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170331

3月も今日でおしまい
朝は曇り
午後から小雨がぱらつきだし、
なんとなく本降りになってしまった

植木屋
道路の上に突き出ていた径100㎜ぐらいの枝を何本か落とす

今日で任意継続保険が切れるので
区役所へ、
手続きに行ったら4月になってからということ
一階ロビーで、
中野の古い道、神田川、小滝橋、隅田川などの歴史地図、絵、写真の展示
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旭湯の見学までは時間があるということで、
十貫坂あたりを見て歩く

袋小路の家1,2
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表通りに一軒
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N邸は健在
桜がほころび始めている
満開のころに来てみたい
郵便受けもなかなかだ
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杉並能楽堂まで行ってみる
久しぶりだな
今日は舞台はないらしい
ひっそりとしている
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途中に二軒
右側の酒屋、昔親父が能楽堂に行くときに酒を包んでもらっていたが、
ここも廃業らしい
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旭湯
廃業してしばらく経つが、
今日は見学会
入口腰のタイル、床のタイル
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裏のタンク?
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富士山の絵
風呂屋の浴室の絵では有名な早川氏の作品。
タイル絵
奥に向かって右が女湯左が男湯
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残念ながらヘルメット型のドライヤーはもう取り外されている
そういえば、カランもシャワーもない
脱衣室、番台、ボイラー室、二階の座敷、裏口もみる
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雨がぱらついてきたが濡れるほどではない
帰り道でもう一軒
妻の飾りがなかなか良かった
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雨のため午後の植木屋は店じまい

今日の花
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青いレモン 090 庭の植木 +170817
庭の木は、今ほど大きくなく明るかった。少なくとも祖父の時代は植木の手入れがよくなされていた。それでも木の上に小屋を作ろうと、木ぎれを運び上げたことを覚えているから、並んで何本かあるシイノキは既にある程度の大きさだったのだと思う。結局小屋の形はなさず、床板数枚で終わってしまった。
多分、木がめったやたら大きくなり出したのは、出入りしていた米倉さんという植木屋さんが来なくなってからだと思う。この植木屋さんは、中野の家にも出入りしていて、一年の大半を中野の家の手入れで過ごしていたと思う。(その頃、親戚の中では我が家は「鷺宮」、あるいは戦前の名前で「明石町」と呼ばれていた。うちが「中野」とよばれるようになったのは、「中野」の家が等々力に引っ越し、前の家「富士見町」が、王禅寺に引っ越してからである。)自転車でリヤカーを引き木製の三脚を脇に乗せて剪定にきた。中野の家は等々力に移っても米倉さんが手入れをしていたが、我が家では父が既に会社を引いていたからもう無理だとお断りした。・・・・・のだと思う。
しかし、手を入れないと木はドンドン大きくなる。見る間に大きくなる。何年かして父が亡くなったときにお悔やみに来てくださった吉岡先生にこんなに木が繁っていると陰気くさい。少し剪って明るくしなさいと云われ、私の植木屋業が始まった。
最近は可成り良く剪っていると思うが、それでもすぐ鬱蒼としてしまう。
子供の頃は、明るかったから母とよく花の咲く木や実のなる木を植えた。ユスラウメ、ライラック、チンチョウゲ。オヤジのこのみで、クリ、イチジク。
ユスラウメは随分長いこと実がなり楽しませてもらったが、いつの間にか枯れてしまったというようなことを前にも書いた。大きな木の陰では、小木はなかなか育ちにくい
後になってだが、鵜の木からシダレザクラ、フジ、ツバキ、ドウザン、サンシュ、ハナモクレンなど移したが、シダレザクラは2年ほどで枯れてしまった。サンシュも枯れたが他は元気である。土とのなじみなどがあるのだろう。
シダレザクラを移すために庭の西側に移植した西洋館の前のツゲが枯れ、もう一本門の脇にあったツゲも数年のうちに元気がなくなりとうとう枯れてしまった。何年もかかって次第に弱っていくのを見るのはつらいが、樹医にでも診てもらえば助かったのかも知れない。チンチョウゲ、モッコク、カナメはあっと言う間に枯れた。あれは何なのだろうか?それにしても我が家の竹は元気である。

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170330

良い天気だ
午前中北鷺宮に
返却した本につけた付箋
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三岸アトリエ
また、膨大な資料!
三岸アトリエも植木屋さん

植木屋
だいぶ明るくなってきた
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夕方から中野たてもの応援団定例

今日の花
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青いレモン 089 朝礼 170818 170819
中学校の時は毎朝、校庭の運動場で整列し朝礼があった。雨天の時は教室で校内放送を使って朝礼がある。
朝礼の時に校庭で立ったまま凝念をした記憶がある。でもあまりよく覚えていない。時々、朝礼で立っているときに倒れる奴がいる。ジー公も一度か二度倒れた。あれも青春の証かも知れないと今になって思う。
校庭は2段になっていて、校舎のすぐ前は芝生で、その南側が一段低くなって運動場になっていた。境がコンクリートのベンチになっていたような気がする。一年の頃は、晴れた日などここに座って弁当を食ったが2年3年に成ると昼飯は部室に集まって食うようになった。運動場の南端に鉄棒があり、守永君と若本君がよく鉄棒をしていた。(守永君には2017年8月13日に逢った。若本君も元気だそうだ。)
校舎は3階建て、裏庭があって、その北の外れに木造の建物が建っていて渡り廊下で繋がっていた。この古い下見板の木造の建物の東南の隅に山岳部の部室があった。何の時か覚えていないが、山岳部の二年後輩の臣公(オミコウ)というのがいて、片手でやっと持ち上げられるほどの大きさの赤土の塊を持ってすざまじい勢いで追いかけてきたことがある。勿論ふざけてではあるが、時々凶暴性を発揮する。彼は芸大に行って、彫刻をやりたかった。5浪して諦めた。なかなか諦めきれなかったと思う。5度とも学科試験で実技を受けられなかったからで。しかし、彼なりに吹っ切れたのか地元で「カティーサーク」という紅茶の店を始めた。当時紅茶を専門に飲ます店はなく、新聞や週刊誌にも載り可成り辺り有名になった。今は駅前で、バーを開いている。また彼は気っぷが良く毎年、地元の八幡神社の祭りを仕切っている。こちらの方が本職かも知れない。
学校の話に戻るが、昼休みには近所のパン屋が、パンを売りに来ていたが、そのおばさんがコーヒー牛乳と云うとどう聞いてもコウシン牛乳と聞こえてしまう。当時、興新牛乳(興進?)というのがあって紛らわしかった。つまらないことを覚えているものだ。


170329

3月も残り僅か三日
天気は良いがまだまだ寒い

今日は植木屋
少しは明るくなったかな
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夕方、少し歩く

昨日、矯正研修所の中庭で拾った松ぼっくり
一日で見事に広がった
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今日の花
170329-06.jpg 夜の公園のハナミズキ

青いレモン 088 通学2 170727 170812 170816 170818 170819
中高と制帽をかぶれとうるさく云うターザンという体育の教師がいた。オリンピック選手の候補(近代五種だったような記憶がある)になったが上手くいかず、その後、精神的なダメージもあったらしく、生徒の方から見ると異常に厳しくなった。校門や通学路に隠れていて、制帽を被ってないとつかまえて、停学にした。制帽はもはや流行らない時代で、大抵鞄の中にしまって通学し、学校近くなると出して被る。しかし話に夢中になっていたり、遅刻しそうで走って駆け込もうとして、捕まる運がわるい奴もいた。こちらは落第に結びつくことは少なかったが、タバコで捕まり停学になり一年遅れた連中は少なくない。
多分、当時、バンカラ気風が残っていた最後の時代だったと思う。手ぬぐいこそ腰に下げていなかったが、薄汚れたよれよれの格好に憧れた。長髪につばの折れてヘリがぼろぼろになった制帽を被り、裾のすり減った制帽のズボンと、首のところのホックは掛けないよれよれの蛇腹の上着。我ながらかっこうようと思っていた。一方、ホックの制服をチャックにつけ直すおしゃれな連中もいた。タバコは中学校の時一緒に山に付いてきてくれた友達のおやじさんに教わった。有名な映画監督が兄弟にいる建築家で、中学で、酒もタバコも知らないのか!と半ば強制的に覚えさせられた。しかし、中学生がまさかと思うのか捕まるような状況には一度もならなかった。高校はタバコに対して厳しいと云うこともきいていたし、今更イキガル気もなかったので、高校に入ってから卒業するまでやめた。やめられたのは格好をつけて吸ってはいたがまだまだ本格的でなかったからだと思う。高校を卒業し、タバコを吸うようになり、だんだん本数が増えハイライトが一日二箱では足らなくなり、ある日突然タバコをやめたのは30近く成ってからだったと思う。
高校時代は、部活があり帰宅が遅くなった。腹も空くから仲間でなにか喰って帰る。本当はいけなかったのかも知れないが、こちらは少なくとも黙認されていた。学校の近くでは尾張屋という蕎麦屋(2016年までやっていた)、福寿軒という中華そば屋、駅のそばの北京という中華屋、ここの餃子は美味かった。夏はかき氷をよく食べた。駅の近くのお菓子屋のかき氷は、他と違い氷の肌理が細かくて美味しかったのを覚えている。ほとんど氷イチゴ。喫茶店に行きだしたのもこの頃だった。ヨッチンは音楽好きで歌声喫茶に通っていたが、僕にはそういう趣味は全くなかった。

170328

天気が回復した
さあ!植木屋だ!
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矯正研修所の見学会
あまり面白くはなさそうだとも思うのだが顔を出そう
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ところがなかなかの建物
中庭など何とも言えず素晴らしい
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体育館もプロポーションが良い
お稲荷さんの在った敷地から
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一部木が切られているが大事な木は残されている
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前野先生、矯正研究所の教頭先生に顔のスケッチを渡す
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平和の門、研修所の建物の3階から、2階から、そして地上から
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ディテールもなかなかなもの
樋の水落
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最後に食堂で意見交換
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青いレモン 087 通学1 170727 170812 170816 170817 170818
幼稚園の通園については詳しく書いたが、小学校に行くようになってからも、同じようによく歩いた。中央線の駅まで歩いて通った、一年の最初だけは数日母親が学校まで付き添ってくれたかも知れないが、その後は暫くオヤジと高円寺まで歩いて登校したと思う。
クラスの中に一人だけ可成り長い間(多分数ヶ月)、和服を着た女中さんが付き添ってきて、教室の後ろの方で、帰りの時間まで子供用の小さい椅子に腰掛けて静かにじっと待っていたのを覚えている。
家から駅まで約2200歩ある。幼稚園の片道より少し距離がある。電車に乗って、そこからまた同じぐらい歩く。駅から学園前までバスはあるのだが、先生の許可がないとバスには乗れない。小中高と12年間通った。もっとも中学になってからは高円寺の駅近くまで自転車を利用した。
小学校の頃、5,6年生の頃だった思うが、放課後遊んで夕方多少遅くなって消防署通りを歩いていると、たまたま前の家の康資伯父さんが車の中から見つけてくれて乗せてくれた。そんなことは一年に数回なのだが、期待して時々後ろを見ながら歩いて帰ってきたのを覚えている。まだまだ住宅地を走る自動車の数が少なかった時代である。はじめの頃はオースチンだったと思うがこれには乗せてもらった記憶がない。その後、日野のコンテッサになった。この伯父さんは新しいものが好きで、テレビも早い時期に買って時々見せて貰った。大きく木製の観音開きの扉が付いてテレビだった。その伯父の新しい物好きのおかげで、エリザベス女王の戴冠式はカラーテレビで見ることができた。伯父は酒飲みで、よく酔っ払い運転で検問に逢っていたようだが、その頃は風船もなくたいてい、片足で30秒ぐらい立って許してもらっていたようである。風船ができたときはまずいまずいと云っていた。
消防署通りの可成り妙正寺川に近いところに「敏正堂」というパン菓子屋があった。あまり長く続かずいつの間にか亡くなってしまったが、道路脇に可成り大きい縦書きの看板があったが、やはり自分の名前が大きく書いてあると気になり良く覚えている。帰宅途中、その店のそばで、見るからにいじめっ子風な子供が数人たむろしていて、何か云ってきた。あまり効果なさそうだなと思いながら、疲れているからまた今度といったらそのままになり、その後逢うこともなかった。今度あったら何と云おうか真剣に考えていたが、何故一度だけ彼らに会ったのか、どうしてだろうと今でも思う。
中学校の頃は、ほとんど自転車で駅まで通っていた。高校、予備校時代も同じである。小学校の時はランドセル、その後は手提げ鞄を脇に抱えていた。この手提げ鞄、布製でなく布地模様のビニール製だった。感触は気に入らなかったが、丈夫で雨に濡れても中身が濡れないし、結局ぼろぼろになって卒業するまで使い続けた。

170327

朝から雨
それも結構降っている

宇都宮往復
宇都宮に着く
170327-01.jpg 篠原邸
宇都宮に着くと雨が止んでいたが、
雪による悲しい事故を報じる号外が配られていた
宇都宮市役所で相談事

国立病院機構栃木医療センター
170327-03.jpg 170327-04.jpg 最近の航空写真

委員会
170327-02.jpg 会議室

タクシーの運転手さん
男体山は真っ白で、
日光も雪と云っていた
寒いはずだ
小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
このブログで、FBのコメントで、メールで、住所を書いてお申し込みください。
本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

青いレモン 086 鈴木さんの叔母ちゃん 170726 170812 170816 170817
オヤジには姉さん一人と弟一人がいた。弟はもう一人いたが早くに亡くなっている。姉さんは敏ちゃんの母親だが、戦後まだ十分に復旧がなされなかった時期に中野組合病院で亡くなっている。僕がまだ小学校の低学年の頃、祖母が亡くなってすぐだった。
オフクロの方は兄貴が三人と妹が一人、よく妹と会っていたが、会う度に喧嘩して帰ってきた。そしてぶつぶつ文句を言う。しかしまた暫く経つと二人で逢いまた喧嘩をして帰ってきた。兄弟のいない僕には不可思議な現象だった。この伯母は、オフクロが聖路加病院に入院していたとき、我が家にきて母親代わりにいろいろ面倒を見てくれた。その頃は可成り小太りで、小学生の僕はおばちゃんのおなかをつついてからかった。御主人は可成り酷い喘息で、仕事ができなかった。戦前はお米問屋を神田須田町の辺りでやっており、今更という処もあったのだと思う。当時は米は専売で可成り恵まれた商いだったようだ。晩年はお寺に住み込み手伝いをしていたようで、得度したのか戒名も自分で付けられたと聞いている。喘息が原因で烏山の病院で亡くなったのは大分経ってからのことである。母と最後にお見舞いに行ったとき、僕が10分ほど病室を出て、病院の周りを回っていたときに亡くなった。鈴木さんの叔母ちゃんは可成り長生きをされたが、最後の方は記憶がだんだん怪しくなってきた、それでも「敏正ちゃんは優しいけど芯はしっかりしているのよね」と何故か何遍も褒めてくれた。最後に病院にお見舞いに行ったときは、僕の名前は覚えていて、小さい僕をおんぶしたことも覚えていて、そのことを繰り返し云われたが、そのほかは忘れてしまったと云う。それでも一生懸命僕のことを思い出そうとされていて、ああ、やっぱり思い出せないと云われていた。一時間ほど話して帰ってきたが、やはり記憶はそれしか広がらなかったようだ。
鈴木さんのところには、壮太さん、敦子さん、宏子さんがいるが、年が近かった宏子さんとだけは、冠婚葬祭以外にも時々電話で話すなどいまだにお付き合いが続いている。2~3年前、家の荷物の整理をしていたら、昔、母が預かった大きめのトランク一杯の鈴木さんの手紙などが出てきたので宏子さんのところに届けたが、かなり傷んでぼろぼろになっていたので、迷惑だったかも知れないが勝手に処分するのもなんとなく気が引けた。

170326

朝から雨
薄ら寒い

裏の敷地のブロック塀はできあがり、
緑色のシートが敷いてある
夏草を防ぐためか
長期戦を見込んでいるのか
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今日は白鷺で中野たてもの応援団
お掃除ボランティア
雨で何もできず、雨が上がると良いと思い
気象庁のレーダーを見ると、
午後にはあがりそうにも見えたが
結局夜まで降っていた

白鷺の茅葺き民家の庭で、
竹の根っ子
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お宅拝見
かなり長時間お邪魔してしまう

鷺宮図書館
岸節子の資料を調べ始める

今日の花
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青いレモン 085 富士山研究 170726 170812 170816
オヤジは歩くのが好きだった。別に健康のことを考えてではなかったと思う。とにかく、よく都内の道を知っていた。特に山手線内は詳しく、鉄道だけでなくバスも使いこなしていた。長いこと歩くから公衆トイレの場所も良く把握していた。特に都心には普段は見過ごしているが、気にして探すと公園の中や、暗渠になった掘り割りの上など意外と沢山在る。オヤジは細い路地を歩くのが好きで、オフクロは犬みたいだと云っていた。これは僕も引き継いでいる。広い道や整備された道よりも細い未整備な道の方が好きだ。何故か役人はこの様な道を目の敵にし、次第に普通の道ばかりにしようとするのか?普通の道ばかりになるは寂しい気がする。役人の管理根性によると思っている。
オヤジに云わせれば、田舎っぺだからだという。都市の猥雑な魅力を知らないからだという。オヤジはセンスのないことを田舎っぺと表現した。田舎で育ち、都市に憧れると都市にはそんな猥雑なところはなく整備されて綺麗だ思い込んでいる。そういう連中が役人になるからいけないのだと云いたかったのだろう。確かに分かる気もする。
オヤジは晩年、会社を引いてから都内に富士山信仰でつくられた小さな富士山が都内に多数あることを知って写真を撮って廻っていた。いろいろ説明を聞いたが、フンフンと聞いているだけだった。もっと真面目に聞いておけば良かったような気がする。
千駄ヶ谷の駅から日本建築家協会へ行く道の途中にも富士山が一カ所ある。鳩の森八幡神社の中である。なかなか立派な富士山である。オヤジはここを知っていただろうか? 当時は都内の富士山巡りをばかばかしいと思ってみていたが、近所を散歩して歩く最近の自分に重ねると目的があってそれなりに充実感を楽しんでいたのだと十分に分かる気がする。

170325

春らしい良い天気だ
まだまだ寒い
裏のコンクリートブロック塀はだいぶできてきた
人数を掛けているので速い
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今日は次大夫堀民家園
成城からバスに乗るが渋滞していて時間は歩いた方が早かったぐらいである
着いてうろうろ
おかげで新井薬師の童謡発祥の地と云われる民家と同じような竹垣の農家に巡り会えた
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11時半頃
裏門から入る
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旧加藤家住宅主屋
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170325-15.jpg 戸袋だけ独立して飛び出している

旧安藤家住宅主屋
行灯と枕
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旧秋山家住宅土蔵
170325-08.jpg 170325-18.jpg 管理棟に展示されていた工程模型 

旧城田家住宅主屋
みたらし団子
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漆喰が真っ黒に輝いている

旧谷岡家住宅表門(長屋門)
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右側は土間で「ドジ」という
左側は床が張られ「クラ」という
此処で皆さん方が集まり出す
管理事務所で集合
稲葉先生の説明を聞く
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次大夫堀のいわれについても

もう一度表門を通り
鍛冶展示小屋
鍛冶屋さんの話が面白い
日本の鍛冶屋は松の炭に、鞴に、これ!
170325-23.jpg 170325-13.jpg 和釘の工程
鍛冶虎で「かじや」をつくってもらったのを思い出す

木挽き広場を通る
林以一さんが懐かしい
お元気かな
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加藤家、城田家を見る
城田家は元は酒屋か何か妻入りの商店
大分改築されていたらしい
たっぱがある
興味深い稲葉先生の説明
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そのた目についたもの
祠と井戸
これは何だ?
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帰りは野川をわたり成城まで歩く
地形が分かって面白かった

教科書問題内閣府が官僚の人事を握っていることの影響か
アメリカの大統領に近くしたい?
内閣、あるいは首相によって格差が激しくなる

裏の家、夕方にはアルミのフェンスもだいぶできてきた

今日の夕飯
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今日の花
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桜が咲き始めている(次大夫堀民家園にて)

青いレモン 084 オヤジと狂言 3 170813 170814 170815
小さいときは杉並能楽堂の舞台の上や、客席、楽屋でよく遊びました。普通の家とは違い可成りの広さがあるので、走り回ることができ、その上、いろいろ、刀や烏帽子などの小道具があました。勿論、大切な小道具をおもちゃ代わりにする訳にはいかない訳ですが、練習用のものなどもあり、楽しくてしょうがなかったのを覚えています。オヤジは能狂言に興味を持たせようと、多少努力したみたいですが、小学校に行く頃にはたちぎれになってしまいました。それでもいまだに「・・・・・治承四年八月ひと日・・・・・金覆輪の鞍置かせ・・・・・」などと石橋山の一節が頭をよぎることがあります。つい暫く前まで、可成り覚えていたのにどんどん断片的になっていきます。その後、学校の友達と遊ぶようになり、全くという程足が遠のいてしまいました。それでも何年かに一度は、オヤジから切符をわたされ見に行ったように記憶しています。その後、山本会の玄関先までオヤジを迎えに行くことはよくありましたが、中には入ったことはないままです。杉並能楽堂は、その後国の登録文化財に登録されて大切に使われています。黒い板塀に囲まれ、緑もあるなかなか風雅な建物です。今は椅子の客席になったと聞いていますが、視点の高さはどう調整されたのでしょう?太郎冠者などという名前や舞台の上が無限の場であり、現実とは違った時間であることなど見聞きしているうちに自然と理解できていました。
日本の暮らしには約束事の上に立つプライバシーがあったと思っていますが、その約束事と、狂言の成り立ちもどこか似ており、落語を生み出したのも同じ根ではないかと思っています。

170324

3月も残り1週間
ぼんやりとした青空、
春霞
寒い寒いと言っているうちに
桜が咲いて春になる

裏のブロック塀工事が始まる
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Mさんの地境
問題は道路幅
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植木屋は進まないが、
木の芽は待ってくれない
寒さが続いているが、
こういう時は突然芽吹く、

ベターリビングの会議が2つ
途中でちょっと寄り道できるかな
春江の四人展 JINEN GALLERY 小伝馬町を見に行く
金網やさんのビルの3階?

一度帰宅し
インテリアの会議
今日で終わり
感謝状など貰ってしまった。

小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
このブログで、FBのコメントで、メールで、住所を書いてお申し込みください。
本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 083 オヤジと狂言 2 170813 170814
手元に、三世が書いた現在の東次郎さんの「則寿稽古控」という小冊子がある。四世の則寿さんが五才で初舞台を踏まれてから小学校六年生の一月までを記したもので、その間、数多くの舞台に父も出ている。テレビにも出たのを見たこともあるがそれはだいぶ後になってからのこと。ビデオはないが、録音したテープは母が大事にしていたが、あれはどうしただろう。三世の東次郎さんは、自分の藝を家で寝てみられるのがいやだと、テレビの出演は断られていたと覚えている。倒れられ、帰らぬ人となられたが、顔が大きく恰幅の良い姿は良く覚えている。
練習の日や、舞台の日、あるいは会合の日に良く迎えに行った。杉並能楽堂から、自宅まではそれほどの距離はないが、バスに何本か乗り継がなければならないなど交通の便があまり良くないので便利だったのだと思う。時には何人か乗せて何カ所か廻ってから帰った。私も還暦になったときに、六十の手習いで狂言をやろうかと考えたが、父ほどにはできないだろうと思いやめた。父はいろいろな面で、山本会に入れ込んでいたようで、少なくとも私にはそれが出来ないと思った。父が亡くなったとき通夜も葬儀も自宅でやったが、四世の東次郎さんも来てくださり、母の頼みで一曲歌ってくださった。
お弟子さんで、覚えているのは、山本さんのご親戚であり、確か須田さんとも姻戚関係にあった門井さん、山本さんの内弟子で、安兵衛商店の社員でもあった中島登さんなど、時間を掛ければまだまだ懐かしいことが浮かんでくると思う。


170323

今日は曇り
一日中曇りらしい

朝、西隣の家を写す
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測量の結果は来月半ば頃らしい
Mさんの南側から始まって、
Yさん、Mさん、Sさん、と続きさらに、Iさん。
知っている人はみな出て行ってしまう

今日の植木屋さん
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今日は大岡山
4月の京都での集まりの打ち合わせ後、
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あたり屋

都は東京ガスから豊洲を560億で買う契約をしたとか
豊洲に引っ越すと築地はいくらで売れるのか
誰が買うのか
マージンなるものはどこかに転がりこまないのか?
カジノもここを使いたいと云っているあたりがなんとなく匂うのだが

今日の花
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秋海棠・木瓜(今年は蕾が2つのみ)

青いレモン 082 オヤジと狂言 1 170813
オヤジは狂言をやっていた。おそらく本業以上に社会的な評価があったのではないかと思う。師匠は、今の四世東次郎(則寿)の先々代二世と先代三世東次郎。舞台名は伊勢喜穂で、伊勢は会社のあった「伊勢町」から取ったとのこと、喜一郎の喜の字を入れている。「伊勢町のキーボー」というあだなからつけた洒落。
記録によると「杉並能楽堂は、はじめ本郷御弓町にあった渡辺銀行がかなり援助していたようですが、その銀行が取り付け騒ぎで潰れましたが、建物は二世東次郎の名義になっていたので、杉並の和田に移築しました。この時、この移築を二世とともにお手伝いしたのが父だったようです。元々この舞台は一世、二世をひいきにしていた井伊家の御当主の紹介で、江戸城にあった能舞台の図面を拝借し、それをもとにつくられたと云われています。特徴は切戸口が非常に小さいことで、将軍や大名の前に出るとき能役者が頭を深々と下げるようにつくられていたようです。
鏡板の老松は正木白羊という方で、狂言もやられた方ですが、この絵も江戸城で使われた下絵をもとに写したと云われています。」
小さい頃、多分小学校に上がる前のことであるが、この舞台の上や裏の楽屋で、今の東次郎さんとそのご兄弟たちとよく遊びまわった。勿論、楽屋にもよく行って、いろいろ道具や衣装を見たり触ったのが懐かしく思われます。客席は畳で、正座してみました。

170322

天気が回復し青空
風がかなりある

I-S-Kの地境 立ち会い
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今日は区にJIA中野地域会から出した陳情書
「区役所・サンプラザ地区の再整備を独自性・先進性に富むものとする」絡みで、
区の委員会の傍聴と補足説明
向かって左側に議員、右に事務職員
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裏の敷地の
ブロック塀の工事が始まる
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今日の花
170322-04.jpg 我が家の乙女椿

青いレモン 081 自転車置き場 170724 170812
中高、浪人時代と続けて、最寄りの駅まで自転車通学をした。家の近くに住んでいた同じ学校の山崎君、兄弟二人の人の知り合い(親戚)が、高円寺でアパートを経営していて、その庭に自転車を置かしてもらった。山崎君も一緒だったが、滅多に顔を合わせることもなく長いこと続いた。6~7年ぐらいは続けてお世話になった。なんぼか払っていたのだと思うが覚えていない、駅の近くに有料の自転車預かり所もあったが高いし、一杯だと置けないなどなどアパートの庭の方が駅からは離れていたがずっと良かった。歩けば急いでも15分、自転車で急げば5分少々、眠い朝の数分は貴重だった。それでも不思議と遅刻せずに余裕を持って通っていたような気がする。
今では、代は変わったと思うが同じところにアパートがあり、アパートの方も新しくなっている。アパート経営のおばさんはなかなか美人だったが、生きていればもう八十を超えているだろう。川道になかなか美人でという話をしたら、年増なんて趣味がわるいなどと分かったようなことを言っていた。
とにかく雨の日も風の日も自転車通学をした。今と違ってそううるさいことは云われなかったから雨の日は傘を差して出かけた。雪の日と荷物が多い日だけは歩いた。今は、駅の近くに立派な自転車置き場があり、路上に置いておくと撤去され取りに行くとそれなりの費用を払わせられる。また通知が来るまで可成りの期間が掛かりその間自転車が利用できない。だから自転車を買って前の自転車を取りに行かない人がでてくる。僕は被害に遭ったことはなかったが、その頃は、路上駐輪は盗難の被害が多かったようだ。

170321

今日は久しぶりに道路掃除はお休み

郵便局など五カ所を傘を差して歩いて廻る

JIA中野地域会の定例
小雨の中自転車で出かける
帰りにはあがっていると思ったが、
小雨が降り続いていた

内閣の密議も内容によっては共謀罪が成り立つ?
果たして危険があるかどうかは取り調べてみないと分からない
つかまえてみよう

今日の花
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青いレモン 080 お祭り 170724 170811
小学生の頃、他に楽しみが少ないので、お祭りにはよく行った。うちは鷺宮の八幡さまが氏神様である。大和町の方がずっと近いのだが、昔の住所が、鷺宮だから、そこの氏子と云うことで、今でも年に一回は寄付を集めに来る。
近い、鷺宮の八幡様、大和町の八幡様、高円寺の神社、阿佐ヶ谷の神社、沼袋の氷川神社とお祭り巡りをした年もある。小さいとき、好きだったのは山吹でっぽうで、連発銃が夢だったがこちらは高くて手が出ない。普通の山吹でっぽうを買って帰ってきて、数日すると玉もなくなりそのままほっぽられていた。さすがに子供の頃のおもちゃ箱にも残っていない。
鉄砲の方は、何色かに色が塗られ、弾の山吹の方も両先端にピンクと緑の色がしみこまされていた。最近まで、お祭りで山吹でっぽうを売っていたが、このところ見ていない。お祭りにも行ってないし当然である。
お祭りに行くとやたらいろんなものを買って食べる友達もいたが、僕はあまり食べ物には興味がなかった。あと、ゲームというか、籤というか、お金を払ってひもを引くと賞品が当たるものにのめり込むものもいた。たわいないものなのだが、やはり思っていたものはなかなか当たらず、何遍も貢いでしまっていた。
アンズ飴、当たると二つもらえた。金魚すくい。コツを覚えると何匹でも取れと云うがそうなるとまた面白くない。亀の餌にしようと小さな金魚を持って帰ったが、可哀想で結局、飼ってしまったその金魚、単純な和金だったからか結構長生きして大きくなったのを覚えている。大和町の八幡様の横は良く通るので祭りの準備など目につくが、屋台の数も随分少なくなって、盛んだった頃の賑わいはない。歩けないほどひとが群がり、アセチレンランプの臭いがしていた頃のお祭りには夢があったな。


170320

明日は天気が崩れそうだが、
今のところ良い天気だ
中野たてもの応援団マップ作りまち歩きがあるから
天気はもってほしい

鷺ノ宮駅を出発
北へ、
住宅の壁際の花壇で自動散水栓を用いているのは珍しい
白い住宅
すっきりしたガードレール
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玄関前のモビール2題 洋和
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錆びた郵便受け
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F邸で
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ベイウインドーのあるいえ
上からの写真は初めて
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鷺宮地域活動センター
最後に熱が入った
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今日の花
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青いレモン 079 玄関 170723 170724 170810
元々玄関だったところを部屋にした。祖父が亡くなり客も減ったことで、玄関が二つも要らないだろうとオヤジが内玄関だけにした。最初は西洋館の次の間の様な形で使ったり、納戸になったりしたが、火事の後、寝室にした。この表玄関の床は洗い出しだったような気がするし、タイル張りだったような気もする。入り口の建具は引き分けの曇りガラスが入った格子戸。沓脱石が置いてあり、幅広の廊下にあがると正面に右上がりの階段が見えた。天井も照明器具も当時と変わっていないが、階段は向きを逆に付け替えた。
自転車が貴重品だったときは自転車を玄関の中にしまっていたときもあったような気がする。
この引き分けのガラス戸は通常片側が固定されていて、ねじしまりの他に中央で、簡単に引っ掛けて止められるようになっていた。いつも誰かが家にいるから鍵というものを可成り後になるまで使ったことがなかった。朝出かけるときはこの引き分けのガラス戸から出て、指で金物を持ち上げ、落とすと一応錠が掛かる。召し合わせは、印籠になっていて、外から針金で開けたりはできないようになっていた。今のようにしょっちゅう忘れ物をすると大変だが、当時は忘れ物は滅多になかった。
この寝室とは云えないスペースで、人生の可成りの時間を過ごしたことになる。酷い場所だが、一つだけよい点があった、家に帰ったり出て行くとき必ずこの部屋の前を通る。守衛室の役割を果たした。子供たちがいろいろわるいことをやった頃、この場所が寝室でなかったら、彼らの行動を把握できなかったのではないかと思うが、もはや、その役割は終わった。

170319

良い天気だ
お彼岸のお寺回り
道がすいているとよいが
尾張屋さんのお墓と紋
紋の名称は「牧野柏」
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月島
開発が行われている
月島へ行くと何時も寄るもんじゃの店も表通りに移動させられた。
路地を入ったところで雰囲気があったのに
今は東半分、すぐに西半分も
どうなる月島!
本当に余計なことをするものだ
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仕事が遅くなった
一日一本の割で進んでいたのに
一本に数日かかる
頑張らなくては

米国内の批判が多くても
アメリカの大統領の力は侮れない
G20が、保護主義の方に少し方向を修正

裏の更地の看板
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今日の夕食
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小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
このブログで、FBのコメントで、メールで、住所を書いてお申し込みください。
本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 078 会社の付き合い 船坂さん 170810
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手前でたばこを吸っているのが船坂さん。その奥後ろにいるのがオヤジ。一人後ろでパナマをかぶっているのが茂の伯父。前の子供、奥が僕で手前が智ちゃん。他は見覚えのある人はいない。
この写真は、高野山に行ったときだと思う。確か登山電車に乗ったことや、鬱蒼とした樹木の中に石の柵に囲まれて五輪塔が林立する参道を歩いた記憶がある。この写真はどこかの寺院で説明を聞いているところだと思う。昼間は研修、観光をして、夜は宴会、麻雀。
クロノス会の旅行か?帽子、白いワイシャツ、ノーネクタイ。靴は黒だけでなく白も少なくないのは当時の流行を表している。

170318

良い天気だが花粉の飛びが激しい

遠藤新設計の住宅の見学会
三宿の萩原邸 登録文化財
遠藤現さんの説明 和室の窓 玄関の窓 昔の番地 
文字色居間から書斎を見る 書斎の机(天板はコルク) 得意の本棚
沓摺 和室の畳に日差し 和室から食堂キッチンを見る
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南側、二階が増築されている。
ミニ音楽会を楽しんで解散

近くの栄珠稲荷神社
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昨日までの植木
シイノキⅡ,Ⅲ
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今日の花
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青いレモン 077 凝念と心力歌 170808
学園創始者の考えにしたがって、朝必ず朝礼がありそのはじめに、凝念が行われる。寺でお経をあげるときに使われるような直径50センチぐらいある鐘を鳴らして、凝念がはじまる。お釈迦様のように手を組み、目を半眼にして瞑想する。
小学校の時、普段は教室で、何かあると本館の講堂で朝礼をしたような気がするが、記憶というのは不確かなものであまり定かでない。創始者の中村春二先生が作った「心力歌」については時々話を聞いたりすることはあったが、我々の時代には教育には、あまり積極的には取り入れられてなかった。だから、最初の3行ぐらいしか覚えていないが、我々よりも4~5年先輩は、暗記させられたらしく皆さん良く覚えている。「・・・・・人なくしてそれ何の天ぞ、人なくしてそれ何の地ぞ・・・・・」ヨーロッパの考え方と同様、人間中心の考え方であるなと思った。環境問題とは相対する考えかも知れない。時代とともに変化し、今では凝念もやらなくなったらしい。
次第次第に、創始者の理想は薄れ、普通の学校になっていく。あと一つ、創始者が大切にしたものにお掃除がある。良く掃き掃除をやらされた。大久保先生という長い顎髭の生えた可成り年を取られた先生の指導で、竹箒で外の通路などの清掃を行った。その時に大久保先生は必ず中村春二先生について短く語られた。
大きな竹で編んだちりとりをミイという。今でも何故か大久保先生の「ミイをもて」という言葉がのこっている。谷川の山小屋である虹芝寮は旧制高校時代、旅行部の学生の発案を学園が支持して作った山小屋である。その山小屋が今でも残っていて盛んに活用されている。山岳部の先輩である渡辺兵力さんが、山小屋が残っていまだに使われているのはまさにお掃除の精神によると云われていたがその通りだと思う。

170317

良い天気
なんとなく春めいてきたような気がする
札幌は大雪と聞いていたが、
意外と雪解けが速いようだ

オランダの総選挙
我が第3の故郷としては一寸ほっとした観がある
他民族・シェア-など先進的なことを経験し
その上に成り立っている
日本もいずれ学ばなければと考える日が来るかも知れない
あるいはトランプの後を追うか

昔々、リンガフォンの英会話教材を使ったことがあった
内容は植民地で、使用人が英語を理解できないと
自分たちの生活に困るから
しゃべれるようにする、
英国の文化を理解させる
内容だと思った
途端に何が良い教材かとちょっぴり憤りを覚えた
幾つぐらいの時だったろうか
でも何で英語の教科書には同じように水仙がでてくるのだろう
いまだに不思議に思っている
水仙を見る度に不思議に思う

今日は区役所で2つ用事がある
1つは議員さんにJIA中野地域会が出した陳情書の説明
もう一つは中野たてもの応援団のガード下展示
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早速展示を見て下さる方がおられた
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帰りに歩道橋自転車を押して越えてみた、
一応自転車用のレールはあるが、
酷いものだ
角は曲がり切れないし、たまたま越えた向きが逆勝手であったこともあるが操作性が悪い
片側レールだともめ事も起こりそうだ
爺さん婆さんにはお勧めできない
170317-05.jpg 向こう側はいってこい階段
こちら側は直階段
L時に曲がるのもなかなか難しくUターンはさらに難しい
レールに後輪が入ってくれない
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向こうから来てこちらに降りた

青いレモン 076 ナンチャン 170723 170807
中学山岳部の顧問の先生は南條先生。あだ名はナンチャン。真面目を絵に描いたような先生だった。頭の毛はうすく可成りの年ように思っていたが、今考えるとそんなに年ではなかったのだと思う。黙々と合宿に付いてきてくださり、いくらでも寝られる年頃の僕らが、朝少し寝過ごすと、黙々とたき火を起し、一人で米をといで下さっていた。その頃は、枯れ枝を集めて、飯を作るのが常識だったし、枯れ枝など数分(掛かったとしても10分ぐらいで) で集められた。これは奥多摩でも、北アルプスでも同じことで、勿論、禁止されておらず。キャンプを張って良いところとわるいところなども決まっておらず、水場に近く地面の平ら場所を見つけるのも一つの楽しみだった。
中学三年の時、合宿は丹沢だった。帰りは山頂から下まで、ノンストップで駆け下りた。南條先生は文句も言わずに付き合った下さったが、可成りつらかったのではないかと思う。
南アルプスの甲斐駒ヶ岳と仙丈へ行ったときに、23:55の最終夜汽車に乗った。これはよく利用する定番の鈍行列車だが、6時頃から並んで席を取った。しかし、何のことはない。走り出す頃には、席を譲って、結局みんな床に新聞紙を引いてごろ寝。南條先生だけ席に座り、膝に乗せた肘で手をたて、それに頭を載せて仮眠を取っておられた。
卒業するときにナンチャンに記念品を贈った。尻皮がいいだろうと云うことになって、新宿の山幸に買いに行ったが、いざ買う段になって、当初の予定のカモシカの尻皮をやめて、犬の尻皮にしてしまった。カモシカは予算オーバーだったのかも知れないが詳細は覚えていない。

170316

今日も良い天気だ
しかし、相変わらず寒い
その割に花粉が飛んでくる?

建材試験センターで会議
今日のお昼
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人形町文化の街
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裏の家の工事は何時始まるのか?
測量はかなり前、
二月半ばには引き渡しと云っていたから
話は進んでいるのだろう

また近くに更地
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道路のいたずら描き
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小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
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本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

GPSの話
皆さんは携帯のGPSオンにしてますか?

今日の花
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青いレモン 075 常識に対する疑問 170723 170806
中二の頃、文化祭で仮装大会があった。といってもたいした規模でなく何組かが運動場を一巡りするだけのものなのだが。大島君が金持ちの紳士になって、シルクハットをかぶって傘を持ってすまして歩く。その後を乞食に分したクッチョと僕が、体をボリボリかきながらついて歩く。大島君の紳士は、林檎をもらってかじるのだがあまり美味くないのか人かじりして捨ててしまう。もう一個手に取るかこれもあまり気に入らずすぐ捨てる。地面に落ちた林檎を二人の乞食が拾って、泥も払わずにかじりついてヘタと種以外を全て喰ってしまう。結構、観客が喜びの声を上げる。
雨の日、道路に水たまりができる。現在より道路のでこぼこが酷かった様な気がするし、未舗装のところもだいぶ残っていた。普通に歩くときは当然水たまりを避ける。それを格好がわるいと、とにかく真っ直ぐ歩幅も変えずに歩くことにした。水たまりも構わず真っ直ぐ歩く。その頃のアスファルト舗装は、今で云う簡易舗装で、あちらこちらに穴があいている。車が通るとその穴が深くなるから水たまりは今のアスファルト道路の一寸水が溜まっているのとはだいぶ違う。深さが数センチから10㎝ぐらいある。それを構わず真っ直ぐ歩く。靴もズボンの裾も当然びっしょり濡れるし、靴など中に水が溜まって歩く度に泥水が噴き出してくる。行き交う通行人は奇異な目で見る。当時は、結構、格好良いと思っていた。しかしこれも一つよい結果をもたらした。山岳部に入っても雨の日の山行をそれほど厭わなくなったことや、どう歩けばどう濡れるなどと云うことを体で覚えたことだと思う。
しかし、びしょ濡れになった靴やズボンを乾かすのはなかなか大変だったと思う。ごめんなさい。


170315

パッとしないどんよりした天気
それでも雨は降っていない
花粉は少ないという情報だが
本当かなと疑ってしまう
あるいは雨を予想した情報だったのかもしれない

あっと言う間に3月も半分過ぎてしまった
はじめの一週間嵐のようだったから
無理もない

一応解体工事は昨日で終わったようだ
今日は地ならしをしている
整地、重機も引き上げた
170315-02.jpg 170315-03.jpg 170315-01.jpg

整地工事の後
簡易の柵ができた
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この後、土地を売るのか
建売が建つのか
このあたりで一軒家が建つとは思えないが
空き地のまま放っておかれるのは
あまり好ましくない

北隣が更地になったら、
今度は西隣も測量を始めた
やはり売却するとのこと
寂しくなるな

小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
170315-05.jpg サンシュ

青いレモン 074 船坂さん 170722 170805
会社の旅行に行くと大抵船坂さんがいた。大体オヤジと同年配か少し若いぐらいで、小太りの伯父さん。チタンの会社の社長だった。可成り、その頃の時代に合った薬品の取り扱いをする会社だという印象で見ていたが、何故か、その後、あまり景気よくなく、株は不配が続いた。特にそれほど気にもしないうちに社長が替わって、船坂さんも亡くなった。最近また少し配当がでるようになったが、オヤジが生きていたらどう対応したのだろうか。私が知っているのは私が小学生だった頃の船坂さんでしかない。オフクロが体がわるかったこともあるが、会社の旅行に連れて行ってもらったのはやはり人のつながりを少しでも広げてやりたいと思ったからだと思う。
しかし不思議に、他の固有名詞は覚えていない何故か船坂さんの名前と朧気なその容姿だけ頭の中にこびりついている。
オヤジは私に好きなことをすることを許してくれた。自分がどちらかというと学者肌だったからだろう。祖父や、祖母がいたら、無理やり会社に入れられていたかも知れないし、僕もいやだといって家を飛び出していたかも知れない。

170314

久しぶりに雨
といってもほとんどあがっている
今日は区役所

伊勢丹に回って帰る
小雨で植木屋はお休み

日本建築仕上学会の宿題を終わらす

解体はほぼ終わる
シイノキはなくなった
やっぱり
万年塀もなくなった<
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小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
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本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

161126-03.jpg
格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

青いレモン 073 銀狼会 170722 170804
オヤジの友達の会に、銀狼会というのがあった。慶応での社長の集まりで、銀座の狼の会だという。名前は聞いたいたが、実際に身近なものに成ったのは、オヤジが死んでから間もなくしてからである。服部時計店、王子製紙とか一代前はそうそうたる社長の会で、名前負けしている訳ではなかったが、二代目ともなるとやはりだいぶこぢんまりとした感じになってしまている。何遍か二代目の会に出席したが、そのうち、その中心となっていた人物が亡くなられ、後は年賀状のやりとりになってしまった。僕が会社を継いでいれば、もう少し真面目に付き合いをしなければ行けなかった人達だろう。そういう意味では、オヤジの人脈を息子に繋げなかったのが残念である。繭のやることは大体分かるが、象のやることは分からない。江戸時代の世襲というのは、問題もあるが職業によっては良い面がなかった訳ではないような気がする。
それはそうと、特に景気が良かった時代、名前が名前だけに、オヤジたちは相当楽しんだのではないかと思うが今になっては分からない。

170313

今日は曇り
朝5時の外気9℃と暖かくなってきた
解体工事を囲っていた足場が解体された。
すぐ新築されるのか先の予定が分からない。
未だテラスとか玄関・浴室の土間コンが残っている
うるさい一日になりそうだと思っていたがそれほどでもなかった
結構広い!
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金木犀とモチは切られてしまったが
シイノキはまだ頑張って残っている

今日も植木屋
カキの剪定何んとか終わらせシイⅡに移る

日本建築仕上学会の原稿がほぼできた
 
今日の花
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青いレモン 072 ガコ オニ公 イケ公 170722 170803
オニ公とはキャッチボールをするぐらいでそれほど夢中になって遊ばなかったが、オニ公の家が一番近かった。歩いて5分かからない。高校を出た頃から行方不明。高校を卒業後、フランスベットだったと思うがそんな会社に勤め、やがてやめて・・・・・。そのまま分からなくなった。おやじさん(尾西長さん)がつい最近まで同じところに住んでいた。同窓会の知らせをポストに入れたが音信不通。
ガコはいつまでいたかな、やはり高校の頃まではいたが行方知れず。だいぶ東の方に住んでいた。開通前の環七よりも東だったのかも知れない。ガコは高校の時は、もうほとんど付き合いがなくなっていたが、小学校の時は良く遊んだ。何処で見つけてくるのか、変なものを見つけてくる。そしてそれに夢中になり、人にも強要するのが上手かった。ハツカネズミ、熱帯魚、サボテン、ソテツなどなど、まだまだ沢山あったが、覚えていない。とにかく親から可成りのお小遣いをもらっていたようで、とても付き合いきれなかった。
イケ公は南口では医者の息子。イケ公とはそれほど親しくなかったが、彼の家で習字を一緒に習っていた。習字の方はあまりよく覚えていないが、大雪の日、彼の家に上がろうとして、長靴の中にも雪が入って、長靴が脱げなくなり大騒ぎをしたのを覚えている。彼は大学を出てから歯医者をしていたが、そのうち、いやな噂を聞いたが、その噂も聞かなくなった。亡くなったとか。

170312

まあまあの青空
ちょっと春霞っぽいが
寒さは相変わらず
昨日は風が合ったせいで、
落ち葉が多い

日曜日で今日は解体はお休み
昨日のまんま
しかし、今まで見えなかったものが見えてきた。
170312-02.jpg 170312-01.jpg 170312-03.jpg

階段のある道の今日撮った写真を3月10日に加えた

今日も植木屋

民家一題 
前にも撮ったことがあるが
道路の反対側が更地になり敷地全体が収まるようになった
ちょっと暗くてぼやけているけど
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この配管、分かるところもあるがわからないところもある
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今日の花  たくさん
170312-05.jpg 我が家のクリスマスローズ

170312-06.jpg 山田さんの家の小さな花

170312-09.jpg 170312-08.jpg 170312-07.jpg ラッパ水仙三種類

青いレモン 071 近所の様子 170721 170802
道路を挟んで東側に康資伯父(正確にはオヤジのいとこ)が棲んでおり、クマザサの土手の上に垣根の塀だった。万年塀に造り替えたのはいつ頃か定かでない。康資伯父の家の前の道路が不整形で、道の真ん中に大きな桐の木が生えていた。多分藤橋さんが家を建てたときに整理されたのだと思う。
南北の道は我が家の東南の隅から下り坂になるが、この辺りの道は何処も未舗装、両脇にどぶがあった。我が家は、この下り坂の下から水道管が配管されていた。その配管が一部地上に露出し、夏など結露して水滴を宿していた。坂の下からの配管なので水圧が低く良く断水した。水洗便所にしたときの地下水槽をつくりその水を倉庫の屋上のドラム缶にあげ、それで何とか十分な水量をまかなった。このポンプが良く故障し、また、ドラム缶のストッパーが働かなくなり水があふれた。その修理は、大抵小学生の僕の仕事だった。南はトウモロコシ畑で、白田さんの家が東の隅にあった。西隣は岩田さんとその北の斉藤さん。この二軒は今も代は変わったがそのままである。斉藤さんの北側に空き地があって(家が建っていたかも知れないが覚えていない)更にその北側が三谷さん。
三谷さんの東側、我が家の北には麦畑があった。建て売りが二軒並んで建ったが、今は解体され、一軒は三谷さんから続く集合住宅に、もう一軒東側の瀬戸口さんのところは、二軒に分かれて、ただいま、我が家に近い南側の(170721)建設が始まったところ。
道路がいつ舗装されて、どぶがいつ下水になったか良くは覚えていないが、下水工事は、ワーゲンのあった頃だから大学生の頃ではなかろうか?我が家が坂の上にあるため配管を埋め込む溝は5メートルでは聞かない深さだったと思う。その可成り長期に及ぶ工事にもかかわらず、ワーゲンを一日路上駐車させた以外は不思議と家に出し入れできたのを覚えている。

170311

3月の三分の一が過ぎた
青空が広がっているがまだまだ寒い
裏の解体工事は、
基礎を除いて大体今日中に片が付きそうだ
今日も大きなトラックが入ってきている。

植木屋
二本、途中まで
去年まで足を掛けていた直径10cm近くある枝が根元から折れて地上に落ちていた
それも二本!やはり柿は怖い!
おかげで、いつもだとすぐ終わる柿の剪定が捗らず
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解体はだいぶ進んだ
シイノキ何とかならないかな?
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今日の花
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青いレモン 070 ハツカネズミと熱帯魚 170719 170801
リス小屋を作ったが、結局リスは飼わなかった。でも等々力の伯母などはリスを飼ったと思い込んでいる。犬恐怖症をなくすために飼ってくれた犬は別にして、子供の頃飼った動物にはまず金魚とか蟹がいる。
金魚は大抵おまつりで金魚すくいをして、取れずに残念賞としてもらうもので、そんなに長生きはしない。でも入れ替わり立ち替わり大抵一匹か二匹は金魚かメダカがいた。それから、海に行くと採ってきた蟹、露店で売っているヤドカリなどなど。真面目に飼ったのはハツカネズミと熱帯魚である。ハツカネズミは祖父が生きていた頃だと思う。ハツカネズミのことを南京ネズミと呼び、南京ネズミがいると家ネズミが来るからといやな顔をした。それでも木の箱に金網を張って餌をやって糞を片付けて飼うことを否定はしなかった。つがいで飼っていたが、やがて子供ができた。ねずみ算とは良くいったもので、気が付いたら二十数匹狭い箱の中でひしめき合っていた。もう一つはこを作らなければと思っていたら突然数匹になってしまった。どうも共食いをしてしまったらしい。増えたり減ったりしながら、結局いなくなりハツカネズミ熱は冷めた訳だが、その間、ハツカネズミの箱は母親の寝ている部屋の襖を一枚開けたところに置いてあったのだから、今考えるとわるかったなと反省しているが、もう遅い。
これも、小学校の頃だが、動物を飼う話やそれの類する話は必ずガコが絡んでくる。彼は何故か小遣いを沢山もらうのかすぐ何でも買うそして人に勧める。しかし僕よりも冷めやすく僕が夢中になったときには興味が次に移っている。
可成り長期にわたって夢中になったのが、熱帯魚である。最初は露店か何かで売っていたグッピーを飼ってきたのだが、水槽が要って、ヒータがなければ冬が過ごせない、水槽で飼うと酸素が足らなくなるからポンプが要る・・・・・。次第に病が重くなり。エンゼルフィッシュ、ネオンテトラ、スマトラ、などなど名前が出てこないが数十種類は飼ったと思う。そのうち、魚はともかく水槽の中の水草に凝り出し水中の見え隠れする通路があったり、隠れるスペースのある空間をつくって楽しんだ。子供を取れるようになるとそれがまた面白くなった。中には卵だけでなく胎生の魚もいた。中学に入る頃、熱帯魚も卒業したが、親には随分散財させてしまったのではないかと思う。

170310

良い天気だ
もう今月も三分の一が過ぎようとしている
裏の解体工事
トラックが大きすぎて苦労している。
坂の下からバックで入ってきたらしい
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今日はここ
確定申告を提出
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階段のある道
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中野区立たんぽぽ公園
こじんまりした以後ごちの良い公園
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夜には建物はほとんどなくなっていた
東南の隅にシイが残っている。
ほとんど邪魔にならないし、残せばよいと思うが、
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小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
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本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

161126-03.jpg
格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
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青いレモン 069 僕のコーナーから僕の部屋 170719
自分の縄張りを家の中に作り出したのはいつ頃だろうか。最初は勉強机を置く場所だけだった。机と云っても椅子を使わない座り机で、ランドセルの置き場と教科書などをしまうところ。図画の作品や、夏休みの宿題などをしまうところ、おもちゃや、好きな工作の道具などをしまうところと、次第に財産も増えスペースも居るようになった。多分、内玄関脇の5畳半の部屋の東に飛び出た1畳部分に座り机を置かしてもらったのが始まりだと思う。ここは、掘りごたつがあり、家族の憩いの場所でもあった。祖父がいたときはお客も多く、大玄関脇の応接間、当時、西洋館とよんでいたが、もっぱら客用だった。祖父が亡くなり、母が体が弱く入院したりしたことから、父が家での接客は台所に近い8畳の和室で行うようになった。それまで、この8畳が客間でもあり祖父の寝室でもあった(祖母がいたときも)。西洋館の西側に飛び出した1畳があったがここに机を置かしてもらった。この机は父が戦前使っていた特注の机で、燃え残った部屋にあったもので、いまだに僕の机として使っている。父がつくらした特注の机でそれほど変わってはいないが、足のつなぎがX字になっている。
あまり経過は覚えていないが、ともかく次第次第に部屋の中央まで占拠しだし、受験をいいことに自分の部屋にしてしまった。次女の繭が受験のころ奥の部屋を占拠していて、変なところが似るものだと思った。
結婚のした頃までは本箱を作ったり、ものを飾ったり結構見られたが、今は倉庫以外の何物でもない?人によってはごみ置き場とも云う。大学を出て、ジー公の結婚式の後、何人か家に遊びに来た。僕の部屋はまだ座るスペースがあって、そこの通したのだが、シンチャンが血相変えて飛び出してきて、なんだ客を倉庫に通すのだと怒鳴ったのを覚えているが、その後、ジー公の新婚旅行の京都の旅館の柊屋に電話をして恨まれた。

170309

良い天気だ
結構いつになっても寒い

解体 シートの上に見えていた屋根がなくなった
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JIA文化財修復塾のWEB会議
窓から国立競技場の工事が見える
バカでかいビルがまた立ち上がってきた。
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そして夜には建物はなくなった
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確定申告明日も続けるか

青いレモン 068 親戚 2 170718 170730
母方の親戚についてはあまり詳しくない。
母の両親と、母の兄弟についてしか殆ど知らない。母の両親が早く亡くなった生だろう。母の家は玉置と云って、玉置製薬をやっていた。目薬スマイルは今でも残っているが、これは元々玉置製薬の製品である。今だの僕の愛用の目薬である。残念ながら、玉置製薬は戦後暫くしてから起こった労働争議のため、立ちゆかなくなって仕舞った。
母の父親は玉置金八、母親はヨシ。
父親は戦争中に浅川(現在の高尾)の先の四方津に疎開していてそこで亡くなる。夏の暑い盛り8月31日である。戦後、買い出し列車に乗って、お世話になった四方津の農家に何回か行った。生まれた初めてトウモロコシを丸かじりした。駅がなく浅川から汽車に乗り途中の駅から歩いたような記憶がある。あるいは四方津の駅からその農家まで歩いたのかも知れない。当時の買い出し列車は客が鈴なりで、窓からの出入りが普通だった。何回か行ったそのうちの一回は電気機関車の前後に付いた柵のようなところに乗せてもらったことがある。窓からも乗車口のデッキも人があふれていた。オヤジが絵巻物のようにその道中の道や景色を描いてくれたが、2階が火事になったときに敏之兄さんの絵とともに燃えてしまった。一応僕の宝だった。
母は5人兄弟。兄が3人で、妹が一人。上の兄二人は玉置製薬、下の兄は絵を描いていて、我々の結構披露宴の仲人をして下さった須田寿さんと同じ立軌会に所属していた。
妹のご主人は喘息がひどく、神田須田町でやっていた米問屋が、戦後のあおりを食って潰れ、可成り経済的なダメージを受けていた。それでも小さいとき遊びに行った駒沢のお宅は立派な数寄屋造りであったが、その後急に経済的に立ちゆかなくなり、苦労されていた。子供は壮太さんと敦子、宏子の三兄弟で、宏子ちゃんとはいまだにお付き合いがつづいている。
一番上の兄のところは、息子が私と同じ一人っ子で、医者になり慶応病院、東海大学で活躍されていた。母が病気になったときに大変お世話になった。
二番目の兄のところには男子一人、女子一人子供がいて、両方とも学校が同じで多少私より年上だった。男子の方はそれほどお付き合いも無かったが、娘の春子さんとはその息子の家の設計をお手伝いさせてもらったり、草月流の生け花をやっていてそれを見に行ったり、時々交流がある。画家になった弘三さんについては、昔自由が丘に住んでいたが、その後について全く知らない。
母は母親のヨシによく似ていた。写真を見るとそっくりである、母の兄が危篤になり母と一緒に見舞いに行ったとき兄はうちの母を見るなり「おかあさん」とつぶやいた。

170308

青空が戻ってきたが
寒さも戻ってきた

今日は国際女性デー
その象徴がミモザの花だという
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裏の家は残り西側の壁一枚になった
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ここにも解体、更地がある
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中野の
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今日の花
ミモザ・サンシュ・沈丁花・?・?
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青いレモン 067 親戚 170717 170718 170729
子供がいて、孫がいて、曾孫ができて、家族が広がる。
元々うちの先祖は奈良の三輪の出身で川辻家の次男である。あるとき江戸に出て、小西長左衛門の江戸店で働き、番頭になりのれん分けをして貰った。うちの屋号は矩黒星だが、小西長左衛門の店は、一の一で、鉦がない。一の一は小西行長に繋がっており、朝鮮で、加藤清正と一番を争ったことに由来する。同じように矩一星だとかいろいろある。初代の安兵衛さんが家を立てたが、天保の改革のあおりを受ける。二代目が引き継ぎ苦労し店を再興。しかし、あとを継ぐ子ができず、夫婦養子を迎えた。大店であった半田治兵衛店の番頭だった並木金治郎が養子にきて3代目の小西安兵衛となる、この人は商才があり、店を大きくすると同時に、経済界に顔を知られるようになった。新聞の長者番付にも名が載るようになった。日本橋の小西さんで話が通じるようになった。三代目の安兵衛さんは子沢山だったが、二人居た男の子一人は幼児のうちに亡くなり、もう一人は4代目を継いだが、成人して間もなく早世している。女子は7人生まれたが、長女と4女は亡くなり、残り5人のうち4人が養子を取り、明石町、中野、氷川町、富士見町と分家したが、あと一人結婚しなかったオイク大伯母が氷川町(後の目黒)の家に同居していた。明石町に女子一人男子三人(うち一人早世)、長男が家を継ぎ、女子一人は養子を貰い三番町の家を成す。次男は子供ができなかった中野の家に養子に行く。氷川町は男子ができず養子を貰う。富士見町は男子一人。
その次の世代が私たちだ。
明石町の長男が私の父親で、その姉が岡本佑を養子にもらい三番町の家をなし、敏之、恵子、絢子をなす。明石町へ行ったオヤジの弟である次男は中野に家に養子に行き、夫婦養子の形を取り茂之、邦夫、智之、博久をなす。富士見町は女子一人まり子をなす。氷川町は娘二人ができ、篠原、丸山、両家に嫁に行く。
次の世代は我が家が女子二人男子一人、
敏之のところが女子一人でその後、男子3人女子一人、男子二人が小西になる。
茂之のところは男子一人に女子一人ともに離婚した相手方の名に変わる。
邦夫は結婚したが子はなさずこの世を去る。
智之は女子一人、男子一人
博久は熊谷に養子に入り、男子一人女子一人。
こう考えると徳川幕府が、大奥をつくり側室一つの制度にしたかが分かる。
それでも血が繋がらないことが往々にして起こる。




170307

はっきりしない天気
無事済んでよかった
ウール一家も無事SFについたようだし

午前中一回、午後一回、中野区区議会議員と会談
午後は雨のため、濡れながら自転車で行く、
会談を終わると青空が広がっていた

裏の家はいよいよ解体を開始した
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野方駅東端にて
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インテリアの委員会
野球のため「カルテッド」は一時間遅れ

青いレモン 066 妙正寺川 170717 170728
お宮参りだったか、とにかく覚えている限界に近い昔のこと。鷺宮まで家族で歩いて行った。妙正寺川が草原の中を流れているのを覚えている。勿論、川の名前は知らなかった。八幡さまの近くで橋を渡ったはずだがどんな橋だったのか覚えていない。家から都立家政の南を通って、坂を下って妙正寺川に出る。その坂の道は赤土で、両側から樹木が茂り、トンネルのようだったのを覚えている。竹林だったのかも知れない。誰と行ったかははっきりしないが、帰りに白鳥さんというおばさんにおんぶしてもらったのは覚えている。白鳥さんについては、あるときまではっきり覚えていたような気がするが、思い出せなくなっている。
我が家の古い住所は、中野区鷺宮一丁目6番地であった。過ぎ南から大和町だったが、町名変更で若宮になったとき坂の下まで若宮になった。昔、鷺宮という丁目だったこともあり、我が家は、鷺宮八幡様の氏子である。
小さいとき、鷺宮の八幡様へ行くには、川沿いを歩かなかったので、その頃の川沿いの記憶は少ないが、今の都営住宅が建っている辺りはみな水田だったような気がする。しかもかなり後まで残っていた。この辺りは、結構、今でも田舎なんだなと実感したのを覚えている。多分小学生の頃までは残っていた。
川の様子も今と違って水量が多く、木の杭が両側に打ってあってそれに板をわたして、土手が崩れないようにしていた、土手と川の面には、それほど高低差が無く、川も土手の間全部を流れているわけではなく、底のでているところにに土手から飛び降りることができた。土手の間隔は4~5メートルで、中央を川が流れ、両側に水草が生えたり砂質の地面が現れ川底に繋がっていた。そこを足場に小魚やオタマジャクシ、エビガニを捕った。晴れた日の夏の午後はいつ行っても誰かが川の周りで何かをしていた。
温和しい川なのだが、台風が来たときにはあふれだす。水田が亡くなった頃からその被害が目に付くようになった。川の周りの家は床上浸水に見舞われる。従兄弟の学習院の担任の山田先生が、川の南50メートル位のところに住まわれていたが、台風一過、良く畳を干しておられた。川の改修が行われ、川の両側に擁壁が、水量も極端に減った。あの水は何処に行ったのだろう。擁壁ができ、子供たちにとっての親水スペースが亡くなった。それでも、ゲリラ豪雨や台風が来ると増水が続き被害が出る。その後、相当な費用を使って環七の下などに非常時の巨大な貯水槽ができ、今のところ被害が少なくなったように思える。

170306

帰国のお手伝い
ウイークリーマンション
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郵便局で待つ間
170306-01.jpg トタンの波板の家二軒 170306-02.jpg

お昼
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この次会うときはどんなに大きくなっているのだろう
おいしかった!
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青いレモン 065 家の改修 壁塗り工事 170717 170727
順序は忘れてしまったが、子供の頃、家を何回か直している。一度は先に書いた倉庫の新築、それに伴い、堀江さんの居た4畳とトイレの増改築。水洗トイレへの改修はまた後の話だと思う。というのは新しくなったトイレの下に瓶が残っていた。
和室の木材の灰汁洗いもした。8畳や廊下など主な処は綺麗にしたが、6畳の天井は何故か灰汁洗いをしなかった。木目が板目の綺麗な天井板だったからかも知れない。その時、職人と祖父の話しているのを聞いた話では、灰汁洗いは一度はできるが二度はできないと言うことだった。
土壁の塗り直しもした。壁土を落として、木舞をあらわにし塗り直したのだ、粗壁を塗ってから乾燥時間が掛かり粗壁のまま暫く過ごしたのを覚えている。ただ、2,3人で次々に仕事をするので、家全体が凄まじい状態になったという記憶は無い。左官屋さんはシゲさんといって、明石町を建てた清水建設の時からの知り合いの職人で、「隅が切れた」(左官屋への褒め言葉)。一日中シゲさんにくっついて仕事を見ていた。土の配合、練り方、塗り方などなど。二十種類ぐらいある鏝を場所毎に使い分けるのも見ていた面白かった。いちいち質問するから多分うるさかったのだろうと思うが、丁寧にいろいろ教えてもらった。残念ながら細かなことは覚えていないが鏝が土を塗りつけていくのを見ているとごく自然で、当たり前のように見えるのだが、やらせてもらうと全く上手くいかない。随分シゲさんの邪魔をしたともう。仕事が終わったときにこれ要らないからあげるよと云って、鏝を一つくれた。今でもそのまま残っていて、極たまに使う。日曜大工のスーパーなどで買う鏝はすぐ錆びるのにこちらは錆が付かない。2015年だと思うが物置をなおしたときにモルタルを塗った。やはりなかなか上手く塗れない。
あともう一回、祖父が元気だったときに、2階や一階の北側などが、真壁の漆喰塗りだったものをモルタル塗りにした。防火性能の向上を考えてのことだが、軒裏の網代はそのままであったから、今から考えると何処まで防火性能が上がったかは疑問である。それに、せっかく防火対策をしても中から火が出てはどうしようも無い。


170305

真っ青の素晴らしい天気だ
結婚披露宴も無事終わり、
今日は披露を終えた新しい家族も加え
みんなで TWO ROOMS で会食
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青いレモン 064 中央沿線組と井の頭線組 170716 170726
小学校の時の話に戻るが、学校の立地から、通学経路で、中央沿線組と井の頭線組に分かれていた。あともう一つ地元の徒歩で通学できる人達もいたが、彼らにはそれほど仲間意識はなかったと思う。僕は中央沿線組だ。中央線でもヒキ公のようにお茶の水や西川君のように立川から通ってくる人もいたが、つるんでいたのはせいぜい中野ぐらいまでで、中野にダシ公、高円寺に石ころ、ヤッコ、オニ公、ガコ、イケ公、西荻にタカノボ、などがいて、井の頭線組には、渋谷にビー公、明大前にツー公、西永福にジー公、タカショウ、浜田山にヤマセン、井の頭公園にヤナ公、などがいた。マーチンは家が中央線と井の頭線の間にあった。徒歩組は、ヨッチン、タケ公、アマ公、フジブタ、トッタン、デッパなど。まとまりは井の頭線組が一番良かったような気がする。
女性はあまり関係なかった。それに女性は結婚して性だけでなく住所も変わったが、我々はほとんど当時から住所が変わっていない。なぜか末っ子が多く親の住所に住み続けている。

170304

天気はまあまあ
そんなに寒くないかな?

今日は結婚式
銀座 キャンドルサービス きょうだい3人で
ちび二人
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帰りに日産のショールームを見る
電子ディスプレーが素晴らしい
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ちび二人がお似合いカップル
カリフラワーを拾ったせいか

お疲れさま
近所で
焼肉パーティー
170304-13.jpg 170304-14.jpg 170304-15.jpg ゆかいな玄ちゃん

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青いレモン 062 興味の対象と友達 170715 170724 170725
家の近くに、尾西君と古賀君が住んでいた。オニ公とガコである。放課後家に帰ってから、キャッチボールなどして遊んだ。家にも遊びに行った。尾西君の家が一番近かったが、あまり両親のことは覚えていない。でも、おやじさんの名前は尾西長さんだった。尾西君が行方不明になってからもおやじさんは同じ場所に住み続けていた。今はアパートに建て替えられてしまいどうなっているか全く分からない。古賀君の家にもよく行った、だだっ広い敷地に古い日本家屋が建っていたような気がする。古賀君のお母さんのことは良く覚えている背が低く小太りで、日本の古い童話にでてくる人格化したネズミのような体型だった。もう一人近くに金井君がいた。小学校のに入学した当時は、景気が良く家に2本電話があった。当時は呼び出しがまだまだ一般の状況だったから、電話が2本あるというのは凄いことであった。暫くして、事業に失敗したらしくお弁当の無い昼休みを過ごしていたのを覚えている。給食の始まる前の学年だから、1年か2年だと思う。やがて金井君はやめてしまった。暫くして、彼の家の前におでんの屋台が10台ぐらい止まっていた。どうもそういうことを仕事にしているようだったが、そのままになってしまった。その後、電話帳で一回彼の名前を見つけたがその後全く分からない。
就学以前からの友達であったヨッチンとはその後長い付き合いが続いたが、彼の家が学校に近すぎたのと、彼が僕に苦手な音楽に強い興味を持っていたこともあり、小学校でてからの趣味はあまり共通していなかった。しかし腐れ縁で、予備校時代の一年間は一緒に過ごした。
自転車に乗り出すと、活動範囲がとなり駅ぐらいまで広がり、工作仲間で田坂君が阿佐ヶ谷から自転車でよく遊びに来た。木ぎれで船を作ったり、坂の下の妙正寺川にエビガニを取りに行ったり、今の小学生と違って遊んでばかりいた。うちにはおやつが楽しみできていたようだ。おばさん~おやつまだ~とよく云っていた。同じ高円寺駅でも南口に住んでいた石コロとヤッコは小さいときから麻雀をやっており、賭け事の嫌いな僕はあまり一緒に遊ばなかった。あと一人ダシ公はおやじさんがアメリカ帰りで、やたらハイカラ生活をしており、当時はまだ氷の冷蔵庫を使っていた時代だが、大きな電気冷蔵庫があり、缶詰をハンドルを回すとあける装置があったり、庭にはアスパラやセロリが植わっていたが、そんな植物というか食材を知らなかったのでなんとなく馬鹿にされたような気になって足が遠のいた。
大学卒業後、彼はJR東海で活躍していたが、今は定年退職し、親の家を登録文化財にして関連した仕事をしている。彼には「けいこちゃん」という妹さんがいて、同じ学校にいたため顔見知りで時たま駅で顔を合わせていたが、ここ20年ぐらい会っていない。もう一人、池田君がいた。イケ公である。あまり遊びで一緒になったことはない。しゃべり方から「ナンチュウテイ」と云われていた。何か金銭トラブルがありその後あまり噂を聞かない。

170303

天気が戻り蒼空が広がっている
ももの節句は
オヤジの祥月命日
たまたま日本に来ている娘一家も
一緒にお参りしてくれる
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我が家で会食
久しぶりに賑やか
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小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
このブログで、FBのコメントで、メールで、住所を書いてお申し込みください。
本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

今日の花
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青いレモン 062 興味の対象と友達 170715 170724
家の近くに、尾西君と古賀君が住んでいた。オニ公とガコである。放課後家に帰ってから、キャッチボールなどして遊んだ。家にも遊びに行った。尾西君の家が一番近かったが、あまり両親のことは覚えていない。でも、おやじさんの名前は尾西長さんだった。尾西君が行方不明になってからもおやじさんは同じ場所に住み続けていた。今はアパートに建て替えられてしまいどうなっているか全く分からない。古賀君の家にもよく行った、だだっ広い敷地にあまり古い日本家屋が建っていたような気がする。古賀君のお母さんのことは良く覚えている背が低く小太りで、日本の古い童話にでてくる人格化したネズミのような体型だった。もう一人近くに金井君がいた。小学校のに入学した当時は、景気が良く家に2本電話があった。当時は呼び出しがまだまだ一般の状況だったから、電話が2本あるというのは凄いことであった。暫くして、事業に失敗したらしくお弁当の無い昼休みを過ごしていたのを覚えている。給食の始まる前の学年だから、1年か2年だと思う。やがて金井君はやめてしまった。暫くして、彼の家の前におでんの屋台が10台ぐらい止まっていた。どうもそういうことを仕事にしているようだったが、そのままになってしまった。その後、電話帳で一回彼の名前を見つけたがその後全く分からない。
就学以前からの友達であったヨッチンとはその後長い付き合いが続いたが、彼の家が学校に近すぎたのと、彼が僕に苦手な音楽に強い興味を持っていたこともあり、小学校でてからの趣味はあまり共通していなかった。
自転車に乗り出すと、活動範囲がとなり駅ぐらいまで広がり、工作仲間で田坂君が阿佐ヶ谷から自転車でよく遊びに来た。木ぎれで船を作ったり、坂の下の妙正寺川にエビガニを取りに行ったり、今の小学生と違って遊んでばかりいた。同じ高円寺駅の南口に住んでいた石コロとヤッコは小さいときから麻雀をやっており、賭け事の嫌いな僕はあまり一緒に遊ばなかった。あと一人ダシ公はおやじさんがアメリカ帰りで、やたらハイカラ生活をしており、当時はまだ氷の冷蔵庫を使っていたが、大きな電気冷蔵庫があり、缶詰をハンドルを回すとあける装置があったり、庭にはアスパラやセロリが植わっていたが、そんな植物というか食材を知らなかったのでなんとなく馬鹿にされたような気になった。彼はJR東海で活躍していたが、今は一線を退き親の家を登録文化財にして関連した仕事をしている。彼には妹さんがいて、同じ学校にいたため顔見知りで時たま駅で顔を合わせていたが、ここ20年ぐらい会っていない。もう一人、池田君がいた。イケ公である。あまり遊びで一緒になったことはない。しゃべり方から「ナンチュウテイ」と云われていた。

170302

起きたとき雨は止んでいたが
道路は濡れていた
また後で、雨が降るようだ

都道の拡張工事で、
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両側が歯抜け状態
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入ったことはないけど
なんとなく良さそうな雰囲気
昔からあるけど
此処もこわされてしまうのだろうな
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今日の花
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シュウカイドウの蕾はまだ堅い

青いレモン 061 夏休みの宿題 170715 170723
昆虫採集:夏休みの宿題は、日記と何かテキストみたいなものを渡されそれをやるのがメインだったが、そのほかに自由課題があった。人気の自由課題は昆虫採集だったような気がする。その頃は周囲に蝶や蝉やトンボが沢山いて、取るのには困らなかったし、帰る田舎のある人は帰ったついでに取ってくれば良い。箱に虫ピンで捕った昆虫を並べて止めるだけなのだが、また、暑くなる頃には夏休みの宿題を目当てにしたセットを文房具屋やデパートで売りに出す。中には可成り本格的に標本にしてくる人も出てくる。「胴乱」という金属製の肩から提げるつつ、捕った虫を包む紙、虫ピン、虫が腐らないようにする注入剤などが付いていた。僕はそれほど熱心でなく、つかまえた虫をただ虫ピンで並べて刺して、提出していたが、中には立派な木箱でそこにコルクが敷いてあり、ガラスの蓋まで付いているものを提出する奴もいた。
工作:そのほか何か創った作品を出すこともできた。その年、多分、これもおやじの会社の慰安旅行のついでだったのだと思うが、姫路城に連れて行ってもらった。おやじは歴史が好きだったから、慰安旅行のついでではなかったのかも知れない。
姫路城はもう一回、建築学科の旅行で見に行ったが最初の印象の方が強く残っている。おやじは歴史に興味を持っておりいろいろ説明してもらったのを覚えている。僕は、入り口から天守までの千変万化する空間に感動して帰ってきた。感動すると何でもできる。1ミリか2ミリのボール紙を積層して、姫路城の連立天守の形を作り、表面に薄紙を貼って色を付けた。その年の夏休みの宿題の金賞をもらった。
最近、「江戸はじめ図」という書類が見つかりその中に示されていた絵図から、家康の建てた江戸城の天守も連立天守で、姫路城よりも更に大規模なものだったことが分かったという。多分4年生5年生の頃だったと思う。少なくとも6年生の時ではなかったのは次の年二匹目の泥鰌を狙って、ボウル紙を重ねて何か創ったが、あまり面白いものができなかったのを覚えているからである。

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