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180131

相変わらず
真っ青な空
一月もいよいよ今日で終わりだ

ビットコイン流出については流れが分かったというが、
盗られた方も取り返せず
盗った方も使えず
動いた分は塩漬けになるとか

今日のお昼
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我が家のはだいぶ融けて、
木の上の三つのも消えた
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東西方向の細い道には
まだまだが残っている
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の公園
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今日のガスメーター
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今日はスーパームーン皆既月食とか
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青いレモン 番外編  31 北海道へスキー 
川道から冬の札幌へ来い。スキーをやろうと云う。川道は高校山岳部の時のスキーの腕はそれほどではなかったと記憶しているが、噂では、かなりスキーが上手くなったという。あの川道が!是非とも見てみたい。
スキーを担いで、連絡船に乗り札幌へ。丸山公園の近くの郵便局の2階が彼の下宿。その頃はまだ酒飲みではなく、ただ積もる話を夜遅くまでした。山に籠もるときに荷物を軽くするためにパンツを裏表方向を変えて穿くと6回穿けるなどというキタネ~話を聞いたのもその時か?
明くる日は丸山の裏山で滑った。本当に郵便局の裏がスキー場。もっともリフトはなかったが、霧ヶ峰でスキーを履いて登るのには慣れていたので、苦もなく楽しめた。下は適度に硬くその上に新雪が15㎝ぐらい積もっていて絶好のコンディション。この程度の新雪ならば、今までの技術が活かせる。しかに川道は確かに上手くなっているのだが、滑り方なんとなく普通ではない。スキーのテールを滑らすのではなく、後傾気味の姿勢を保ったままで、スキーのトップを右左の振りながら曲がる。見慣れないスタイルだが、なかなか上手い。これが北大スタイルらしい。明くる日は近くのリフトのあるスキー場に行った。手稲ではなかったかと思うがうろ覚えである。
北大の山岳部の話や、岩登りの話、小樽近くの海岸に面した岩を登って、終われば下で海水浴となかなか楽しそうだ。しかし、確か川道泳げなかったのではないかと記憶していたので確かめたところ。泳げる様になったらしい。スキーといい水泳といい知らぬ間に人間進歩するものだと思った。一日スキー場で滑って、明くる日から雪洞掘って奥手稲に滑りにいこうと云うことになった。山スキーも興味あったが、その頃北大の山岳部は独自な登り方をしていると聞いたので、是非ともそれを知りたいと思った。
彼の下宿は、郵便局の2階で、恐ろしく散らかっていた。確か夏来たときは、まだ恵迪寮にいたと思う。部屋を出た廊下の隅の小さな檻にエゾリスが飼われていた。細長い部屋でかなり面積があった様におぼえている。テントが要らないから荷物もそれほど大きくなくて済む。食料は朝はフランスパンだったと思うが、昼夜はインスタントラーメンにマーガリン。一食分のマーガリンがかなりの塊。北大山岳部の計算ではこれでカロリーは十分だとのこと。あと少々の乾燥野菜で、これも自分たちでつくったものである。テルモス(魔法瓶)と衣類。それと北大の山スキー用のストックを借りた。革紐などあると転んだとき起き上がれないのだそうだが、どういう意味か分からなかった。
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180130

今日もよい天気だ
一月もいよいよあと二日
雪はまだ残っている
朝、が来た
毎年来てくれる
結構強い!尾長を追っ払って餌を食べていた。
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今日の小屋
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今日の花
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青いレモン 番外編 030 スキー仲間 
建築の仲間が中心なのだが、その友達の友達なども入れて、スキー仲間ができた。
コバとその部活の高校の知り合いのダンナ、部はサッカーで高校は西、スオウもいた、もちろん建築のクマもいた、彼らとは、春休み、ゴールデンウイークとよくスキーに行った。最後の方では同じヤッケをあつらえて一緒に滑った。皆そこそこに上手かったが、年とともに凝り性のダンナが抜きにでた。
勿論、普通の冬や春のスキーシーズンにも行くのだが、一番印象に残っているのはゴールデンウイークのスキー行だ。北アルプスの八方尾根、八甲田、谷川、月山と何台かの車に分乗して出かけた。みんなの趣向や意見を取り入れ段取りはこまめなクマがやってくれる。
さすがに北海道までは行かなかったが、ゴールデンウイークをフルに活用して滑った。
八甲田の時は酸ガ湯温泉を基地に頂上近くの無人の山小屋まで荷物を担ぎ上げそこに泊まってスキーをした。ゴールデンウイークの頃、東北は芝桜が満開で、農家の土手などがピンク色に染まっていた。月山の時は羽黒山まで足を伸ばした。その頃スオウは発売間もないロータリーエンジンの車に乗っていた。ガスも喰うが、とにかく加速が凄かった。事故もなく怪我もなく何年も続いたスキー行もいつの間にか行かなくなってしまったが、最後の方で、タバコをやめて、体重が10キロ増えていたのに気付かず、新雪滑降を支えきれずにみっともなく何度も転んだのを覚えている。宿に帰り風呂に入るとき体重計にたまたま載ったら、何年も変わらず65キロだった体重が75キロになっている。その頃の車は、エンジンオイルの補充が必要だったが、オイルの1リットル缶を腰の周りに10個提げて滑っていることを想像して、そうなんだと納得した。今だったら、1リットルのペットボトル10個を想像したのではないだろうか。
特にダイエットしてわけではないので、体重が元に戻ったのは約十年後であった。
新雪のスキーの醍醐味を北海道の川道に教わったのを前の年に皆に教え、それで流行ったわけだが、この年は皆が快適に新雪を楽しんでいる中、一人転がってい悔しい思いをしていた。その北海道の新雪スキーの話は次の通り。

180129

相変わらず天気はよく寒い
はだいぶ無くなったがまだ道路脇にのけたが残っている
宇都宮に行った年か
その次の年か
暮れに降ったが、建築等の北側の日当たりの悪いところに残り
融ける前に次のが降って
春まで白いままであった
天気予報によるとまた今週、の予報?

はだいぶ融けてきたがまだ残っている
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計画道路都道227号線の脇
更地が増える
頑張っていたが左側はついに解体
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一軒だったところが4軒に
少子化・人口減少・・・・・
そのうち木造3階建てバブルがはじけるぞ
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中野のサンモールでアールビットの展示会
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区役所で、中野刑務所の門について相談

今日はペルシャ料理
本当に久しぶりで
1970年以来始めて
懐かしかった
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今日の開口部
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今日の花
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青いレモン 番外編 029 卒業設計 3 
一寸繰り返しになるが、暮れに卒業論文が終わるといよいよ学部最後の山場である卒業設計が始まる。暮れに卒業論文が終わり、テーマの提出があったと思うが、冬休みは卒業設計についての準備期間になる。僕は江戸城の外堀の上に連続した数キロにわたる長さの超高層の集合住宅を計画することにしたので、正月休みを利用して敷地となる外堀沿いに静かな東京の写真を撮って歩いた。今と比べると建物も低くお堀沿いに前の時代の風情が残っていた。図面A08枚が最低必要枚数。絶対に倍は描くぞと決めスケッチブックにエスキースを始める。当時、日本で初めての超高層ビルとして霞が関ビルが話題になっていた。大雑把に構造はそれに倣うことにし、高さもほぼ同じくらいにした。構造コアをつくりそれを大スパンでつなぎ巨大なユニットをつくり、ユニットを外堀の上に、外堀に沿って相互に柔らく繋いだ。大スパンを実現するために二層おきに一層分のトラスとし、住戸や他の施設も2層のメゾネット方式とした。
あとこの計画で楽しんだのは施設内の共通の交通システムで、水平方向ばかりでなく垂直方向にも移動が可能なものである。つまり、連続してできる垂直の格子状のレール上を走る乗り捨てのできるシステムである。当時はまだコンピューターの概念がそれほど一般的だなかったが、それと併用させれば、かなり実用化が図れたのではないかと思う。卒業設計の期間は1月始めから締め切りの3月始めまでだったと思う。当時は、CADなど無い時代である。全てケント紙に墨入れが常識であった。やっとロットリングとかステッドラーの製図ペンが普及しだした頃であったが、そのインクは染色系でなかったため、描いた線は光ってなかなか良かったが、細いペンはすぐ詰まった。激しく振るとインクが垂れる。完全に詰まると洗うなど処理に結構時間が費やされた。そんなこともあって、製図ペンと烏口をへいようしていた。
提出した各自の作品は廊下に張り出され、先生方が廻って採点をする。あとで聞いた話であるが、一人の先生を除いて、Aと評価して下さった。一人は全員にBをつけたとのこと。確実に終わったことを確認して、スキーに!

180128

今日の晴れ
やっぱり寒い

は残っているが着実に少しづつ融けている
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妙正寺川の北と南での残り方が全く違う
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イエスズ会まで足を伸ばす
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今日の
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今日の花
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青いレモン 番外編 028 卒業設計 ディプロマ 2 
当時卒業設計の紙のサイズはB1だったと思うが、かなり大きく、それを8枚揃えることが、最低条件であった。家でスケッチをし、ワーゲンで十時頃には大学に着き、夜中に帰る毎日が続いた。夜の環七を飛ばして帰り、毎日何人か送った。直接帰ると、昼間は1時間そこそこの道が、15分程度で帰れてしまう。これは本当に助かった。
最後の追い込みでは随分いろいろな人に助けてもらった。学科の後輩、学科外の友達、早稲田は既に卒業設計が終わっていたので、高校の時の同級生で、早稲田に行った友人が、仲間(その中のひとりの卒業設計が早稲田のその年の最優秀に選ばれた)を連れて助けに来てくれ、B1で16枚を完成させた。
卒業設計が終わった夜は24時間以上爆睡し、親を心配させた。しかしそれだけ寝られるのは若さだと思う。今はいくら無理しても6~7時間寝ると目が覚めてしまい疲れが取れない。作品は廊下に張り出され、先生方が、見て回り採点をする。おこがましくも、数枚連続した図面を連続して貼って欲しいと要求した。貼り出されたのみると階段室の壁を使い連続して見ることができるように貼られていた。感謝・感謝であった。当時は、発表という形式はとられなかった。設計者の意図は設計図に示され、建築学科の先生方は当然その意図を把握する能力があるとされていたからだと思う。
評価されて、日本建築学会が主催している全校卒業設計展に出展が決まったが、その頃はスキーに明け暮れ展示会もついに見に行かなかった。
提出して、評価が出ない前にスキーに出かけた連中もいたが、その中の何人かは、描き直しとか、加筆を命じられ、旅行先に連絡が入り、すっ飛んで帰ってこざるを得なかった。そんなこともみな楽しい想い出になってしまった。

180127

今日も昨日と変わらず
寒いがよい天気だ

義理の従姉妹の四九日の法要
西本願寺和田堀廟所
ここは幕府の塩硝蔵のあったところ
明治維新の時この蔵は官軍によって押さえられ、
塩硝は彰義隊の討伐等に使われたとのこと
後に陸軍火薬庫となり
その一部が明治大学に成り、
また一部が関東大震災後西本願寺の別院と
西本願寺の墓地になったという
本願寺自体の移転も考えられたが、
結局墓地だけが移った。
信者会館、本堂、墓地案内図
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納骨
ここの墓地には、
樋口一葉、九条武子、海音寺潮五郎、古賀政男、水谷八重子らが眠る
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雪は相変わらず融けないが、
やはり多生少なくなったような気がする
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青いレモン 番外編 027 卒業設計 ディプロマ 1 
年末に卒論が終わり発表会が行われた。当時は模造紙数枚に、マジックインキでグラフや、表を示す。そういえば、子供の頃、マジックインキのセットをお年玉にもらった。多分マジックインキが発売されてすぐの頃だったと思う。いまだにマジックインクが使われているが驚異に値する商品だと思う。
卒論が終わりいよいよ卒業設計である。卒計のテーマは少し前に提出させられており、僕のテーマは江戸城の外堀の上空を利用した集合住宅である。当時も今も変わらないが、外堀が連続して残っているのは、市ヶ谷から、柳橋で隅田川に出るまでで、堀の中に柱を立て、超高層の集合住宅を主とする複合ビルを計画することにした。本当は江戸城を一周させたかったのだが、現実に無理のある設計は受け入れられない雰囲気があり、お堀のあるところだけに絞った。
正月休みを利用して、堀に沿って歩き写真を撮って歩いた。この簡単な調査は、勿論、卒業設計に役だったが、何十年か経って、JIAの写真クラブにパネルを出したときに(写真クラブに所属しているわけではなかったが、代表をやっていた兼松さんから誘われたのだと思う。)その昭和42年の正月の写真と、改めて歩いて撮った写真を並べて展示させてもらった。当時はまだビルの超高層化はそれほど進展しておらず、大きな違いは、首都高などの高架の道路の影響が強く表れていた。今、もう一度歩くとさらに建物の高層化による違いがはっきりするのではないかと思われる。

180126

寒波真っ最中
空は青いがかなり寒い
玄関の庇に大きな氷柱
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長さが透き通っているところだけで
55cmあった
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庭の雪は消えない
木の上の雪の昨日と変わらず
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一月も終わりが近づいてきた
二月はあっと言う間に過ぎる
心して大事に時間を使おう

青いレモン 番外編 026 阿佐ヶ谷美術学園
時間は前後するが、前からデッサンが習いたくて画家でもある母方の伯父に紹介してもらい、家から自転車で10分程度の青梅街道の南側の阿佐ヶ谷美術学園に通うことになった。週一日だったと思う。最初の日に説明を受けて、次の時から紙と木炭とパンをもって参加する。石膏像のデッサン。天井の高い明るい教室の中にいくつか石膏像が置かれている。30人ほど生徒がいて、皆、イーゼルを立てて黙々とデッサンをしている。殆どが美術系の大学の受験生で、それとは関係なくデッサンを習っているものが数名いる。
始めは、面取りである。顔が幾つもの面で形作られているのだが、よく見ると各面どれも明るさが違う。確かに考えてみるとそうなるのではないかと思うが、描いてみて初めて分かる。そして、同じ面でも中央と端部では微妙に差があり、またとなりの面の影響を受ける。面取りがどうやら描けるようになると、胸像だが、何を描いたかは覚えていない。
誰もが紙面からはみ出さんばかりに大きく描いている。木炭デッサンというものはそういう風に描くものだと言うことを初めて知った。全体を捉えていかないと部分的には旨く描けてもバランスが取れない。よいところを残して周囲を直す。今度はよかったところが目立たなくなったり、寧ろわるくなる。そこでまた一番よいところを残して周囲を直す。それを繰り返すとほどほどのものが描ける。何遍も繰り返すと前の絵で残した良いものが次の絵で活かせるようになる。確かに描くのだが、描くというよりもものの見え方、見方を学んだような気がする。
しかし、それだけでは何かパットしない。同じ石膏像でも描く人によって魅力的にもなるし、ただの石膏像になる。魅力的な絵にしようとするとこれがなかなか難しい。
生徒には男性もいるが、半分以上は女性である。そしてこれから美術系の大学や短大の受験を目指している。それとは別に何人かは受験以外の目的で習いに来ていた。
月光荘のスケッチブックにペイネ風に描いた当時の絵日記が残っている。

180125

真っ青な空
風はない
雪はまだだいぶ残っている
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夜の自転車は少し怖い
でも、道路の大部分に細くても凍っていない筋ができていた

中野たてもの応援団
定例会議
スマイル中野にて
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アールブリュット展 サンモールにて
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行者専用って?
何の行者
まさか“役行者”?
よく見たらバカみたい
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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。
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特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
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青いレモン 番外編 025 研究室に入って 卒論 つづき
清家研究室には助手が二人いた。
前後関係は分からないが、学部の学生をやっていたときに、製図の出席を凡ちゃんと、瀬尾さんが取りに来た。当時のことはよく分からないが、後から考えると、正式な研究室の助手は瀬尾さんで、凡ちゃんはもう少しえらく、建築学科の図書館を担当していたようだ。しかし、建築計画第二講座に所属していため、清家先生のお手伝いもしていたのではないかと思う。卒論は清家先生が直接見られることは殆どなかった。時々「やってる?」と聞かれる程度。卒論のゼミなどはなく、繰り返しになるが、凡ちゃんと研究室の先輩でアメニティーの研究でドクター論文を纏めかけている宮坂さんが卒論生の面倒を見ていた。大嶋くん、辻くん、僕が谷口助手(凡ちゃん)、小林くんが宮坂さん、もう一人の斉藤くんは何故か川喜多二郎さんの研究室に出入りし、KJ法で卒論を纏めていたが、単位が足らず卒業は一年遅れたような気もする。
凡研は本館3階の東南の中庭に面した南向きの部屋で、建築の図書館なので建築の本が置かれていたが、利用者は殆どいなかったように記憶している。それでも図書館の事務を担当する真に温和しい女性が常駐して(常駐と云っても週に3~4日)いた。薬師寺さんだが途中でどなたからか変わったような気もする。どなただったかは覚えていない。
卒論の期間、4月に研究室に配属されてから卒業論文が終わる12月まで、大体週一でゼミを開いて頂いた。凡ちゃんは飲まないので、和菓子でお茶を飲んだ。記憶違いでなければ、お菓子屋さんが配達してくれたような気もする。ゼミと云っても、一人一人進捗状況やこれからの計画を説明し、先生がアドバイスをして、いいです、いいですと云って終わっていた様な気がする。僕は市庁舎を対象に選んで、吹き抜けの周囲の空間のつながりを図式化して、吹き抜け空間の役割を示した。大嶋君はテクスチャーの研究で、細かい紙やすりから、荒い紙やすりを並べ、印刷用のドットをこれまた細かいものから荒いもので用意し、手触りと視覚の相互関係をどのくらいあるかを検証していた。辻くんは谷口先生の研究の手伝いで、病院施設や教育施設の調査を行っていた。最終的に何をやったかは良く覚えていない。
大嶋君の実験の被験者にはさせられ、大嶋君と小林くんには、何回も市庁舎の調査に付き合ってもらった。ついでに近くの有名建築を見てくるのだが、その頃は情報の入手が簡単でなくそれほど多くの作品を見ることができなかった。
もう、クリスマスも近い頃、卒論が終わり、先生に映画を見に銀座に連れて行って頂いたことを記憶している。イタリア映画で、「黄金の七人」とか云う(記憶違いかもしれない)スマートな泥棒の話。何人かの泥棒のグループが活躍する。
凡ちゃんは、イタリア映画には、マカロニウエスタンの様に残酷なものと、絶対に血を流さない両極端があり、後者が好きだと云われていた。筋は良く覚えていないが、色彩の綺麗な映画で、主役?の一人の女性の目の色が出てくる度に変化した。カラーコンタクトの走りともいえる。

180124

よい天気だが寒い
風はない
道路に残ったが夕方には完全に凍っている
裏道にはまだ暫くは雪が残るだろう
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秋葉原
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市ヶ谷
広がる階段とエスカレーター脇の左官の壁
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フラットスラブ、新しい公衆トイレ、逆光の中の市ヶ谷駅のホーム

金属ルーバー2題
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青いレモン 番外編 024 研究室に入って 
4年に進級し、いよいよ卒論
進級前に研究室の配属があり、大嶋、小林、斉藤、辻、小西が清家研究室に所属することになった。その頃、冬休み前まで卒業研究、その後、卒業設計という順序で行われた。卒論の面倒は助手の谷口汎邦先生が大嶋、辻、小西を見た。斉藤は川喜多先生のところでKJ法に取り組むことに成り、小林は清家研究室の先輩で、当時博士論文を作成中の宮坂先生のところで面倒を見て貰うことになった。当時、卒論はそれほど厳しくなかったように記憶している。
凡研究室に机をもらって、週1~2回ゼミを開いてもらった。ゼミの時には、大岡山のお菓子屋さんからお菓子が届き、お茶で、それを食べた。谷口先生は学科の図書館の面倒を見ており、その担当の女性が週に何日か居たが、確か薬師寺さんという名前であったと思う。お菓子を食べるときお茶を入れてもらった。構造系の研究室は、ゼミのあと飲んでいたようであるが、谷口先生はアルコールはだめなようでもっぱら甘いものが出てきた。
大嶋君は、テクスチャーの研究。印刷用のドットと紙やすりを比較して、手触りと視覚によるテクスチャー把握の相関について調べた。辻くんは谷口先生の研究である病院の計画のための基礎研究。数回病院の調査に付き合った。僕は、調査に於ける吹き抜けの存在意義を調べたが、庁舎へのアンケートがかなり高比率で親切な返事がもらえたので、一気に捗った。近郊の数カ所の庁舎について、仲間に付き合ってもらって、実地に調査しついでに近くにある建築を見て回った。谷口吉郎の秩父セメントを見たのもこの調査の中でだったと記憶している。空間のつながりを図式化した。当時の分析は十分でないが、吹き抜けは空間のつながりを部外者に認識させることができる点、確かに公共建築である庁舎の公共性の高い空間で有効であり、設計者がそれを認識してか、してないかは分からないが、開放されている中心部分で当然のように吹き抜けが多くつくられていた。発表は模造紙数枚に図表結論などを示し数分間で説明し質問を受けて終わった。当時は梗概もつくられてなかったともう。目出度く卒論が終わり、谷口先生のところで卒論を書いていた連中は有楽町に映画を見に連れて行って戴き、コーヒーとケーキをご馳走になった。この時、薬師寺さんも一緒だったと記憶している。
その後、卒論の発表方法は、次第にOHPに変わる、OHPも最初は手書きであったが、ワープロが一般化しワープロでつくられるようになった。さらにワープロがパーソナルコンピューターに変わると、発表もプロジェクターによるようになった。
梗概が手書きからワープロに、発表が模造紙からOHPに変化するその移り変わりは、決して強制されたものではなかったが、見事なほど早かった。OHPによる発表は宇都宮大学でも続き、やがてそれもプロジェクターに変化した。

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昨日は凄い雪だったが、
今日はよい天気だ
雪搔き
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陽が射し、
木の上のは殆どなくなったが、
道路の雪はまだ当分の消えそうも無い
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荒牧邸の前を通る
久しぶりで工事をやっている
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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。
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特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
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青いレモン 番外編 023 建築学科に入って
建築をやっていて良かったと云うことが幾つかある。その一つが、最近実感したこと。高校の恩師で、日本の近代史を習った荒井先生。私の入っていた山岳部の顧問でもあった。高校を卒業してから暫く高校山岳部のアドバイサーをしていたので荒井先生と山に行く機会が多かった。新人合宿、夏山合宿、富士山の雪上訓練、冬山合宿、春山合宿と大きい合宿だけで5回あり、そのほかに簡単な山歩きが加わることもあった。
おまけに先生には北軽の別荘の設計をさせて頂いたし、自宅の内部改修もさせて頂いた。その自宅についてであるが、最近、先生が亡くなられご自宅で家族葬が行われた。その時のことを友人が別の友人にメールで書き送っている。

川道君
 昨日、10月16日に荒井先生の遺言通りに、ご自宅で家族葬が行われ、私も参加
させて頂きました。荒井先生のご自宅一階のリビングは、先生の仕事場で、癒やしの
場所で、holy roomとのことで、そこで行うのがご希望だったのです。息子の潤さん
の家族、親戚、それに山岳部関係の川村、小西、竹林、私が集まってしめやかに行わ
れました。潤さんの長女が妊娠中で,その超音波像を見た先生が「孫をありがとう」
と震える手で書かれたのが絶筆でした。
先生のご遺言に沿って、後日桜の花が咲いた後に偲ぶ会を行いたいと思います。その
時は、また相談させて頂きます。12月2日の吉澤の偲ぶ会で会えるのをらのシミに
しています。竜(171017)


生前何も言われなかったけど、喜んで使って頂いたのだと心から嬉しく思った。建築の設計ができてよかったなと思った。

180122

夜半雨が降ったようだが、
あがっている
今日はとか
でも余り寒くないどうなることか

が降り始め、そして暫くして、
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見る間に積もって雪景色
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180122-06.jpg 180122-17.jpg どんどん積もる
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Y邸、四中、公園
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環七 
バスを待つ人達 そばを救急車が通り抜けていく
横断歩道橋の上で
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商店街
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今日の花
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青いレモン 番外編 022 設計製図 2
その頃は、ラジオ全盛時代で明け方までラジオを聞き、冗談を言いながら製図をした。そのせいかその頃はやっていた歌は懐かしく今でも口ずさむことがある。
暖房はスチームだが、夜になるときれてしまう。寝袋に下半身を突っ込んで製図するなど工夫して寒さを忍んだが若さのせいかそれほど苦にもならず、暖房器具など持ち込むこともなかった。しかし、広い部屋の部屋の隅に何故か1つだけ床付きのガス栓が用意されていた。寒さをしのぐために、それに直接火をつけたバカがいる。殆ど暖房として効かなかったし、助手の先生が廻ってきて、何をやっているのかと呆れられた。当時、主として、設計製図の面倒を見ていたのが谷口汎邦先生で、通称凡(ボン)ちゃんと呼ばれていた。谷口忠大先生のご子息で、忠先生も背が低かったが大先生に輪を掛けて背が低い、清家先生曰く、背は低いけどプロポーションは良いんだよね!とか。
製図の時間は出席をとりに凡ちゃんが来る。三年の製図の時間だったと思うが製図室は六人ごとに目の高さより多少高いパーティションで区切られていて見通すことができない。誰かが今日は出席取りに来るのが遅いなと背伸びをして、部屋を見渡す。こうやって見なきゃ分からないよと机の下を覗く振りをする。皆の笑いかけた顔が何故か引き締まって笑い声がなく静まりかえる。ぎょっとしてふり返ると後ろに谷口先生。いいんです、いいんですと云う言葉に暫くは先生と目を合わすことができなかった。卒論の時は当時まだ清家先生の助手をしていた谷口先生にいろいろお世話になった。さらに、私が助手の時代、長津田計画室での数年間まさに谷口先生の下で仕事をさせていただいた。
もう一つ、学生時代で忘れられないのが、製図の締め切りである。たいてい締め切り数日前から徹夜に近くなるので必修でない授業をさぼるやつが多くなる。製図室で図面を描いていると、講義をする先生の研究室の助手や技官が授業に出るように催促に来る。何人かが犠牲になって授業に出るだが、一人二人と舟をこぎだし、寝入ってしまう。講義が子守歌になって、いけないと思いながら話が遠のいていく、周りを見ると数人しか起きていない。それからしばらくが地獄である。むしろ最後の一人になると緊張感からか眠気が吹っ飛ぶ。
何をやっているのだろうと思うが、先生の方も寝ることで怒ることはなかったように思う。


180121

よい天気だ
それほど寒くもなさそうだ
風もなく落ち葉は少ないが、
ネコが暴れて、
ごみを道路に落としている
南で一カ所、東で一カ所

今日は中野たてもの応援団の行事で、
イエスズ会の施設の見学会
今のこのかなり立派な建物が建つ前は、
不思議な木造の建物が建っていた
入口でご挨拶
館内の見学
聖堂-食堂(休憩スペース、新聞スペース、一寸アルコールスペースなどがある)-
2階へ-和室-個室群-図書館-
地下へ-車庫、駐輪場-運動施設、娯楽室-休憩スペースでいろいろ説明を頂く
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青いレモン 番外編 021 設計製図 1 
建築学科には製図室があり、製図をケント紙やトレーシングペーパーに描くから今と違って製図板とT定規が必需品であった。製図板は金属製のロッカーの上に載せられていた。製図板とロッカーひと組が各人にあてがわれており、作業が途中であっても、汚れが付かない様に、紙をかぶせるだけで帰ることができた。複数の人が共同で使用する私立の製図室よりもずっと恵まれていたと思われる。二年生の本館屋上のプレハブ造りの製図室はあまり居心地がよかったとは云えにが、三年四年の製図室は本館三階で、南北が中庭に面した東西に長い部屋であった。三年四年が東西に抜ける中央の通路を挟んで同居した。南側が先輩、我々が北側だった。木製の製図板は二十年ごとの式年遷宮で廃材となる伊勢神宮の材料が使われていると聞いた。六人一グループで南北のパーティションで仕切られていた。授業が終わったり、昼休みには製図室にまず集まり荷物を置いて、飯を食いに行ったり、クラブ活動に参加したり、帰宅したりしていた。持ち帰る必要がないものは何でもそのロッカ-に仕舞っておける。鍵も掛からないではないが掛けるものは居なかった、それでも一度も盗難事件などは起こらなかった。製図の締め切り前は遅くまで製図室に籠もり、締め切りの前の数日は大体泊まり込みになった。平行定規の時代は大学院に進学してからである。

180120

曇り空
あまり寒さは感じられない

如意山実相院の前を通って
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今日はここ
歴史民俗資料館
戌年で犬張り子 ついでに招き猫も
笊を被った犬、鯛と犬など・・・・・・
学芸員の方に手伝って戴き、囲い町のこと (まちあるきの資料づくり)
鉄道隊、電信隊、憲兵学校、中野学校、進駐軍MP本部、警視庁予備隊、警察予備隊などのことなど調べる
一人では絶対に見つけられそうもない資料も出てきた  感謝!
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ちめんかのいえ
最近余り利用者がいないのか?
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今日の
ブロックからの蔦の吹き出し方が
よく見るとなかなか楽しい
結構、凝った板塀
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今日の空き地
かなり放って置かれているようだ
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今日のガスメーター
新型の小型がずらりと並ぶ
裏側だが、大型が並んでいる
この大きい方はひとつの施設でも、
会計上分けないと都合が悪いのか?それとも別の理由?
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マンハッタン
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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 番外編 020 建築学科に入って 
男性社会
当時、工学部の建築学科には、二年上に一人女性が居るだけで、我々の学年は勿論、下、数年も男子だけであった。その二年上の女性が建築学科始まって以来始めての女性である。
全校で考えると更に遡って一人の女生徒が居た(らしい?)。小学校から高校まで、勿論、幼稚園、予備校も含めてそれまで全て共学の中で育ってきた。しかし、男性だけというのもなかなかよいものだと思った。少なくとも異性に対するこびのようなものが全く必要なく、ある意味で開けっぴろげで居られる。しかし、当時、工学部が、男性社会だったのは何もわが工業大学に限らず、全国的な傾向であったと思う。女子大学生自体も少なく女性の多くが行っても短大止まり時代であったし、親の中には女の子が大学に行く必要があるのかと強く疑問を持っている人達が多かった時代であった。勿論、先生方も同じような、あるいはもっとはっきりした男性社会で育っているから、寧ろ問題も生じず、数少ない女性に十分気を使っていた。
大学生の常で、年に何回かは、学科の飲み会があった。最近は、未成年は飲んではいけないと云うが、当時は大学生になれば誰も文句を言わなかった。未成年であっても結婚していれば、未成年お断りの映画を見ることができるのと同じだと思う。(体のことを理由に根本的に違うという人もいるが結局は同じだと思う。)確かに、当時、まだまだ話に聞く旧制高校の気風が残っていたように思える。
一気飲みなど当たり前であったともいえるが、余り勿体ない飲み方はしなかった。大学に入る前に全く飲んだことがないものは殆ど居なかったと思うし、それぞれが、自分がある程度のめるか全然ダメだかぐらいは把握していた。不思議と問題など起こらなかったが、完全に酔っ払うまで飲んでいた。
最後は決まって偎歌の競演になった。誰かが新しいものを仕入れてくるとそれに対応して、別のものが出てくる。学内では女性と会う機会がないから、今で云う合コンのようなものも行われる。また、部活では女子大の同種の部との共同活動などをする。その頃のはやりがダンスパーティー。部費を稼ぐのにもパー券の販売が一役買っていた。こまめなのがいて、パー券を売り捌きに来て強制的にかわされる。しかも、ぼやぼやしていると相手の分まで含めて2枚買わされる。部活の資金などのために開くわけだから、一年生の部員は各自ノルマがあるらしくかなり執拗に売りつけてくる。その頃は、ジルバが流行っていたが、音楽的素養のない僕は常に消極的であった。
製図室で徹夜することが多かったが男性だけであれば、全く気が楽であったが、その割には服装は皆ちゃんとしていたような気がする。中には近くに下宿している人もいたが、殆どが、電車やバスなど公共交通を利用して通学していたからだと思う。
宇都宮大学も最初の一年は男性ばかりであったが、二年目からは女性が入ってきている。その後また、女性が居ない学年が一年有って、その後、見る間に女性が増え、三分の一位で落ち着いた。しかし、今思うと、大学の中で女性への対応が自然にできるようになるのは、大学時代に女性が何人も居る世代が教員に成ってようやっとではないかと思う。

180119

よい天気
風が少々ある

新聞より
有期雇用雇い止め急増
 駆け込み的適用逃れ
 決めたときから想定されていたことと思う
 防止策はとられなかったのか

首都直下宅地被害36万件 
 国推計 地震時に擁壁倒壊
 コンクリートや石の擁壁とある
 大谷石の擁壁が頭に浮かぶ

私立中入試に英語 急増
 今年の首都・近畿圏 4年前の7倍
首都・近畿圏の約3割に当たる137校で行われる
 2020年度から小学校で英語が正式な教科になる
 多くの学校で算数と国語が必修、
 社会・理科と英語のいずれかを選ぶなどの選択型が多い
 今から60年前すでに小学校の授業に英語があったから驚きはしない
 ヨーロッパの各国いろいろあるけれど
 言語だけはアングロサクソンに負けたという
 フランス語がヨーロッパを席巻した時代もあった
 現在の英語の一人勝ちの理由は何だろう

根津、千駄木、谷中
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根津、千駄木、谷中の路地
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根津、千駄木、谷中の空き地
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根津、千駄木、谷中の開口部
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根津、千駄木、谷中のスガメーター
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青いレモン 番外編 019 建築学科に入って 
二年の製図室 2
そのほかに屋上の製図室で描いた製図で覚えているものには、純粋に設計の課題と言うよりも構造・構法と一体化した課題として出された「コンクリートブロック住宅」があった。プランは予め決まっていた様な気もする。その頃はまだコンクリートブロックが特に北海道などで社会的に重要な位置を占めていたのだと思う。
人によって芋目地にするか破れ目地にするかぐらいの違いだったように思う。こちらは1mm方眼のトレーシングペーパーに鉛筆で描かされた。長時間方眼紙を見つめていると方眼が目に焼き付く。昼を皆でいつもの「あたりや」に食べに行ったが、カツライスの白い飯を見ると白い飯粒の上にはっきり水色の方眼が映っている。皆で気持ち悪いといって顔を見合わせたのを覚えている。
新しい課題が出ると、関連した施設などを見学する。先生が指導して見学することもあったが、大体は見てこいと言われるだけで、何人かで情報を集め見に行った。他は建築雑誌などに目を通した。
ちょうどコンクリートブロックの課題をやっていた真っ最中、高校の山岳部の後輩が、谷川の堅炭岩で墜落するという事故が起きる。事故死した後輩は、高校3年で大学受験のため休部中だったが、一寸気分転換を図ろうとしたらしいが、ろくにやったことのない岩登りを気分転換の材料にしてしまった。高校山岳部のアドバイサーをしていた関係で、休部中とはいえ関わりがある。ましてや受験時期の気持ちはいやなほど分かる。虹芝寮に駆けつける。
堅炭岩の基部で遺体が発見され収容された。ご両親も来られて湯桧曾川の河原で荼毘に付した。父親は高校の国語先生であり我々も習った。そんなことが重なり、数日殆ど睡眠を取れずに製図の締め切りを何とかこなすことになった。
この屋上の製図室が懐かしかった訳ではないが、3年、4年になっても製図室で夜明けを迎えると、屋上に上って、目をしょぼしょぼさせながら次第に明るくなっていく空を眺め、朝の空気を思いっきり吸ったものだ。

180118

昨日は雨だったが、
回復して良い天気
朝方は路面がぬれている
14日から4日続けて用事が続いた

久しぶりに荒牧医院の前を通る
入口の工事が始まったようだ
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高円寺小杉湯
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都道補助227号線の両脇は歯抜け状態
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この建物もそろそろ解体されてしまうのかな
少しでも頑張ってください!
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青いレモン 番外編 018 建築学科に入って 
二年の製図室 1
東工大に入って、約一年が経過し無事建築学科に入れた。建築学科2年生の製図室は本館屋上のプレハブの建物。建物といってもほぼ正方形に近い一部屋だけの建物である。夏は温室のようになったのを覚えているが、冬の寒さの記憶はそれほどない。多分ストーブは用意されていたがクーラーはなかったからだろう。
このプレハブの部屋で、製図に関しての最初のオリエンテーションがあった。説明は当時助手であった平井聖先生(昨日2017.11.16お会いしたがお元気であった)。道具やその使い方の説明があった。消しゴムのかすを口で吹くとつばが飛ぶので、そのために刷毛があると口で製図板を吹くまねをして説明されたのが妙に印象に残っている。その先生も現在は90近い。
最初の、建築に直接関係した課題は、アテネのリシクラテスの記念碑のコリンティシャンオーダーのコピー。初めて烏口を使って墨入れをした。二番目の課題が住宅だったように記憶している。

180117

青空とはいえない
そんな寒さは感じない

今日もJIAで修復塾の定例会議
神宮前で
今日の開口部
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神宮前の民家
180117-02.jpg 玄関の目の前は塀 住んでない割には傷んでない
帰りかなり強い雨
よいお湿りではある

青いレモン 番外編 017 建築学科に入って 
これも建築学科に入ってからだが、学科に松井くん横沢くんというスキー部の連中がいて、スキーを通して彼らと仲良くなりスキーへも一緒に行くようになった。彼らが合宿をやる磐梯山の近くのスキー場に行った記憶がある。民宿だったと思うがご主人は渡部さんといい、ワタナベと読むんですと云われたので覚えている。確かこの時はコバも一緒だったように記憶している。
5月の連休に雪の壁の間を縫って立山にも滑りに行った。その時、有名な雪の壁の間をバスで登って立山に入った。建築の松井君、横沢君の他、学科は違ったが、スキー部の小沢くん(家は新宿歌舞伎町で、「木馬」という当時かなり有名なモダンジャズの店をやっていた。)や臼井くんなどとスキーを通して知り合った。立山に行く(帰りかも知れない)途中でスキー部の仲間の一人の富山の実家にご厄介になった。彼の名前が出てこない。ごめんなさい。富山の家でごちそうになった朝の味噌汁が美味かったこと。味噌汁とお新香は苦手な僕が、いまだに忘れられないのだから相当美味しいと思ったのだろう。この味噌汁、お澄ましに近い透明感があり、白味噌が使われていた記憶がある。あともう一つ、富山の家のお母さんが小沢くんのしゃべるのを聞いて、江戸っ子らしい綺麗なしゃべり方だと感心して幾度となく褒めた。新宿など江戸の外れで、こっちは明石町の生まれだと口までで掛かったが、物心ついたのは中野の鷺ノ宮だし、元々、しゃべるのは苦手で、べらんめい調などからはほど遠い。氏より育ちとは少し違うが、自分は祖父や父、あるいは祖母や母のような江戸っ子ではないなと寂しく実感したのを覚えている。
そういうときには常に何か沈んで無口になる。あまりおしゃべりな方ではないから気にはされないが、時にはどうしたのと聞かれるが、何でもないとしか答えようがない。
スキー部の横沢君は、がたもよくスピードに乗った豪快なスキーをする。松井君はディスタンスが専門で、確か野沢に行ったとき時、初めて、細いディスタンスのスキーを履かせてもらったが思うように滑れないし曲がれない。テレビなどで見ているほど楽に登坂もできない。ワックスについての講義も受けたが、その日のためにどう塗り重ねるかは複雑すぎて、ワックスの選択が重要だという以外すぐ忘れてしまったが、ワックスを塗り重ねてもらって、コースをめぐるとその効果が確かに分かる。
その後、数十年経って、つまりずーっと後になって、宇都宮大学の職員の慰安旅行で、皆でディスタンスのスキーを履いて、林の中を歩き回ったがその時の朧気な経験が少し役に立ったように思える。

180116

今日もよい天気だ
お昼に新宿で打ち合わせ
新宿にて
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夕方からJIA中野地域会定例会議
産業振興センター
その後懇親会
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青いレモン 番外編 016 大学一年時代 5
初めての車での遠出
フォルクスワーゲンのことでもう一つ思い出すのが、平野君と東北にドライブに行ったことだ。東北と云っても福島で、磐梯山近辺だったと思う。平野君は高校山岳部の二年後輩だが、車の運転では先輩で、いろいろ教えてもらい帰ってきた頃には運転にだいぶ自信が付いた。
これはもっと後のことになるが、大学の卒業旅行で学部3年の最後の春休み奈良・京都に行ったときに、引率の先生は平井先生で、車で行かれると云うこと、我々の学年は車を持っている奴が何人かいて、それに分乗していくことになった。当時まだ名神しかなく、現在東名で行くところを一般道で名古屋まで行った。勿論、箱根の山を国道一号線で越えた。この旅行でも、ここでもフォルクスワーゲンが活躍した。丸坊主のタイヤで、メーターを振り切って名神を走った。メーターは115キロまでしかなかったが、その先まで針が動き120キロ位を指していた。名古屋から終点までで抜いていったのはロールスロイス一台きりであった。時々追い越す車はいるのだが、暫くするとスローダウンするので抜きかえすことになる。当時、続けて100キロ以上で何時間も安心して走れる国産車は殆どなかったのではないかと思う。また、まだラジアルタイヤはなく古い形式で、かなり走り込むと下地の布目が現れた。そんなことを思い出すと無茶をしたものだ、よく死ななかったなと思う。
この卒業旅行には藤岡研の助手の森さんが同道した。森さんのお父様が、造園家の森おさむ先生で、この先生のおかげで、桂離宮も修学院離宮も先生がご自分で我々を引率し畳をめくって、床下地の墨書や修理の跡を見せ、戸棚の建具を手にとってその細工を詳しく見せて頂いた。そして、京都御所も仙洞御所もかなりゆっくりと見ることができた。

180115

今日もよい天気
寒いが風はない

夕方からJIAで会議
今日の会議の内容は殆ど理解してない
それでも何とか終わり
急いで帰宅

青いレモン 番外編 015 大学一年時代 4 
運転免許
大学に入ると誰も運転免許を取りたがる。ご多分に漏れずやっぱりほしくなり、練馬の教習所に通い出した。最初の日に教習所の中をぐるぐる回ったのはよいが、スピードをコントロールできずにまず怒られる。上手くいかないと、教習手帳にハンコを押してもらえない。それでも何とか仮免許までこぎ着けたわけだが、そこで、路上に出る前に北海道と飯豊の山行に行き、仮免許の期限を切らしてしまった。始めからやり直すのも癪に障る。当時、高田の馬場に非公認の教習所があった。公認でないところは、実地免許が免除にならないから、仮免許もくれない。試験所に直接受けに行くことになる。そのかわり料金は安い。少し余分に教習して、小金井の試験所に行く。試験を受けたら、思っていたよりもずっと簡単に通って、普通免許がもらえた。そういうことで、路上運転は免許を取ってからが初めてと言うことになる。おそるおそる公道に出たのは免許を取ってから大分経って車を手に入れてからのことになる。その後、一回更新を忘れて取得年が変わってしまった。
北海道で山行をともにした佐久間君も少し遅れて、目黒の日の丸教習所で免許を取得。
免許を取って暫くすると車が欲しくなる。小学校から仲のよかった疋田君に梁瀬の中馬さんを紹介してもらい、駒沢に住んでいる中馬さんの友達の野沢さんのフォルクスワーゲンを買うことにする。4万キロほど走った真っ黒なカブトムシ1959年後期型を購入。1959年後期からリヤウインドーが大きくなっている。前期は三日月型の窓でそのほか幾つか違いがあった。しかしフロントガラスはフラットで、ワイパーは極めてシンプルな形をしている。さらに古いものはリヤウインドーが2つに分かれ、アクセルペタルがローラー状のものであった。
費用は、当時日本の庶民車として売り出されていたパブリカと大体同じくらいの値段だった。・・・・・と云ってもオヤジに買ってもらったわけだが、パブリカと同じぐらいといって説得した。暫くして、佐久間君も中馬さんの紹介で、真っ赤なフォルクスワーゲンを買うことになる。現役の頃から、博士課程の頃までワーゲンを通しての交流が続く。修士をでて、一年間、イランに行って留守にしたわけだが、その間、僕のワーゲンを維持してくれたのが佐久間君である。

180114

よい天気で寒い
東京の冬の典型的な天気

今日は昼から白鷺の茅葺き民家で新年会
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始まってから終わるまで、屋根に映る木の影も変わる
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届けてもらった高校卒業時の文集の編集後記
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青いレモン 番外編 014 大学一年時代 4
いや、やっぱり札幌で分かれた。というのは函館への汽車は一人だったはずである。一寸、柄の悪い3人の大学生と同じ席に座った。確か学生服を着ていたと思う。柔道部か剣道部か空手部か忘れたがそういう類いの連中だった。学帽の記章を見せて凄いだろうという。ところが私は知らない。当時本当に知らなかったのだが、俺たちを本当に知らないのかとさんざん息巻いている。適当に話を聞いていると、次第に話が剣呑な方向に進んでいった。彼らは部活で新入生が入ってくると、勿論、部員は全員男ばかりのはずであるが、どうも無理やり肉体関係を迫る風習があるらしい。この函館行きの列車で一緒になった連中だけがそうなのか部の全体の雰囲気がそうなのかは分からないが、当然のことのように話していた。結構いいものだと執拗にその話ばかりする。やがて汽車が函館に着く。勿論その頃、本州と北海道は、鉄道で結ばれていなかったし飛行機で旅行する学生などいない時代である。青函連絡船は、青森に着くまで数時間かかる。列車を降りた順に畳の部屋に案内される。同室の人も少なく一寸いやな方向に向かいそうな雰囲気になってきた。どうやったら煙に負けるかと思案しているうちに銅鑼が鳴り船が走り出した。多少揺れるものの大したことはない。それなのに、彼らは一様に気持ちが悪くなってきたらしい。沖に出て揺れが激しくなるともう生きている心地もしないと云った顔をしている。一人がトイレに行き戻ると次の奴がまた行く、顔が青ざめて、さっきの元気は全くない。付き合うこともないと甲板に出て、風に当たりながら時間を過ごした。その頃はまだ津軽海峡冬景色の歌はなかった。青森について、彼らは東北本線、私は日本海側を通って飯豊の近くまで行く。彼らに別れを告げると目を上目遣いに細く開けて手を振っていた。

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蒼空が広がっている
相変わらず寒いが風がないのが助かる
裏日本(言い方がよくないかも知れないが、日本列島の背骨のような山脈の北側)のは凄い
子供の頃はよく大雪の被害が新聞に出ていたが、
ここのところあまり聞かなかった

妙正寺川に臨む野方図書館
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煉瓦を使った擁壁
都立工業高校の南側に多く見られる
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計画道路 都道補助227号線について
現在その一部が実行されている
全部実行されれば、青梅街道から目白通りまでの4.5㎞の計画だということである
青梅街道から高円寺南口までは既に道路が広がっているが、
南口の商店街は一本西側にあり何とか成り立っているが、
広がった道路のために面的広がりの魅力を欠く、
新青梅街道から目白通りまでも既に拡幅されているが、
ここは暫く前まで、農地が多く、余り問題なく実施されたのではないかと思う
高円寺駅から早稲田通りまではかなり賑やかな商店街で道路を広げれば、
商店街がたちいかなく成るだろう
いじってもらいたくないところである
現在事業が行われているところは早稲田通りから妙正寺川までだが、
おそらく、続けて妙正寺川から新青梅街道までの事業が開始されるだろう
続けてと云っても10年掛かるか20年掛かるか分からない

高円寺駅近くに関して云えば、
既に発展した商店街を貫く16メートル道路を計画したこと自体、
地域の発展を無視し計画だといえる

現在行われている早稲田通りから妙正寺川の工事は周囲に木密地域を含むため、
不燃化10年プロジェクトの指定整備路線となっており、
大和町、野方地域の防災性の向上を目指している
防災性が向上することはよいことだが、
この計画が立てられてからおよそ40年が経っており、
町そのものが変わっている
不燃化による防災性を考えると
計画道路という政策が果たしてよいものか首をかしげてしまう

計画道路に指定されたところは、
木造造、鉄骨造は可能でも鉄筋コンクリート造は不可で、
多くの建物が40年前以前に建てられたままになっている
また計画道路の悪いところはいつ工事が始まるか分からないという点にもある
この通りに面しては昔から商店が建ち並んでいたが、
いつ工事が始まるか分からないから十分なメンテナンスがなされず、
次第に建物は老朽化し、商店街としても裏寂れていく、

道の拡幅にそれぞれの敷地がどう対応できるかもバラバラである
道路として切り取られても余裕が在る敷地であれば、
狭く成っても保証金でたちゆきの可能がある
しかし、切り取られた残りの土地が中途半端で、
住むことも、商売をすることも無理だとなると出て行くしかないが、
行き先の選定が難しいものに成る
ここでの交渉も時間を食い、事業が始まってから
終了するまで可成りの年月が掛かる
ごね得などという言葉も生じなかなか進まない
早く協力したものが面白くない思いをすることも多々あると聞く
実施時期をしっかりした状況把握の上で、確定し、長くとも10年ごとに見直して、
やるぐらいのことが必要であろう。
あるいは行政の方は、
放っておいて道路脇の住人に活力が無くなるのをじっと待っているのではないかと、
勘ぐってしまう

道路が拡張されそれまで道路脇に建てられていた建物が3階程度であったものが、
いきなり、6階、7階建てのマンションになる。
道路で寸断され、住む人種が多様化し、町民意識は薄れ崩壊する
グループは崩壊させ、個人を制御するのが政策としては楽だというところにまで、
計画道路が結びついているかどうかは知らない
住民にとってははなはだ面白くない結果が待ち受けているのは事実だ

道路も人のためにある
車優先で考えていた時代は過ぎ去ろうとしている
高円寺北口商店街の計画道路は早めに解除すべきだと思う

ついでに木密地域について、
防災上確かにも区密地域については配慮が必要である
しかし、現在の状態に近い状況は40年程度続いている
其れに対して行政何をしてきたか
建て直しの度に規定の道路幅を守らせ、
工事の度に準防火の規定を守らせてきた
しかし、遅々として安全な方向には進まない

何故か、木密地域全体が、自力でそこから脱するほど恵まれていない
道路を広げれば、敷地として立ちゆかなくなる
自分の前の道路が広がっても
隣はそのまま面白くない
などなどいろいろあって、進まないのが当然といえる
日本の消防の頭の固さにも問題がある
文化財などではドレンチャーを使うが
一般建物では使わせない
木密地域でこそそれに似たシステムが考案されてもよい。
ひとたび木密地域で火災が起きたとしよう
ここ40年この地域に大火災が発生しなかったことは
真に幸運としく言いようがない
その時、風も強いとなると周囲に火の粉が飛び、
火勢が強くなり広がる
恐らくその木密地域だけの問題ではなくなる
行政は幸運の上に成り立っている
大災害があれば、大鉈が振るえると期待しているかも知れない
だから、真に住民の安全を考えるならば、40年も経たないうちに
公金を使っても木密地域の防火システムを作るべきであった
簡単のものとしては
一般の人が操作できる消火栓であろう
大地震も想定し、貯水槽、自家発電もセットにしなければならない
京都などでは工夫が実行されている
できれば新システムのドレンチャー方式の開発と実現だろ
自治体の決断が期待される

また木密地域は地震時の建物の崩壊にも備えなければならない
自力でそれができない人達が多く住んでいる
其れに対しては、コンクリートパイルや鉄骨を利用した支柱と
ワイヤーを利用した崩壊防止策などが考えられるだろう

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中野の民家の物置
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階段のある道
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緑の開口部
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中野の銭湯
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今日の夕日
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今日の花
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青いレモン 番外編 013 大学一年時代 4 
途中でダンプをヒッチして十勝三俣にでる。運転手の伯父さんは優しそうな静かな男性、でも、ダンプは何もない真っ直ぐな道を猛スピードで爆走する。
後に廃線になったが当時、まだ十勝三俣には鉄道が走っていた。ここから帯広にでる。帯広のハゲ天で北大に行っている高校の同級生の川道くんに会い天ぷらを喰う。一緒に大樹の山本直行さんを訪ね一泊お世話になる。山本さんはかなり著名な画家で、北海道以外にもかなりの信奉者がいるようであった。雰囲気の良い家で北海道らしい心温まるおもてなしを受けた。壁に沿ってベンチの様な椅子が備え付けてあり、その一部の蓋になっているところを開けると丸い穴があいているというユニークなトイレがあったことが思い出される。お世話になった当時、新しいものから使い古したものまで何本ものサインペンを用意しそれを使って味のある絵を描かれていた。直行さんの絵は好きだが、大学の恩師吉岡丹先生もよくご存じで、お宅の居間に直行さんの絵が掛かっていてそれで暫く話が弾んだのを覚えている。
大樹というこの辺りは、日本では珍しく地平線の見える真っ平らなところで、北海道の広大な自然を満喫できた。
そこで川道と別れて、根釧原野、知床の羅臼岳、サロマ湖と巡り名寄に出て、札幌にもどる。この旅で、今は廃線になってしまった鉄道路線を幾つか経験した。一両か多くても二両のディーゼルカーで煙を上に出しながら走っていた。駅もたいていが無人駅だったような気がする。
札幌で佐久間君と別れる。もしかすると本土に渡ってから分かれたのかも知れないがよく覚えていない。彼は東京に帰り、僕は山岳部の合宿のアドバイサーとして、飯豊山の山行に参加する。合宿にも佐久間くんを誘ったのだが、さすがにもう十分だと断られてしまった。それはそうだろう。結局、僕は東京に帰るまでひと月ほどさすらっていたことになる。

180112

朝気温が零度だった。
風はない
櫨の残り葉が
休みなく落ちる あともう一歩

近所の現場
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今日の夕焼け
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中野の民家の蔵
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今日のガスメーター
普通の大きさでも新旧いくつかのタイプがある
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青いレモン 番外編 012 大学一年時代 4 
僕が東工大に入った年、我々の高校から東工大に現役浪人を合わせて、6名が入った通常の年が0か、あるいは1~2名なのに比べて異常な多さだった。
佐久間君:現役で成蹊から入った佐久間君が、教養時代の「か」組で、出席番号が「こ」と「さ」で続きだった。物理実験、化学実験、体育の実技など二人で組んでやることが多かった。僕の方はかなり大雑把で、いい加減なところがあるのだが、それでは物理や化学の実験は上手くいかない。僕がやると速いのだが、時にはやり直す羽目になり結局帰りが遅くなる。一方、彼の方は真面目で緻密で、イライラするほど落ち着いてじっくり実験をやっていつも成功させてくれた。体育の実技は、二人ともあまり運動神経が良い方ではなくまあいいコンビだったと思っているのは僕だけだろうか。特に、柔道の授業の時体育の石田先生?年配の恰幅の良いそれこそ柔道着が似合う先生だったが、いつも二人を笑いながらあたたかく見てくれた。
初めのうち、彼は僕が高校の先輩なので、僕のことをさんづけしていたが、半年ぐらいして、一言断りを言ってくれて、君づけになった。具体的にどう言われたかは覚えていないが、人の気持ちを慮ったすがすがしい言い方だったのを覚えている。
この佐久間君との思い出は、北海道の山旅と、フォルクスワーゲンである。
確か大学一年の夏休みである。どうしてそういうことになったのか、発端については何も覚えてないのだが、二人で、北海道の山を登に行くことになった。おそらく彼にとっては初めての山らしい山だったのだと思うが、それにしてはかなりの強行軍だった。
札幌に入り、ジンギスカンを食べ、旭川に出て、バスで層雲峡の横を通って硫黄の臭いを嗅ぎ、大雪山系に入り旭岳から白雲岳、空沼を通って忠別岳、五色岳、分岐点にデポして、トムラウシを往復し、沼ノ原を歩いて石狩岳に出る。当時はそこら中にまだ見渡す限りのお花畑があり、一面真っ黄色だったり紫色だったりした。薪を集めて飯を炊いた。ラジュウスはもっていたが、原則、現地調達で、それが当時の常識であった。
熊除けにザックにいくつか空き缶を結わえ付け音が出るようにした。途中であった登山客が、前の日、山小屋で谷の対岸を熊が歩いているのを見たといっていた。
石狩岳から根曲がり竹の藪漕ぎしながら十勝三俣に降りる。話に聞いてはいたが、根曲がり竹の藪漕ぎは確かにしんどい。この日はぬか雨が降っていて竹の上に乗ると滑って転ぶ。かなり消耗し疲労困憊したところで、どうやら道らしいところにでる。ここで、遅い昼を食べる。
といっても残っているものは非常食以外、そうめんとマヨネーズぐらい。ソーメンを茹で、谷川の水で冷やして、マヨネーズで和えて食べる。こんなに旨いものが世の中にあったのかと思えるほど美味しかった。

180111

よい天気だ
寒いが風もない
昨日風が強かったせいで
落ち葉の量は可成り多い

昨日の勉強会は大成功だったとおもう

冬の陽のぬくもり
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残照
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冬夏会
田町で

格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。
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特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
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青いレモン 番外編 011 大学一年時代 3 教養の時代 
当時、東工大には理学部と工学部しか無かった。そのため、その偏りを少しでも是正し補うために一年の教養の先生は一流の先生を揃えていた。当時の東工大にはその余裕があった。今のように大切なことに余計な口出しをし、文句ばかりを云う文科省(当時文部省)の指導では難しい。専門バカが育つことを望んでいる政府の方針には、まさに真っ向から反しているけれども。
美術史の嘉門安雄先生、心理学の宮城音弥先生、その弟子多胡さん。社会学の阿部先生、授業の名前は忘れたが後に文部大臣になり共通一次試験を導入した永井道雄先生、何故か永井先生には留学生だと思われていた。本をお借りしに研究室を訪ねたときの初対面の時にそうインプットされたらしいが、その理由は定かでない。多分、当時山に入り浸っていて、真っ黒な顔をしていたからだろう。研究室に行くたびに、今度はいつ帰国するかとか、日本語が上手いねとか言われた。
英語はチャタレー夫人の翻訳で有名な伊藤整先生、髪の毛が真っ白なのは戦時中に受けた拷問のせいだとその当時の悲惨な状況を授業の合間に語られたが詳細は覚えていない。
数学には高校の教科書で有名な矢野健太郎先生などもおられた。
一年の教養の間は「あ」組、「い」組と云う様にクラス分けで授業が行われる。僕は「か」組で、組の連中には、何人かビリアードをやる仲間がいて、よく突きに行った。大岡山に玉突きの店は2~3軒あった。僕はそれほど凝ったわけでもないが、のめり込んだ仲間もいた。当時のはやりはポケットでなく四つ玉で、少し上手くなると三つ玉をやるようになる。一本つけるようになると、ビリヤード場のマスターがマッセをやらしてくれる。一年先輩の平山さんはよく三つ玉を突いていた。暫く経って知ったことだが、我々よりもう少し前の時代はもっと流行っていたと言うことで、石原先生や青木先生はかなり突いておられたようだ。その世代はビリヤードの他、社交ダンスも流行っていたようで、三津浜の客船の中で行われた清家先生の退官パーティーでその姿を見せて頂いた。
ほどほどに授業に出て、友達と遊び、家では本箱や椅子など何かを常に作っていたが、残りの時間は、高校の山岳部の合宿や、同期の山岳部の友達との山行やスキーに費やした。


180110

良い天気だ
多少風がある
今日は午後から中野のJIAと事務所協会と合同で、
勉強会を行う
中野区役所・サンプラザ地区再開発計画に対しての勉強会で
日本設計の黒木正郎さん、元豊島区都市整備部長の上村彰雄さんをお呼びして
豊島区南二丁目再開発と新庁舎整備について話を伺う
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中野のJIAと事務所協会のメンバーの他に、区議会議員5名、一般参加者8名が参加

その後の懇親会
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新聞記事から
・アフリカの人口爆発
 アフリカ大陸全54カ国の人口12億5600万人が、
 国連の推計では2050年に25億人になる
 ウガンダに兄弟38人の家族がいる
 四つ子や三つ子もいて生きているだけで38人だという

・北朝鮮の五輪参加 合意
 南北の接近?

・慰安婦合意「再交渉せず」
こちらは合意が成り立たず

中野ガード下の展示
180110-01.jpg  右側はSさんの力作

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青いレモン 番外編 010 大学一年時代 2 
大学と山
せっかく建築をやりたくて大学に入ったが、学科が決まるのは2年への進学時、その頃、建築は倍率が結構高く部活に参加する気にならなかった。それでも山には未練があって本館の時計台の塔の最上階にある山岳部の部室まで行って話を聞くことにした。時計台の中の階段を登っていくと階段の少し広めの踊り場が部室である。これは山岳部にまさにぴったしの部室だと思ったのだが、話を聞くと昨年度山で事故を起こして、何人か亡くなったと云うことであった。さらに話を聞いてみると、入部勧誘のためだったのかも知れないが、事故など何でもないような説明があり、中高と山のことについて真面目に考え、串田孫一さんの薫陶を受けてきた自分にとっては死亡事故のような遭難に対して深い反省のない山登りなど論外であり、この山岳部のあり方に恐ろしさを覚え入部は断念した。
中高と山の恐ろしさはいろいろ学んできたつもりである。しかし彼らの説明には山と真面目に向き合う気持ちや山を愛する気持ちがあまり窺えなかった。結局大学での部活動はしないことになってしまった。しかし、山岳部に関しては、それで良かったのだと思う。その年、山岳部はまた事故を起こして何人か亡くなった。
ついでに時計台のこと。工大の卒業生でも意外と時計台に登ったことのある人は少ないようだ。登れることさえ知らない人が多い。建築の青木志郎先生は戦後、住むところがなく時計台で暮らしていたと聞く。
山岳部に入らなかったかわりと言うことでもないが、出身高校の山岳部のアドバイサーを引き受けることになった。高校からは正式な委任状が出た。数年間、高校山岳部の新人、夏山、富士山の雪上訓練、冬山、春山合宿に付き合うことになった。

180109

雨上がり、道路は濡れているがそれほど寒くない

新聞記事から
・沖縄米軍ヘリまた不時着
 前から結構度々あったにもかかわらず
 大きな記事にならなかったのか
 ここのところたるんでいるのか

・新成人 晴れ着着られず
 詐欺か?
 少なくとも160件
 試算すると結構な額に成る

・ライバルの飲料に薬物
 カヌー五輪候補が混入
 状況を知った加害者が名乗り出るとあるが
 状況を始めから知らなかったとは

民事裁判ネット活用へ一歩
 予算として調査費約4900万円
 日本で一番遅れているのが司法の世界というが
 例として「督促の手続き」がネットでできるようになるとあるが、
 我々の生活にどういう影響があるのか分からない

今日の夕焼け
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今日のガスメーター
普通のガスメーター 
小さい新型のガスメーター
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夕暮れの妙正寺川
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青いレモン 番外編 009 大学一年時代 1   
谷口吉郎先生 2
先生のお住まいは一寸時間を掛ければ歩ける距離で今でもそのお住まいの建物は残っているが、運転手付きの黒塗りの車で大学に来られ、先生が大学におられる間ずうっと正門のそばで待機していた。とにかく当時の先生は偉すぎて、我々からは遠い存在だった。
我々の代が、先生の教えを受けた最後の代でり先生は59か60才であったはずである。しかし先生の鷲の様な目はいまだに脳裏に焼き付いて離れない。退官を前に講演会が本館の大会議室で行われた。教授会の行われる部屋で、滅多に学生には用のない部屋だったが半円状に立派な机つきの座席が国会の議場のように並べられていた。
この講演会で、先生は退官後のやろうとされていた明治村についての抱負を、「これから私は建築のくず拾いをやる」と云った言葉で表現されていた。もう一つ、建築の設計を食べ物に例えて、どんな食材でも一番美味しく食べられる食べ方があるのだと云うことを最後に説明されていた。
あともう一回、先生に身近にお会いしたことがある。卒業一〇周年の会を行い恩師の先生をお招きしたのだが、先生は欠席された。後日記念品を届けることに成り、計画系の幹事の私が先生のご自宅に伺った。その時、記念品をお渡しするだけだったので、玄関ですぐ失礼したが、40才近く違う先生が大変丁寧に対応して下さったのを覚えている。
亡くなられて、青山葬儀場でお葬式が執り行われた。先生は文化勲章をもらわれていたから宮中からお悔やみに人が来られた。その葬儀から大分経ち、はからずも先生とイサム・ノグチの協働作品である慶応の萬来舎の保存のことに携わった。

180108

朝はまあまあの天気だったが夕方から雨
冬休みの宿題を発送
これで一安心
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今日のガスメーター
大きいガスメーター
さらに巨大なガスメーター
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今日のポスト
何年経つのだろう
取り付けられてから
そして使われなくなってから
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今日の花
180108-02.jpg 180108-08.jpg アセビ(馬酔木)

青いレモン 番外編 008 大学一年時代  谷口吉郎先生 1
東大でなくて東工大を受けたのは、小学校からの友人ジー公のおやじさんが、有名な建築家で、今一番よい人材が揃っているのは東工大だと聞かされたからだ。
建築がやりたかったが、ものを創ったり絵を描いたりすることが好きで、理工も苦手でないのはぴったりだと背中を押してくれたのもジー公である。そのおやじさんの仲間が谷口吉郎であり、グロピウスに見いだされた清家清が東工大で活躍していたことも評価に入っていたのだろう。ただ残念ながら谷口先生は既に定年間近で、二年生に成り専門に入ったその年一年習っただけである。最後の教え子と言っても良い。
谷口先生には西洋建築史を習った。いつも小さなサービスサイズ程度のモノクロ写真のプリントされたものを一枚から数枚、黒板に画鋲で留め、話の切りが良いところで前に出てきて見なさいという。黒板の前には一段高くなった教壇があり底に登って写真を見た。
余談だがこの教壇、背の低かったもう一人の谷口先生が建築の教室全てに作らせたと云われていたが、本当のことは分からない。
この写真は毎年、しかも長年使っている様で、写真にはいくつも画鋲の穴があいており、写真自体も多少薄汚れているのだが、先生自身が撮られた他では見られない写真であった。先生はドイツのシンケルに傾倒されておられ、シンケルの作品が出てくると語調が強まったが、ヒューマニズムの時代に育った僕には、確かにプロポーションは素晴らしいが、歴史上の建物で共感とはほど遠い印象を受けた。
その頃、先生は設計活動を活発にされており時々授業を忘れておられ、何遍となく研究室に呼びに行った。何故か呼び行く役目がいつも私のところに廻ってきた。「もくさん」といういつも帽子を被ったお弟子さんが居て、たいてい打ち合わせをしておらてた。「先生授業なのですが・・・・・」と恐れ恐れ申し上げると、すいませんすいませんと云って恐縮され、慌てて用意されて数分後に教室に出てこられた。
自分のことを東工大好みで絶対に役人を目指す東大人とは違うと思っていたが、次第に付き合いをする人が、東工大の卒業生よりも東大の卒業生が多くなった。それが自分の中で抵抗があって、絶対に東大の人が行わないようなしゃべり方を意識してするようになった。

180107

良い天気
風もない
道路の落ち葉も少ない

最後の年賀状を出す
来客あり
楽しく談笑

冬休みの宿題も一応仕上がる
明日提出予定

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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
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青いレモン 番外編 007 大学受験 
テレビ映画に関連して、アンタッチャブルはオヤジがアメリカへ行った時代である。船で往復した訳だが、その時の資料を先日、日本郵船歴史博物館に寄贈した。往復に乗った船が日本郵船の客船だったからである。
オヤジがアメリカに行ったのは、一ヶ月近く掛かる船旅であるから、今と違って、そう誰でも気楽にできることではなく一大イベントだった。母も港まで送りに行きテープを甲板から投げてもらっている。
私が始めて外国に行ったときでさえ、研究室の仕事だからということで先生を始め研究室の人達が羽田まで大勢で送りに来てくださった。そういえば、その頃まだ沖縄は返還されておらず、先生が沖縄に行かれたときも研究室の皆で送りに行ったのを覚えている。大学から羽田まで比較的近かったこともあると思うが今では考えにくい。
オヤジはアメリカに着いて、知人に会うとまず町を歩くときは必ずポケットに手を入れて歩けと云われたという。その理由は、そうしていれば、強盗がもしかするとポケットの中からピストルを撃つかも知れないと襲うのを躊躇するからとか・・・・・、時はまさに禁酒法時代。先方の知人へのお土産の一つが、空洞のステッキに仕込んだウイスキーだったという。
話は戻って、受験の頃のテレビに限らず映画は西部劇全盛の最後の時代か?“駅馬車”、“西武の人”、“アラモ”、“OK牧場の決闘”。受験勉強の合間におもちゃのブリキのピストルをくるくる回してぴたっと止めて引き金を引くなどというたわいもないことで結構楽しんでいた。たぶん1970年ごろ上映された「ブルーソルジャー」は、それまでの悪のインディアンに正義の騎兵隊ではなく、生き残るためのインディアンの試みと騎兵隊の残虐をあからさまに描いた新時代の西部劇で、この一本で旧来のインディアンと騎兵隊ものの西武劇に終止符が打たれた。
一年上に田山さんという山岳部の先輩がいて、家はガソリンスタンドをやっていた。それは関係ないのだが、歌が上手く、特にローハイドはいつ聞いても聞き惚れていた。特に、乗鞍の冬山合宿、外はマイナス20℃の吹雪の中、冬テンで聴いた歌は絶品だった。
 

180106

夜明けが遅い
良い天気だ
落ち葉も少ない

どうもイッキン会は飲みすぎる
しかし早く寝たおかげで、
朝から仕事ができ、
冬休みの宿題もやっと目処がついた?
夕日に輝く?出張所ビル
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環状7号線地下広域調節池(石神井川区間)の発進立坑の工事
妙正寺川から石神井川まで13.1㎞、143万㎥(小中学校のプール4,800杯分)
ここから掘り出し、石神井川まで
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小高いところにある三谷神社
立ち入り禁止の立て札が立ち緑の繁った不思議な後閑薗
珍しい名前だ
そういえば水上の近くに後閑という駅があった
よく乗った鈍行列車は後閑駅に止まった
そこから晴れた日には谷川岳が2つの耳を立てて凜々しく見えた
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今日の民家
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今日の
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今日のポスト
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今日の  この木は生きている?
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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 番外編 006 大学受験 
早い家は中学に入る頃からテレビがあったが、初めのうちは皆隠していた。本当はあるんじゃないかとかお互いに探りを入れ合った時期があった。高校の終わりから予備校時代、我が家も遅ればせながらテレビを買った。
ローハイド、ボナンザ、拳銃無宿、ライフルマン、ビリーザキッド、77サンセットストリート、ルート66、タイトロープ、アンタッチャブル・・・・・・とアメリカ映画最盛期で、たいてい一時間もので中には30分ものもあり良い息抜きになった。
受験生として、夜一時間必ず息抜きをして、親とは口も殆ど聞かなかったが、自分の中で、この一時間だけは親と付き合うことに決めていた。紅茶とオヤジが時々会社の近くのトロイカという店で買ってきたでケーキを食べた。自分自身、受かってほっとしたのは確かだが、親は受験の時期、特に浪人時代、触らぬ神にたたり無しではないが、随分と気を使ってくれていたのではないかと思うと合格して本当に良かったと思う。まさに親の因果は子に祟りであるがその話はまたいずれの機会に。

180105

今日も良い天気だ
風もなく
落ち葉も少ない

今日の新聞は見出しが「改憲原案提示」で一致している

今年初のイッキン会
酔っ払って帰ってすぐ寝る

格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。
161126-03.jpg
特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 番外編 005 大学受験 
受験当日の想い出は全くないと云ってよいほどない。特に一年目のことは余裕も無かったせいか全く覚えていない。二年目についても、早稲田を受験したとき、同じ受験室に仲間が居たことや昼飯を外で集まって一緒に食べたことなど、断片的に覚えているのだが、東工大の受験については殆ど何も覚えていない。ただ特徴のある問題数の多い化学の問題を見ていつも通りだなと思ったこと、英語が意外にできたような気がしてことなど朧気に覚えている。早稲田では二次試験があり、実技で、石膏デッサンがあった。受験なのになんとなく楽しかったのを覚えているが何の石膏だったかは覚えていない。
滑り止めに日大も受けた。願書は、二期の横浜国大も出したが、他が受かったので必要なくなった。
上手い具合に結果は、まず日大の発表があり合格していたが、入学費の支払い期日前に早稲田の発表がありこちらも合格していた。そして、早稲田の支払い期日前に東工大の発表があり、合格。確か記憶では入学金が4500円、月謝半年分6000円で、オヤジが喜んでくれた。その頃は今と違って、国立と私立の差がかなり大きかった。

180104

今日も良い天気だ
昨日風が強かったため
前の私道にたまっていた落ち葉が
吹き出てきて、大変なことになっていた

今日も一日中、冬休みの宿題を続ける

蓮花寺まで散歩
池にはが張っていた
180104-06.jpg 180104-05.jpg

これも中野のマンサード
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これは何でしょう
180104-04.jpg 180104-03.jpg  そしてこれは 180104-08.jpg

前見たときはまだまだと思っていましたが、
今や廃屋
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今日のガスメーター
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161126-03.jpg
格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
180104-01.jpg チューリップとは思えません

青いレモン 番外編 浪人時代 004その頃は、まだ暑さが残っているわけだが、クーラーなどは滅多になかったから、みんなが暑いと思っていると考えると、他人より頑張れるような気がした。また、夏の終わりから秋にかけてはなんとなく体に力がみなぎってくる。
それで、夏の終わりに頑張ったおかげで受験の季節に近づく頃、成績もどうにか持ち直してきた。毎月少なくとも一度はある模擬試験の度に仲間と顔を合わすのだが、誰もなんとなく暗い。受験と言うことで視野が狭くなっていることもその暗さを耐えがたいものにしていた。読書のおかげで以前より自分なりに視野がも広がり外から自分を見つめられるような気がして僅かながら優越感を感じていたような気がする。
自分を見る自分がいて、その自分をまた自分が見るというようなこと、その入れ子の連鎖を意識し始めたのは、僕の場合は遅く、中学の終わりの頃か、高校の1年ぐらいだったと思う。哲学にも興味を感じ何冊か読んでみようと試みたが、あまりにもその頃の生活と掛け離れていてあまり興味が持てなかった。実は電車の中で読むには難し過ぎて分からなかったというのが本音である。
模擬試験の会場は、よく東大の安田講堂が使われた。東大は受けるつもりがなかったから、プレッシャーはなかったが、東大受験生には安田講堂という会場はそれなりにプレッシャーを感じさせていたようだ。

180103

今日も晴れ
正月の3日はオヤジの誕生日だった

今日は一日冬休みの宿題

朝の陽射しを受けて
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八幡様へ 初詣
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昨年のお札を返す
神楽殿が塗り替えられたのか夜の照明の中で
鮮やかだった
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あとはただただ冬休みの宿題

青いレモン 番外編 浪人時代 003
四谷の予備校への往き帰りは、駅まで自転車で行き中央線に乗る。何故だか覚えていないが、電車の中では本を読むことに決めた。浪人時代、大学生時代は西洋文学が主だった。家庭教師が、仏文の人だったので、その影響が大きかったのかも知れない。エウリピデス、ソフォクレスなどのギリシャ神話、イリアスの中の骸となった騎士の鎧がカタカタと鳴ったといった表現はいまだに頭にこびりついている。古代ギリシャの次は、ルネッサンスの文学ダンテの神曲、デカメロン、愚神礼讃などの古典、さらには範囲を広げて千夜一夜物語。谷間の百合、赤と黒、戦争と平和などなどロシア文学。
何故か、その影響を受けた家庭教師の中根忠夫さんには、受験の最も重要な時期に受験に関係ないフランス語ばかり教わっていた。受験の頃はもの凄く熱心だったのだが、大学に入ってからとった第二外国語のフランス語には何故か全く興味を持てなかった。何故だか分からないが単に単位を取った以外何にも覚えていない。そして次第にフランス語も忘れてしまった。それでも主要動詞の活用など今でも少しは覚えている。
予備校内の試験や、模擬試験、暗い生活、時々大学生活を送っている奴とも会うのだが、気が余計に滅入る。予備校に入った4,5月頃は予備校の中でもほどほどの成績、それが夏頃になるとがた落ちする。こんなことではいけないと夏の終わりから頑張りだす。部屋の外には柘植の木があって春に刈り込んだところから数本の枝が天に向かって立ち上がっていた。その上に広がる夏の終わりの夕暮れ前の紫がっかった深い青空が好きだった。
あの柘植も、あとで移植したら枯れてしまった。その移植をすることになった基の木も枯れてしまった。

180102

今日も良い天気
年賀葉書がたりなくなり近くの郵便局に行くが、
閉まっていた
中野北郵便局まで足を伸ばす
結局例年通り

いよいよ冬休みの宿題スタートである
始めが肝心

環七の横断陸橋の陰影
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今日のガスメーター
180102-01.jpg 180102-03.jpg 180102-04.jpg 180102-02.jpg 180102-07.jpg 180102-06.jpg 新しいガスメーターに古いポスト

青いレモン 番外編 浪人時代 002
現役の時は東工大と早稲田を受けたが、両方とも落ちた。
慶応と早稲田の文系を受けた奴は入った奴が多かったが、理系は殆ど浪人した。
文系で入った奴はジー公、タカショウ、カミタイなどなど。
しかし、ヨッチン、シンチャン、イシダ、ツボイなど理系の連中は皆落ちた。そんな中、山岳部で一緒だったカワミチは北大を受け理学部に合格した。英語の試験に"revolver"がでたと、悦んでいた。
此処でまず予備校の受験。駿台予備校の四谷校には入れた。この時も続けて落ちたので、合格発表の番号を見て、無いやとがっかりして帰ろうとして、もう一度見たら番号があった。この予備校、ヨッチン、ニシカワ君と一緒。他にも何人かいた。
予備校に入って間もなく現役で入った連中に対抗してか浪人組で飲みに行くことになった。場所は新宿で何軒か梯子して六花というバーに入った。この店かなり最近まで残っていたが、現在おでんの「お多幸」のある辺り。多少ぼられたかも知れないが、まあまあの値段だったのではないかと思う。それでも浪人生には払えずに、もらったばかりの予備校の学生証を置いて帰り、明くる日払いに行った。
予備校には名物教師なるものがいる。もう名前も何もかも忘れてしまったが、各教科とも教え方が実に上手い教師が一人か二人いた。高校の先生とは全く違う。七五調だか、五七調だか知らないが、リズムにのって講義し、時には聞き惚れてしまうほど説明が丁寧で分かりやすく面白い。実は本当に理解できて無くとも聞いていると分かったような錯覚に陥ることもままあった。
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