幌にモデルハウスが建った。
また、建研の調査研究と関連した長谷川工務店の開発の仕事にかこつけてのマンションのファサード計画、これはむやむやになってしまったが、計画地であった古河に数年後、長谷川工務店によって我々が絵に描いた様な建物が建ったため一寸腑に落ちない気持ちが残った。打ち合わせのために僕が筑波にいき泊まりになることもあった。公務員の宿泊施設があり安く泊まれた。鉄筋コンクリートの立派な建物で、浴衣が自立するほど糊が効いていたのが印象に残っている。
インドのコンペの時は、瀬尾さんが数回宇都宮に泊まりがけで来て、何とかプロジェクトを仕上げて模型をインドに送ったのに届いたのか届かなかったのか返事が全く来なかった。その後、各自かなり忙しくなりこれと云ったアトリエ・オメガとしての創作活動ができなくなった。永井くんとはそれからも明和園の設計や、アジア学園の設計で繋がっていた。また市ヶ谷出版の本のことでやりとりがあったが、そのうち原因は分からないのだが電話を掛けても「この電話はお受けできません」と拒否される様に成り、意図的なものではないと思いながら疎遠になってしまい今は年賀状だけのやりとりになってしまった。
そのうち瀬尾さんも建研をやめ名古屋の大同大学の先生になり、あまり会う機会もなく滋賀であった建築学会の大会の会場で立ち話をしたのが最後になってしまった。
瀬尾さんが亡くなり、小玉にどうしたのと聞いたら例によってぼそぼそという、聞き直したが分からずそのうち分かるだろうとそのままになってしまった。宇都宮大学を退職したあとセキスイの新構法開発研究会で、2時間近くしゃべらされたが、アトリエΩのことを纏めて他人の前で話したのはこの時が初めてである。
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訃報 瀬尾文彰先生がなくなられました 2008.7.5
訃報 さる(平成20年(2008)*小西追記)6月4日に、昨年まで大同工業大学でがんばっておられた瀬尾文彰先生が亡くなられました。
瀬尾先生は、いわば山田を後継指名して、瀬尾さんのアドバイスをいただきながら、がんばろうと思っていたところでした。残念の極みです。5月6日に大同の山田、光田、清水の若手と一緒にお別れ会をかね食事をし、5月12日にNPOリングでお別れ会を行いました。私に常々、いつ死んでもいい、長生きしすぎた、といっておられましたが・・・
5月末に旅先から電話がありました。元気がなかったので心配しておりましたが、その電話の後、すぐ亡くなったと言うことです。
おそらく、山田は、最後に話をした、人物かもしれません。
ただ、瀬尾先生は、日本の一番いいときに生き、やることはすべてやってしまい、思い残すことはないと本人も断言していました。
なので、瀬尾先生自身はまったく悔いのない人生で、幸せだったと思います。
瀬尾先生らしく、本日なくなった旨の連絡が入りました。1ヶ月は誰にも言うなという遺言があったんだと思います。
瀬尾先生は偉大な方です。建築界にとって、彼を失った喪失感は計り知れないと同時に、われわれが受け入れなければいけない、世代交代の責任を感じるものでもあります。
いずれにせよ、山田ががんばることが、瀬尾先生にできる最大の恩返しだと思います。 こころから、ご冥福を祈ります。
山田幸司
建築家 名古屋を中心に活動中!
当時、大同工業大学建築学科准教授

180210

よい天気だ
夕方から小雨

修復塾
関東甲信越支部
第3回現地講習会
目黒区役所にて
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恵比寿から区役所まで歩く
地下通路入口
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今日のガスメーター
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今日のマンホール
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今日の電信柱
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帰りに中目黒で打ち上げ
ほとんど濡れずに帰れた

格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。
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特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 番外編  041 大学院にはいって 修士 アトリエオメガのことⅡ
稼ぎがないので、始めはやはりメンバーで3年の先輩の渡会さんが大久保のアパートに住んでいたので、その一部を間借り、次に古沢さんのアパートを間借りし、一週間に一二度集まった。甲斐さんの名前で出したセントラル硝子のコンペでは入賞、次の年は佳作に、北海道100年記念タワーでは結構よいところまで残った。何でよいところまで行ったと分かったかというと、審査が終わってから、審査に用いた透視図の写真が一緒に送り返されてきた。やはりそのコンペに出した建研の茶谷さんが、何故うちには写真が来ないのだと文句を言ったら、最終審査のための写真だと分かった。決定的な入賞は暫くなかったが、どれもかなりよいところまで残り手応えを感じてコンペ参加を続けていた。そのうち桑沢の遠藤さんのツテで、永井くんが加わる。後になって一時期は永井君の事務所にアトリエΩが寄生していたこともある。日仏共同のコンペに入選、永井くんが半年だか一年だか入賞のご褒美としてのパリ研修に行く。Gコラム、新大久保再開発計画、建築会館、軽井沢のレーモンドの夏の家の跡地の計画、などなど、しかし実施設計にはなかなか結びつかなかった。夢を追いすぎていたのかも知れないが、よい施主に巡り会わなかったともいえる。ごく普通の建築を望んでいるところに、そう望んでいる人にはとても特異に見える案が持ち込まれ、更に必ず予算オーバーする。それでも四谷三丁目の複合ビルやコンビニの入った小さなマンションなどいくつかが実現され雑誌にも掲載された。

180209

穏やかな冬の陽
でも寒い

中野たてもの応援団のガード下展示
もう一ケースにも展示
今月は充実
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午後、JIA中野地域会の来週のまちあるきの下見
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アドバイスにより一カ所見て回るところが増えて
よい比較になる
面白い!
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青いレモン 番外編  040 大学院にはいって 修士 アトリエオメガのことⅠ
大学を卒業して暫くした頃、その年の4月1日に清家研の助手をやめて、建設省建築研究所に勤めることになった瀬尾さんから連絡があった。建研に遊びに来いという。瀬尾さんは製図の提出期限に厳しいし、そんなにいい印象はなかった。それでも、その頃建研は大久保にあり家から近かったので、ふらりと覗きに行った。一緒に仕事をしようということであった。そんな話をちらりと研究室で聞いたような気もしたが、余り本気で受け止めてなかった。何か、事務所ビルの課題の図面を見て何か感じたと云うことらしい。多少、工業生産的な繰り返しをもつ形態のファサードだったがそのことを盛んに評価してくれた。
瀬尾さんは清家研究室の4年先輩。瀬尾さんは瀬尾さんなりに設計事務所の姿を夢に描いていたようだ。
いろいろあったが、次第に何人かが集まり、人の出入りも多少あったが、この集まりはかなり長い間続いた。コンペに参加したりプロジェクトを新建築や建築文化に発表した。二年先輩の甲斐さん、渡会さん、一年後輩の松野くんなどが加わった。小玉くんが建研に行ってから彼も加わり、彼の研究テーマであるパッシブソーラーの考え方がかなり強く反映されるようになった。清家研究室の事務を担当していたマンマルさん(当時タケトウさん)も時々遊びに来た。さらに瀬尾さんの武蔵高校の同級生の舞踏評論家の古沢さんも加わった。
そのほか、一時的に参加した人達はかなりの人数であった。
暫く経ってからだが、事務所の名前は“アトリエ・オメガ”と決まった。

オメガ、Ωについては、アトリエφを意識したところもあるが、清家研究室の持ち船のディンギーとシーガルにギリシャ名が付いていたことも影響している。

180208

北陸の方は大雪で大変なようだが、
東京は相変わらずのよい天気

見る間に日が経っていくのが恐ろしい

沼袋ガストで打ち合わせ

歴史民俗資料館による
絵馬紙絵馬
戌の絵馬は昭和18年に静岡県清水市の29才の戌年の男性が奉納している。
生きていれば100才を超えている
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今日の民家
180208-07.jpg 始めて気が付いたけどなかなか良い

今日の
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今日のガスメーター
180208-08.jpg 180208-10.jpg 右の方は14基ならんでいる

JIAまちあるきのチラシが貼ってある
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青いレモン 番外編 039 そのほかのバイトの話 3 成田空港の手伝い
研究室の先輩で大手設計事務所に勤めていた高橋さんから連絡があり、設計の仕事があるから手伝って欲しいのだという。とにかく来いというところまで行った。設計室はその大手設計事務所でなく、その設計のために特別に独立した場所が用意されていた。設計対象は、成田空港であった。隔離された場所というのも反対運動に対する対策らしい。
身分を書いて手続きをするのだが履歴書や誓約書を出すなど、バイトとしてはいろいろ面倒である。あとから成田空港騒ぎのことを考えると成るほどと思うが、当時はあれほどの反対運動が激しくなるとは思っていなかった。
バイトで来ていた人の中に騒がしい男がひとり。紙をめくったり、三角定規をおいたりそのたびに音を出す。ぴしっぴしっと元気よく仕事を決めていくのは、何か元気があって、働いているように見えて良いのだが、どうも気になる。そう思っているのは僕だけかと思っていいたら誰もがそう思っていたらしくまとめ役の人から注意され静かになった。そして暫くして来なくなってしまった。
仕事の方は対象が大きすぎて、何処にどう関係していたかよく覚えていない。形状は意外とシンプルなのだが、動線が2重3重になっていて意外と複雑だったのを覚えている。バイトは毎日ではなかったが、週に何日か数ヶ月お手伝いをしたとおもう。

180207

相変わらずの天気
西高東低
日本海側は大変なようだ

点のようにまだが残っている
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農地の日影はまだ白い
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泉光山 蓮花寺
池の水は見事に一面凍っている
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蓮花寺の池から妙正寺池までの水路
暗渠になっており、
今はふさがれているが、
昔は塀に沿って(緑のネットの向こうが歩けた)
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大和保育園仮園舎
先日鉄骨の立ち上げたばかりなのに
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青いレモン 番外編 038 そのほかのバイトの話 2 ワンゲルの山小屋 
山下さんのワンゲルの山小屋造りの手伝いを石田さんと付き合う。
山下和正さんは、東工大でワンゲルだったらしい。大菩薩峠にワンゲルの山小屋を作ると云うことになったらしく、その設計を山下さんがやられた。正面から見たエレベーションが正三角形の山小屋で、確か鉄骨造でヘーベルかシポレックスを貼る構造だったと思う。
最初は山下さんと電車で行き、工務店の人に現地まで付き合ってもらったように記憶している。確か最寄りの駅は中央線の塩山駅で、山下さん曰く駅の近くの酒屋で買うと葡萄酒が安くて美味しいという。帰りに一升瓶の葡萄酒を買って帰った。正確な値段は忘れたが、一本300円ぐらいだったと思う。駅の売店の数分の一の値段である。二度目からは大菩薩峠まで車で行きそこに車をデポし、歩いて上がった。勿論帰りに葡萄酒も買って帰った。
当初は建築材料の運搬は、工務店が行うことになっていたが、峠から敷地までは車が入れない。こんな車も入れない山道はとても無理でと云うことで、予算の関係もあって、部員が運搬することになった。山下さんが、ALCは水に浮くほど軽いと熱弁をふるっていたのを思い出す。石田さんと私はこの運搬にはかかわらなかったが、小さいとは云っても建物ひとつ分の建築材料の荷揚げである。鉄骨も重いしALCもいくら水に浮くと云っても200キロは200キロである。重い。凄まじい労働になったのだと思う。次の年からワンゲルの部員は激減したと聞く。正面の開口が正三角形で開けるとバルコニーになり、ワイヤーで開け閉めを行う。工事中も何回か足を運んだが、その後、荷揚げのこともあって完成には大分時間が掛かったので完成した姿を知らないし、山小屋を利用したこともない。山下さんは暫くして、日建設計をやめ独立された。

180206

今日も天気だ
風もなく空は青く寒い

昨日、津和地島の新タマネギを食べた
ほとんど辛くない
これを取り寄せてみたのは、先日ペルシャ料理を食べに行って、
そこに付いているべきタマネギを思い出したからである
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テヘランでチェロキャバブを食べたときには、
必ずタマネギがまるごと添えてあり
それをかじりながら、
キャバブが載っかったご飯を食べた
それが唯一の野菜だった
このタマネギでまたイラン料理を食べたいな

朝日ジャーナル(1966.7.3)自動車の安全性論争
アメリカの実例が教えるもの
アメリカで、11分にひとりが死亡
安全性が大切
しかし、アメリカのメーカーの本音が暴露されている
・そんなことに消費者が金を出さない
・安全かも知れないが無様な車が売れるとは思えない
トヨタで聞けば、早くも安全対策委員会を新設しとある

週刊朝日 日付がないが、記事から昭和48年(1973)と分かるには
50回目の関東大震災記念日「大地震、東京を直撃!!」とある特集
過密と文明は、都民のアウシュビッツだった
せまい避難地決まらぬ避難路 危険箇所ととの対策を総点検する
その後これらは解決しただろうか?

また、更地
鉄筋コンクリートの倉庫みたいな地上階があり
その上に住宅が載っていたが
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今日の夕焼け雲
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今日の公園
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美鳩公園
通称、鳩ぽっぽ公園
公園には鳩が何匹いるでしょう?

青いレモン 番外編 037 日建設計のバイトの話 2 
日建設計には林昌二さんを始め先輩が沢山おられて、随分アルバイトをさせて頂いた。上に書いた、山下さんには競馬場のコンペの他にも何回かお世話になった。複雑な敷地で、斜線制限のどんな風に掛かるか?と云うよりもその結果その斜線制限で切られた形がどうなって、どう見えるのか?面白ければそれをそのままデザインに活かせないかと云うことで、斜線制限の枠組みを針金でつくらされた。結果として、なかなか面白いと云うことで、その複雑な形そのまま建物の形になったと後になって聞かされたがその建物を見に行っていない。場所は斜線制限を調べるときに地図を見ていたから知っていたはずだが、忘れてしまった。
山下さんは十歳い位先輩だが、2,3才上の宮川さんにも何遍か手伝いを頼まれた。高蔵寺の団地の建物配置について結構好きにやらせて頂いた。余計なことだが、よく覚えているのは、タイムレコーダーのカードを作れといわれ、そんなのいやだと云ったのだが、つくらされた。そして、悪知恵を教わった。もう時効だろう。朝、行ってタイムレコーダーを記録し、それから大学に行き、授業を受けてから戻る。その間仕事をしていることになる。仕事も面白く勉強になりその上、申し訳ないが稼がせて頂いた。
団地の建物はエレベーターをつけなくて済むような階数で、羊羹のような直方体の建物と、設計室ではポイントと呼んでいた塔状の建物の組み合わせで構成されていた。そのほかに低層の集会室などがつくられるが。傾斜のある複雑な地形のところに日射や景観、風通し、眺望などを考えて配置を考える。最近、野方の小さな団地で、スターハウスがあると大騒ぎでもないが話題になっていたが、これはその頃、団地の建物配置に変化をつけたいときや、視野を確保したいときによく利用した塔状の建物で、へぇ~そんなに珍しいのと思ってしまった。 

180205

青空のよい天気である
微風あり

夕方になってもまだが一寸だけ僅かに残る
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コピーをとりに新宿へ、
その後、明大前回りで久我山
久我山から西荻窪まで歩く

新宿で、空が青い!
センタービルの周りや下をうろうろ歩かされる
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久我山の緑の家
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久我山の民家
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今日の夕日
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青いレモン 番外編 036 日建設計のバイトの話 1 
4年生の頃か?修士の1年の時か?松野君もいたから多分4年で彼が3年の頃だと思う。よく覚えていないが府中の競馬場の指名コンペを受けた日建設計のお手伝いをした。この時は、林昌二さんのグループの山下和正さんがチーフで、林さんにも始めと終わりにお会いした。実に優雅で楽しいアルバイトをさせて頂いた。コンペは独立採算らしく、毎日夕食を食べに行くのだが、今日は上寿司、明くる日は鰻、次の日は極上天丼と云った具合だった。
下から上まで連続した階段状の観客席でなく、重層になった観客席にしようと云うことになった。避難を考えると裏側に凄い幅の階段が必要になるが、その階段もデザイン要素に組み入れた。競馬場の中に既設の掲示板が立っていて動かせないが、それが邪魔して大切な最終コーナーが見えない観客席ができそうだという、その位置を図法的に割り出すのが最初に与えられた仕事。ゴールから観客席を見たパースを考えることで解決。
山下さんはイギリス帰りで、コンペの合間に時間を作りイギリスのスライドを見せて頂いた。スターリングの名前を知ったのもその時だと思う。
コンペの後半はほぼ決まったデザインにしたがって形を整えていく。書類づくりのための模型写真も重要であり、ヤマネ模型に外注することになった。その施工監督を任された。確か池袋の近くの会社で、建築だけでなく船や公園などの模型もつくっている。全体模型の他、構法を示す部分模型もつくることになったが、おかげで模型造りの段取りの仕方、精度の出し方、繰り返し使う部品の作り方などプロなりの工夫を間近に見ることができ勉強になった。この時の模型は、バルサを用いた模型であったが、石膏の模型や、金属を使った船の模型なども別のテーブルでつくられており、そちらも見させて頂いた。
仕事としては、進捗状況を把握し、図面通りにつくられているかチェックし、ディテールの説明をすればよいのだが、実際の現場と同じで、設計変更があると大変である。模型の現場も大騒ぎになる。それでもそんな大騒ぎは1,2度だけで模型が完成する。次はその模型の写真撮影。
また模型写真とは別にパースも用意する。
日建設計に森さん(確かそう記憶している)といわれるパースの専門家がいる。もとは設計をやっていたそうだが、あまりにもパースが上手いので、いつの間にかそれが仕事になってしまったという。何十年か経ち、その森さんの作品展が建築学会の一階ホールであり、森さんと昔話をさせて頂いた。
後日談であるが、この指名コンペは、残念ながら競馬場を一番多く手掛けていた確か山下設計にとられ、日建には来なかった。しかし、指名されて完成して設計案の中で、その当選案と日建設計の案が重層形式の案であったと記憶している。


180204

今日もまずまずの天気
慣れてきたのか寒さはそれほど感じない
2月になり見る間に日にちが経っていく
もいよいよ無くなってきた
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正月の名残
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ものの本にある(上田秀人 禁裏付雅帳五 p.131)
「十年先を見越せない者に政を任せてはいけない」
過去を経験にできない者を政にかかわらせてはいけない」
これはいつの世にも守らなければならない不文律であった。
流れの激しき時代十年先を見越すのは難しいかも知れないが、
やはり先を見越す目をもたない者に政を任せるべきではない
そして、
悲惨な日本の過去を経験にできない者が政にかかわっているとしたら
恐ろしいことだ

今日の道祖神
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今日の花
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サンシュ・ロウバイ

青いレモン 番外編 035 研究室の事務 
清家研究室は対外的な仕事が多く、先生から頼まれて事務的なことを処理する女性がいた。わたし個人に関する話はおいておくとするが、たいてい先生とつながりある方のお嬢さんであった。イワモトさん、文ちゃん、シンジさん、タケトウさん、モトヤマさん、コナガヤさん、アソウさん、大木さん・・・・・モトヤマさんからあとは緑が丘に建築が移ってからのメンバーである。大木さんはデザインシステムが主体。本人達の意思はともかく彼女の親御さんは、お婿さん捜しの思惑があったようだ。イランから帰ってきてから暫くは、タケトウさんが居たような気がする。コナガヤさんはヤマギワの小長谷さん。何方かの住宅の照明器具を注文に行ったとき、担当者が上司を呼んできてなんだか知らないうちに、鰻をご馳走になってしまった。設計した住宅の照明にはほとんどヤマギワを用いていた。しかし、鰻をわざわざご馳走になると云うのも何か解せない。食べているうちに次第に明らかになったのだが、その頃はもう研究室は辞めていたが、小長谷さんのフィアンセと私の苗字が同じだったことに起因していたようだ。アソウさんは清家先生が芸大に半分移られた頃かと思うが、有名なアソウさんのお嬢さんと聞いた。冬夏会の事務もかかわっていたような気がするが定かではない。清家先生が完全に芸大に移られてから、芸大ではどうなっていたか分からないが、女性の秘書は、大木さんのようにデザインシステムで、仕事をするようになったと思う。

180203

まあまあの天気というところか
家の周りのは少なくなったが、
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屋根から落ちたが山になり
まだだいぶ残っている
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保護樹木 173号 ムクノキ
枯れてからもう大分経つが表示がそのま
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今日のガスメーター
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今日の猫の散歩
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青いレモン 番外編 034 よるの研究室巡り 
卒業設計の頃か?次第に忙しくなり大学に遅くまで居るようになる。4年生になると研究室の鍵がもらえる。鍵はもらえなくとも鍵のありかを教えてもらえる。夜中になって、誰もいなくなった頃、10人ぐらいが集まって、研究室巡りをしたことがある。一晩では見きれなかったので、数晩続いたと思う。誰かが自分の研究室を開けて、中に入り、その後ぞろぞろと後に続く。それまでは、レポートを出しに行くときに一寸中を覗くくらいで、他の研究室のことは全くしらない。ただ入ってきょろきょろして、でてくるだけなのだが、なかなか面白い。ものがいっぱい詰まっている研究室もあれば、閑散とした感じの研究室もある。また、散らかっている部屋もあれば、整理整頓がなされている部屋もある。机の並べ方も様々だし、先生の机の位置や向きも研究室によって全く違う。一部屋にまとまっている研究室もあれば、連続した複数の部屋から成っていいる研究室もある。これは既存の建物を使うのだからしょうがないが、その使い方が先生方の性格をよく表していると思った。やはり計画系の研究室は視覚的に楽しそうだし、構造材料系の先生方の部屋は殺風景である。東南の隅に建築史の藤岡道夫先生の部屋があったが、ここだけはやたら天井が高かった。研究室の中にはもらい物かクッキーなどが沢山あって、自由に食べていいことになっているから食べて行けというような部屋もあった。

180202

またが降っている
一寸積もってはいるが、
先日とは違って、
うちの辺りでは、
雨で濡れていたから積もり方が違う

午後にはも止む

日本建築仕上学会の会議
終了後、東京駅経由で
荻窪へ
一次会がそろそろ終わるところ

青いレモン 番外編 033 研究室の仕事の手伝い 
研究室の手伝いは随分とさせてもらった。四年の頃の居場所は製図室で、持ち物も大体そこに置いていた。凡研にも机があった。清家研究室は、実務の仕事が多く、東名のサービスエリアだの水族館、都美術館、東工大の80周年記念棟など大忙しであった。研究室に行くと先生がおられるときもあった、機嫌がよいときは、先生がひとりでにこにこしながらしゃべり、廻りでみな聞き入っていた。たいてい30分か小一時間ほどしゃべって、じゃあね、何かあったら自宅にいるからね云ってと帰られる。ご自宅は近く車だと10分は掛からない。
だいたいにこにこしておられるのだが、いつも機嫌が良いとは限らない。悪いときには灰皿に吸い殻があっても汚い、曲がっていてもタバコはいやだねと・・・・・とりつく島もない。
当時は大学院生は少ない時代で、研究室の仕事は、主として卒業生が工業振興会の嘱託という位置づけで行っていた。4年生になった頃から学生紛争が次第にあらわになり、大学院に進んだ頃には研究室でやっていた設計の仕事は、大学外にデザインシステムをつくり分けざるを得なくなった。多分建築棟ができ学科が緑が丘に移ると同時に佐藤さん、村口さん、角永さんなどデザインシステムのメンバーが大学からいなくなる。それは少し先の話。
本館時代、研究での事務は文ちゃん、時々宮坂先生が顔を出す。谷口先生は清家研究室には滅多に顔を出されなかった。篠原先生も清家研出身のはずだが、研究室では一度も顔を見なかった。
本館に研究室があった頃、大岡山の商店街が近く、昼を一緒に食べに行った。たいていあたり屋で、帰りにパチンコ屋による。10年近く先輩の村口さんが好きで皆もつられていくような感じだった。その頃は弾を一発ずつ指で穴に送りこまなけらばならず、上手くなると面上に6つぐらい弾を浮かせられるのだが時間つぶしには一発ずつ落とし込んでゆっくりやるのがよい。それでもたまに少しはでることがあってタバコなどの景品に換えた。そういえば大岡山の南口にもパチンコ屋が2軒、スマートボールの店も1軒あった。

180201

今日もよい天気だ
久しぶりに朝から用事

新宿でARI先生を偲ぶ会の打ち合わせ
会は四月に母校で

この間、小学校以来の友人のJ君が
遠路歩いて
高校卒業時の文集を見つけたと届けてくれた
企画したのが僕なのではないかと思ったらしいが、
実はYMS君だった
大学進学、大学受験などの時期
クラスメイトの心の高まりが伝わってくる
不安、安心感、、抱負、一寸冷めた言動、気取った文など
胸に迫る思いで読んだ
できてすぐに一度は読んだはずなのに
正確に覚えていたのは最後の“ウエストサイド物語ははくかった”だけだ
何故、これだけ覚えていたのか分からない
昭和37(1962)年、今から54年前
中身もさることながら、
巻物になっているところが凄い
J君ありがとう!
180201-02.jpg 180201-03.jpg 目次

青いレモン 番外編 032 北海道で山スキー 
途中まで電車かバスを利用して山に入る、この時もヘルベチアヒュッテに寄ったような気もするが記憶が定かでない。天気はまあまあだったような気がする。ピーカンだったという記憶もないし、吹雪やガスで眺望がなかったという思いもない。
辺り一面真っ白な林の中、起伏を地図で見極めながら登っていく。この辺りは植林された森らしく、樹木は整然と並び所々伐採された明るい空間ができている。長さ幅ともに百数十メートルで適当に傾斜がある。
ここでまず滑ろうという。伐採されたところと云っても切り株など全く支障にならないほど雪は十分に積もっている。荷物を置いてシールを外しまず彼が滑り降りる。回転しながら下まで降りて上を振り向きにゃっと笑う、降りてこいと云うことらしい。よしと云うことで滑り出す。最初は我々が立っていたところで、多少雪も踏んである。気持ちよく右に曲がる(癖で何もないとまず右に曲がってスタート)。次に左に曲がろうとストックをさし、抜重すると底がない。そのまま前に転がり雪の中に埋もれる。要するに全く底がないほど深く柔らかい新雪なのだ。一寸転んだだけで体全体が新雪の中に埋まってしまう。確かにストックに革紐などあったら起き上がれなくなる。雪の中から這い出ると川道がざま-見ろといった顔でこっちを見て笑っている。そうか川道はトップを振って曲がっていたな!踵をあげて抜重してはいけないのだと分かる。何遍か滑って頭から新雪に突っ込むことを繰り返しながらトップを振って曲がることを会得し何とか様になってくる。そうなると新雪の中を滑るのが面白い。一本滑ってラッセルしながら出発点の高さまで上がるのはなかなかしんどい。それを繰り返しているうちに、その伐採地のスロープは二人のシュプールで埋まってしまった。荷物を担いで、林の中を歩くしばらく行くとまた別の伐採地がある。ここを滑りつくしまた次にと繰り返す。勿論、昼も食べ、あまり暗くなる前に雪洞を掘り夕食。かなり消耗していたらしくぐっすりと朝まで眠る。翌朝はパンを食べて、出発し、昨日同様に伐採地を探して滑る。

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konishikonishi

Author:konishikonishi
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