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170131

晴天が続く
朝から青空
風が多少あり、枯れ枝が落ちている。
ほどほどに寒いが、凍えるほどでもない

昭栄橋付近の紅梅・白梅
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消防署通りの民家
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中野たてもの応援団ガード下展示
今日撤去
二月分は改めて
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離脱について何時云うか
修復塾打ち合わせ
まだ時期尚早?

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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
このブログで、FBのコメントで、メールで、住所を書いてお申し込みください。
本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

青いレモン 031 泣き笑い 170622
小学校では、それほど陰湿でなかったが、やはりいじめがあった。どういう切っ掛けでそうなったか、ヤナ公に向かって、その頃の流行り唄から、「なくな小鳩よ・・・・」と泣くまで囃し立てた。私もいじめられたことがある、やはり同じように何かで、いじめられた。とにかく泣くまで、その矛先を緩めない。積極的にいじめるやつ、周りで見て楽しんでいるやつ、遠くで見ているやといろいろいる。泣くまで続くのだから、はじめは我慢していても皆にいじめられていることが悔しくて、涙が流れ出す。そうするとさらにいじめに力が付く。
しかし、僕は小さいときからどこかに非常に冷めたところがあって、状況を外から眺めてしまう。泣かされている自分が、滑稽に見えてくる。そして泣きながら笑う。いじめている方は其れが面白くて、「泣き笑い」といって面白がる。しかしそれが多少不気味だったのか2,3回続いた後、泣かされることはなくなった。


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170130

日本海側や北海道は雪
太平洋側も雨のところがあったが、
関東地方の平野部は晴れが続く
一日中暖かく夕方になっても暖房いらず

今日は草加に出かける
建材試験センター新構造試験棟・動風圧試験棟の完成見学会
披露宴
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毎日使っている携帯用のデジカメは
SDカード使用なのだが、
最近は入れてもこのカードは使えませんと表示される文字色
それでいて何遍か入れ直すと撮影が可能になる。
カードが悪いのか?、カメラが悪いのか?
今日は調子よかった
寒さに弱いのか?

青いレモン 030 明石町 170620
生まれた時の住所は、明石町の聖路加病院の道路を挟んだすぐ前だが、生まれたのは木下病院である。

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奥が聖路加病院、手前の瓦屋根の建物が当時の我が家。残念ながら全く記憶にない。白く壁が見える蔵は焼け残こり大分後まで残っていたので覚えている。さらに北側の塀と門は、聖路加病院の新館ができる頃まで形をとどめていた。
写真の右下の戸口から階段を降りると川にでられる。(川がほんの少し写っている)船に乗って夕涼みをしたり銀座に行くこともできる。この川は今は埋め立てられて公園になっている。
戦火が激しくなる中、アメリカが関係したキリスト教系の病院だから、焼夷弾は落ちないだろうと考えていた。確かに焼夷弾は落されなかったが、風に乗って飛んできた火の粉が天窓から入り焼失してしまった。オヤジは天窓が嫌いだった。後になって、私が設計した家に天窓をつくると「やめとけ」と必ず云った。
他でも書いたが、祖父は中野に引っ越した後、何年間は、明石町に戻ろうと考えていたようだ。何回か焼け跡を見に行ったことがある。焼けた残骸は片付けられ、庭石や敷石の並び、池の底の玉石や石の湾曲した橋などが庭の様子を残していた。
焼け跡で、父や祖父が、後始末などしている間、近所の小川さんの子供と遊んでいた。小川さんの家はすぐ隣なのだが、焼失はしなかった。同じく近くに島田さんという方もおられ、祖父が生きていたころは交際が続いていたがそのうち音信不通になってしまった。
小川さんの子供は、私より少し年上で、勝ち鬨橋の開くのを見に連れて行ってくれたり、隅田川の水際に降りてだぼはぜを捕まえたりして遊んでもらった記憶がある。
中野に定住することを決めてから、幾つかの庭石と石灯籠を中野に運んできた。それは今も残っている。当時、米を炊くのも竈で、風呂も薪だった。燃え残った天井板などを運んできて薪に使った。私は覚えていないが、祖父は鉈で、こんちきしょう!こんちきしょう!といいながら薪に砕いていたという。

170129

相変わらず天気はよいが、
このところそれほど寒くない

近くの道祖神
誰が面倒見ているのだろう?
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その南の魚屋さん
今日は休み
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環七の向かいの道祖神
クスノキの補修が素晴らしい
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もう少し奥にいくとまた道祖神
「北向地蔵」とある
確かに北を向いている
子供がお参りしていた
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民家
今は蔦が枯れているが夏になるとまさに緑の家
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ザクロの幹
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此処の家は前来たな
妻の飾りもなかなか
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泰山木が一本
丸く積んだ石垣の中央に立っていた
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懐かしい家
健在
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凄い換気口
セルフのクリーニングの店
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今日の果実
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今日の花
170129-04.jpg 我が家の梅が満開

青いレモン 029 親と映画に行く話 170620
小さいとき、扁桃腺が腫れてよく熱を出した。風邪で熱が出ると扁桃腺が腫れたのかも知れない。40度ぐらいの熱がすぐに出たのを覚えている。それで扁桃腺を取ることになって聖路加病院に入院。病気になると、家の近くの菅先生、僕が小学校のうちにやめてし枚息子さんのいる赤羽に引っ越していったような記憶がある。つい最近まで建物だけは残っていた。其の菅先生は軍医だったらしいが、良いお爺さんの先生だった。オフクロに僕のことをお宝お宝と言っていた。その先生の指示で、扁桃腺を取ることになった。何で聖路加病院かというと、前にも書いたが戦火で我が家が燃えるまで聖路加病院の前に住んでいたからである。
それはともかく、聖路加病院の先生に一二回見て貰い手術の日も決まり、手術、扁桃腺とアデノイドをとった。その日は病院に泊まる。喉が痛いと、オフクロに帰らないでくれと泣きついたそうで、オフクロは明くる日早起きをして、病院に駆けつけたら、ケロッとして同室の子供と仲良く遊んでいて、折角早く来たのにと少しがっかりしたと後で言っていた。喉は痛かったが、病院の朝食に付いてきたバニラのアイスクリームがしばらく味を忘れられないくらい美味しかった。とにかく治ってご褒美にオフクロにウォールト・デズニーの映画『ダンボ』に連れて行って貰った。感激してみて帰る。自分の耳が大きくてダンボといわれたこともあったせいもあり忘れられない想い出での一つである。これが小学校の低学年で、それまで良く熱出して休んでいたのに手術後小学校を卒業する前で無欠席であった。低学年の間、ツベルクリン反応が陽性なのと、母が胸を患っていたので、体操の時間はずうと見学だった。親が心配して頼んだのだと思うが、ずるいと思っていた友達も可成りいたのではないかと思う。
親子3人で見た映画も一本だけある。シネラマという映画技術ができて、凄いと云うことで、京橋の今はない映画館に見に行った。一番印象に残っている場面は、ジェットコースターで、三連の大きな画面と大音響で、臨場感たっぷりジェットコースターが楽しめる。オフクロが怖い心臓が痛くなると云っていた程迫力があった。
親とではないが、当時小学校には映画教室という時間があった、1学年揃って学校から歩いて、吉祥寺の映画館に見に行った。アマゾンのシャバンテスという未開民族の記録映画、ウォールト・デズニーの『ファンタジア』、『24の瞳』まだまだ思い出せば可なりでてくるが、良い映画を見せて貰った。一年にせいぜい1,2本だから先生たちも可なり苦労して決めたのだろうと思う。
これは、大分大きくなってからの話であるが、多分中学生のころだ。高円寺の映画館にオヤジと二人で映画を見に行ったことがある。高円寺平和という映画館があって、「ジャイアンツ」とも一本「アナスタシア」をやっていた。僕はその頃、話題のジェームスディーンの映画を見たかったわけだが、おやじの方はもう一つのロシアの貴族の話の方が面白かったと云っていた。おやじと二人で映画を見たのは後にも先にもこれ一回だと思う。

170128

朝から素晴らしい蒼空が広がっている
風もそれほど吹いていない

まずは家の近くの元お医者さん
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東へ
ガード下をくぐる
170128-18.jpg 170128-19.jpg 鳩除けここまでしなくてもと思うのだが、

気になる家、南東北から
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この近くの
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凄く密な集合住宅
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妻飾り二つ
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幾つか
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門の内
紅梅が綺麗だった
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お米屋さんとその裏?
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北へ
練馬の徳殿公園なかなか良い公園だったが、
大木が二本切られていた。
確かに中が腐っているが、
木は外側で持っていることが多い。
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西へ
塔のある家
洋風のような和風のような面白い取り合わせ
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今日の花
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青いレモン 028 近所の友達 170616 170620
吉祥寺の学校に行く前は近所の子供と遊んでいた。
西隣は岩田さんトシナガちゃんという同い年の男の子がいて、何して遊んだかは覚えていないがよく遊んだ、みよこちゃんと言う妹がいて時々くっついてきて遊んだのを覚えている。岩田さんの北側は斉藤さんで、年が少し上だったと思うがほとんど遊んだことがない。そのまた北側が、三谷さんで、息子がこれまた同い年で時々遊んだ。お姉さんがいて、一寸狐のような感じだったが結婚せずに同じところに住み続けていたが、建て直しをして、もうすぐ完成だと云うときに亡くなられてしまった。つい最近のような気がするがもう5年以上経ったのではないか。家の真北は麦畑、道を挟んで東側はおやじの従兄弟夫婦が住んでいた。後になって、まり子ちゃんが生まれるが、その頃は子供がいなかった。日本橋の木屋さんが親戚で、その子供が二人泊まりに来ていて、時々遊んだ。男の兄弟で弟は確か林まことちゃんと言った。この親戚の家を挟んだ東側に女の子が住んでいて、時々家に遊びに来ていた。雨がしとしと降って、庭一面に水たまりができたのを縁側で眺めながら、雨の止むのをまっていたのが何故か印象に強く残っていて、「・・・・・遊びに行きたし、傘はなし、紅緒のかっこの・・・・・緒が切れた。」の唄を聞くとその場面が自然に頭に浮かんでくる。何という唄だったけ? 多分、北原白秋の『雨』。
南側はトウモロコシ畑で、東の端に白田さんの家があった、小さな雑貨屋さんを営んでいた。まだおばあちゃんが健在で腰を曲げた歩いていたが其のおばあちゃんから凧あげの凧やたこ糸を良く買った。この一角、白田さんの家以外トウモロコシ畑で其の南側が妙正寺川に向かって斜面になって家が何軒か建っていた。いつの間にか東南の四つ角を挟んで藤橋さんの家が建ったが遊び友達はいなかった。多分、学校が吉祥寺になってからは自然と近所とは疎遠になったからだと思う。
就学前か後か定かではないが、一区画北に一寸年上の松原さんちのお兄さんが居て坂の下の妙正寺川で魚やエビガニやオタマジャクシを捕まえて遊んだ。数ヶ月は一緒に魚取りをしていた、つかまえてきたエビガニの子供だけは大切にしようねと云ってたのにそのお兄ちゃんが、わざと殺してしまって、それが悲しくて、その小さな事件を境に遊ぶことがなくなった。

170127

曇り空
さん何寒くない
気のせいか?
結局今日も晴れ
気温は少し高めで歩いていると汗ばむほど

野方一丁目二五番地付近で
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サンプラザにアルーブリュット展を見に行くが、ちょうど店じまいで片付け中だった。
中野サンプラザ
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民家二軒
風呂屋
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中野たてもの応援団の定例会議の会場
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中野たてもの応援団ガード下展示
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太さの変わる道
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文科省天下り
早稲田で始まったが、
国立大学が凄い
予算獲得のため?
官僚の天下りを官僚が調べても埒があかない
アンタッチャブル的な組織が必要
幾つかに役目を限定
例えば官僚の不正についてのみを扱う
国民の目で監視するが、
その権限は絶大なものとする
官僚に加えて政治家?
これもまた難しい

今日の緑の家
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今日の花
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ミツマタの花も撮ったがひどいピンボケ

青いレモン 027 祖父との旅行 170616
ついでに祖父との旅行についても書いておこう。祖父はその頃、もうすぐ80才ぐらいの良い年だった。旅行に行くとき会社の誰かが一緒に着いてきた。当時、小学校の2,3年生だった僕は忘れてしまったが、最近になって康義(小西康義さん同じ小西だが親戚ではない)が箱根の旅行の時一緒だったと云っていたが、云われてみればそんな気もする。
祖父は、当時流行っていた、麻の白い服に白い靴を履き、白い帽子をかぶってステッキを持っていた。洋服や靴の手入れは、結構、手間が掛かる代物だったがお袋がやっていた。
行ったのは、後先は忘れたが、箱根の宮ノ下と修善寺である。多分、宮ノ下の方が先だったと思う。斜面に建った和風の旅館の離れの部屋で、祖父と二人で寝た。東京の蒸し暑さとは違って、すがすがしい朝、放っておけば寝具は女中さんが畳んでくれるが、自分で畳めと祖父に教わった。
朝ご飯の前に壺に入った小さな梅干しがでて、砂糖を付けて食べた。なかなか美味しい。旅館に泊まると自宅とは少し違う非日常の世界があると知ったのもこの時。庭下駄を履いて庭に降りると桔梗が咲いていた。桔梗のつぼみが風船みたいに膨らんで、手で押すと弾力があったその感触が今でも指の先に残っている。
もう一回は、修善寺の新井旅館だった。今は登録文化財になっている。錦鯉の泳ぐ池の上に迷路のように渡り廊下が掛かった純日本風の旅館で、祖父が渡した心付けが良かったのかお姉さんがとても親切に相手をしてくれた。寝る前にもっと遊んで貰いたいと云ったら、いい加減にしなさいと怒られた。

170126

晴天
いろいろとランプ大統領の政策の影響が出だしているが、
我が国の対応は、
いつものことだが、
古い枠の中での付け焼き刃

田町 田町は港町(昔は)船グッズが街のあちらこちらに
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田町校舎
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今日はここで、蜂蜜を舐めながらみつばちの話
終わってから居酒屋で一杯
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大統領がかわって
もしかすると、尻尾を振るポチにおさらばできる
反旗を翻すことなく離脱を図る
未曾有のチャンスかも知れない

青いレモン 026 おやじと旅行 170616
おやじの通勤と僕の通学時間が近かったので、朝駅まで一緒に歩いた。寒い冬の朝だったと思う。その日もおやじと一緒に歩いていた。大きな銀杏の木がある大和北公園の南の曲がり角の辺りだったと思う。突然オチンチンのマークってしているかと聞くから、多分その頃は、まだ道路が舗装されていなかったと思うが道路に棒きれでおちんちんのマークを描いた。女の子のマークは知っているかと聞くから知らないと云うと、今度はおやじが棒きれで地面に絵を描いた。へーぇと思ったが、何でそういうマークに成るのか全然ピンとこなかった。
ふーんと答えてその話はそのままになった。今にして思うと僕が晩生でそういうことに全く無関心なので、多少心配になったのではないかと思う。

おやじは会社の付き合いで、旅行によく行った。詳しくは忘れてしまったが、クロノス会という会があって、宇部までくっついていった。多分、高野山もそのクロノス会だったと思う。着いて皆で風呂に入り、食事をし、おやじはその後、麻雀をずっとやっていた。おやじは麻雀の時に使う名刺をいろいろ持っていた。私は一人で遊んだり、一人で本を読んでいたりすることに慣れていたので、あまり苦にならず眠くなるとさっさと寝てしまった。それでも一人では可哀想だと思ったのか時々従兄弟を誘ってくれた。高野山の時は智ちゃん(等々力の三男)が一緒だった。おやじも気を使いあるときは長男、あるときは次男が一緒だったが、四男とは旅行したことがなかった。長男がふたつ上、次男が一つ上、三男が一つ下で、四男は少し年が離れていたからだろう。
社員旅行のようなものもあった。確かミカン狩りにくっついていった。
これらは写真が残っているから覚えているが、写真のない旅行もあり、いろいろ行ったような気がするが、断片的な場面しか覚えていない。

170125

晴天が続く
異常乾燥注意報は出てないのか?

午前中新宿にて打ち合わせ
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昼を食べる 
久しぶりのラーメン

コマ劇場前の広場
向こうに西武新宿駅が見える
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夕方から中野たてもの応援団の定例会
終わった後はお好み焼き

個人情報保護法案 テロ共謀罪 秘密保護法案

名前から、
いかにも個人を保護しているようだが、
個人に仲間をつくらせず、
弱い個人個人にばらばらにして
各人を支配するための法案と思えばよい

益々、役所は情報を一人握って出したがらなくなる

仲間同士で話し合うことも邪魔する
ウッカリ冗談も言えなくなる
支配に支障を来せば邪魔をする
国民をどう支配するか?それは秘密にして教えない

青いレモン 025 あだ名 170615
小学校の友達とは会うといまだにあだ名で呼び合ってしまう。
何々公(コウ)というのが多い。何故かというと、
一説に、大鶴君の家に誰かが遊びに行ったら、本名泰彦(やすひこ)が、何故かお母さんに「ヤッコ」と呼ばれていた。何故かそれが話題になって、公を付けるとどうなるなどと子供なりに言葉遊びをしているうちに定着してしまったではないかという。
確かに何々公が多い。そういう自分もその一人である。
アマ公(天野君)、イケ公(池田君)、オニ公(尾西君)、キノコ(木下君、公が詰まる)、ガコ(古賀君、公が詰まる)、ジー公(小坂二郎君)、コニ公(私)、ダシ公(志田君 シダ→ダシ)、タケ公(武田君)、ツウ公(土屋君)、ビー公(日高君)、ヒキ公(疋田君)、ヤナ公(柳川君)
勿論、他にも公が付かないあだ名もある。シンチャン(石河信一)、石ころ(石館君)、黒ちび(黒川君)、たかしょう(髙倉祥二)、タカノボ(高橋昇)、ター坊(田坂君)、ドンキ(土岐君)、トク(徳永君)、トッタン(橋本俊民)、マーチン(福江正彦)、フジブタ(藤村君)、コウタロウ(宮本孝太郎)、ムラケン(村岡賢二)、ヤマセン(山本亘)、ヨッチン(吉田昭彦)、
あまりあだ名で呼ばれなかったのは黒宮君、西川君、浜口君
さすがに女性に公が付く子はいなかった。男性が呼んでいた女性のあだ名は、今更笑えば済むことかも知れないがやめておこう。今だったら新聞沙汰になりそうだ。

170124

朝起きたとき零度をきっていた。
寒い。

歴史民俗資料館に先週の土曜日の話について聞きに行き資料を入手
ついでに展示「火消しの世界 鳶の男たち」を見る
中野区早稲田通りより北側は六番、南側は五番
赤い線二本は頭か副頭
六番の刺し子半纏と半纏
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刺し子がなかなか
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の説明も興味深い
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「チメンカノイエ」今日はよい状態で写真が撮れた。
車が止まっていないせいか?
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篭原観音によって帰る
昔は四体あったそうだが、
今は馬頭観音と聖観音の二体
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青いレモン 024 家の食堂、家族室 170615
その頃の我が家の食堂は、いわゆる茶の間で、今は納戸になっている東北の隅の5畳半の部屋で、丸いちゃぶ台の周りに座って、食事をした。祖父、祖母、父、母、私、小さい丸いテーブルによくこれだけ座れたと思うが、ご飯と汁とおかず一皿だから無理なく載ったのだと思う。
北側の出窓側に小さな収納戸棚があって、その上にラジオが置いてあった。大抵、祖父がニュースを聞いていたが、食事の時間などは「鐘の鳴る丘」など子供向けの連続ドラマを聞かせてくれた。掘りごたつもあったが、食事の時の炬燵との関係は覚えていない。炬燵の中に潜ると絶対にいけないと怒られ、当時は熱源に炭を使っていたから一酸化炭素の中毒の恐ろしさを聞かされた。
食事の時間には各家で、電気を使うので、毎晩のように停電になった。慣れたもので、すぐロウソクに灯が灯るのだが、やはり薄暗い。祖父が、「電気屋さん電気つけてくださ~い」と頼めというので、北側の窓を開けて、裏の麦畑に向かって大声で叫んだ。それほど長い時間掛からずに電気が付く。やはり明るくなりほっとする。自分が叫んだからついたとは思っていなかった。「電気屋さん電気つけてくださ~い」は、幼いなりのお付き合いであった。就学前の時期だったと思う。
祖母、祖父ともに亡くなってからも8畳は客間で、この部屋が通常使う部屋になっていた。
8畳が家族室になったのは僕たちに子供が出来てからだと思う。人数が増えたことよりも父の会社関係のお客が減ったからだと思うが、それでも突然の来客となると大慌てで8畳を片付けた。決定的に変化が生じたのは2階が焼失し昔の茶の間が子供部屋になった時だと考えられる。
それ以前に、表玄関の内玄関が二つ並んでいたものを父が表玄関を潰して小さな部屋にした。先見の明があったのか、此処が我々の寝室になり現在に続いている。
小学校の頃だと思うが、父が遅いと母と炬燵に入り母は縫い物をして、私は学校の宿題をしていた。ラジオからは毎日引き上げ者の名前が延々と読み上げられていたが、うちは親戚も含めて、みな内地で終戦を迎えていた。名前の読み上げが一段落してから、NHKの人気番組二十の扉や、村上元三原作の連続ドラマ「白面公子筑波太郎」を聞いていたのを覚えている。

170123

少し早く寝たら
早く目が覚めた
一寸早すぎ
今日も蒼空が広がっている
日本海側は雪模様

一冊読み終わる
なかなか筋が見えてこない

新宿まで買い物に
目指すものは無かった

青いレモン 023 小学校の食堂 170615
小学校の食堂は教室と別棟で、小学校の施設としては一番南側にあった。雨の日は傘を差して歩いて食事に行った。
ここ数年、建築家協会の中野地域会で、「空間ワークショップ」を行っている。これが何かと云えば、角材と、幅広のゴム輪を使って骨組みを組み立て、建築空間を小学校の生徒に体験して貰うというものである。結構、人気があって、中野区だけでなく都内のあちらこちらの小学校に出前している。児童と何人かの先生の協力を得てワークショップを行った後、給食を教室でごちそうになる。
数年前に初めて、最近の給食をごちそうになった時は目玉が飛び出るほど驚いた。と言っても60年以上経っているのだから当然なのだが、我々の食べた給食とはこうも違うものかと目を見張った。デザートまで付いている。
その昔、一年生の時は給食はなかったと思う。二年生というと昭和25年だと思うが、だだ広い、モルタルの床に木製のガラス窓の木造の工場のような建物が食堂で、天井が張ってあったかどうか覚えていない。木製のテーブルに木製のシンプルなベンチが食卓である。2年生から、6年生まで、各学年3クラス約120名が一同に会す。食事の開始はクラスごと片付けもクラスごとだったと思う。
普通は、コッペパンで、包丁で割ってあり、そこに日によって、マーガリンか、イチゴジャムか、チョコレートクリームが塗られていた。それに米軍放出の脱脂粉乳これが亜鉛メッキのバケツに入れられて出てきて、金属の柄杓で、アルミのボールに取り分ける。これもただのミルクの時とチョコレート味の時があるが、どちらもそこにカスが沈み最後に残ると見た目にもあまりよい感じがしない。特にチョコレート味の時が気持ち悪いというのが大半の意見であったと思う。何かおかずが一寸付く。クジラの肉にホウレン草などは最高のごちそうだが、クジラの肉はぼそぼそに硬かった。毎日工夫してつくってくれていたのだと思うが、ほとんど覚えていない。コッペパンでなかったときは、うどんか、カレーライスだった。
入り口は東西にあって、厨房は北側。この厨房の煙突がコンクリート製で風呂屋の煙突のように聳えるように高く鉄製の梯子が付いていた。可なり高学年になってからだと思うが、何を思ったかトッタンという同級生が、その梯子を登り始めて、上まで行ってしまった。一番上まで行ったかどうかは覚えていないが、見たときには可なり高いところにいた。誰かが見つけて、先生に報告、先生が飛んできて、とにかく無事降りてこさせた。先生としたら何かあったらたいへんと内心穏やかでなかったと思う。その煙突に昇ることは思いつかなかったが、高いところは割合と平気な僕はよくやったなぐらいに思っていて、その時何故かちょうど野良犬(食堂の残りをもらいに来る)が二匹お尻がくっついて離れない状態で、キーキー泣いていたことの方が印象に深く残っている。そういえばそういう犬を最近見てない。

170122

今日もよい天気だ
トランプ大統領は約束通りの発言をしている
しかし、アメリカを巡る世界がどう変わるのかは全く不透明だ
新聞やテレビから騒ぎは伝わってくるが、
普通の国民がどう受け止めているのか伝わってこない

中野区の
白鷺への道で
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中野たてもの応援団の新年会
白鷺の茅葺き民家で
風邪気味のため遅れて参加
170122-05.jpg 後片付けが済んで談笑

鷺ノ宮駅南の道祖神此処には地蔵堂や祈念碑などがまとまって建てられている。
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ずっとこのままの出桁の民家
閉まったまま数十年、前のガソリンスタンドを利用しているときからだから
でも手は入れているようだ
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切り妻飾り、洋瓦のなかなか小粋な平屋の建物
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井戸
向きを直さなければ、
でもこれもよいか?
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都立家政北の青面観音の隣の神庫中野区の標準様式?
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この家も2月中頃には引っ越しで、
多分新しい家が建つ
何か寂しいな
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今日の花
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青いレモン 022 駒場のお兄ちゃんと庭の果樹 170612 170614
これも母が寝込む前、幼稚園から小学校に入った頃まで、家の庭に一緒に花を植えた。デイジー、カンナ、シオンなどなど。花の咲く木は、ライラック、ユスラウメ、チンチョウゲ。ライラックとチンチョウゲはよい香りがした。ユスラウメの花は小さくて地味だったけれど実は結構美味しく食べられた。残念なことに、どれも10年ぐらいで、枯れてしまった。植えたところは同じような位置で、何かあまり木にとってはよくなかったようだ。
札幌で3年間過ごしたときに毎年初夏にライラックが一斉に咲いてよい香りを漂わせているのを嗅いで、何か急に懐かしい気持ちにさせられた。チンチョウゲは前の日まで元気だったのに言葉通り一夜にして枯れてしまった。あれはなんだったのだろう。
草花を小さな花壇をつくって植えたが、母の駒場に住んでいる兄が薬草などに詳しく、教わってきては植えるのだが、どれも薬草らしく地味な花のものが多く子供としてはあまり興が乗らなかった。その中で名前を覚えているのはシオン、アマチャ。薄紫の花の色を母が気に入っていた。
祖父は柿が好きで、家に5本柿の木があった。一本を除いて、どれも渋柿で、祖父は接ぎ木をして、甘柿にしようとしたが、何期か繰り返してもついに成功しなかった。渋柿の方は立派な大きい柿で、完熟するとゼリー状になって食べられるが、大体そうなる前に鳥につつかれてしまう。かなり沢山成るので、何とかしようと樽柿にをつくっていたがこれはなかなか美味しくできあがった。焼酎を使うので子供にはどうかとあまり食べさせてもらえなかったような気がする。祖父は渋柿から柿渋を造り防腐剤として使っていた。多分七五から八〇才の頃だと思う。一本だけあった甘柿の木が突然枯れた年に祖父が身罷った。元々心臓が悪かったが、熱いお湯が好きで、そのせいか風呂の中で息を引き取った。中学2年の時で、少し遅く学校から帰ってきて、祖父が亡くなったことを知った。

170121

天気は回復したようだ
ついにトランプが大統領になった
さて世界をどう変えるか
お手並み拝見

大谷石の擁壁の家
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民家3題
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中野たてもの応援団の干し柿
今年のできは大きくて甘くて上々!
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かつて此処になかなかの建物があったのだが 2題
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鷺宮講座「どうにもナゾな鷺宮」講師、歴民学芸員 石村篤史さん
たっぷり1時間半
結構人もはいっていた
下鷺宮の話も聞けて、有意義であった。
江戸前期以前の資料は火災により紛失
江戸後期以後の資料はあるのか?
あれば調べなければならない
もっと協力関係を創り上げていきたい。

今日の花
170121-01.jpg 白い沈丁花

青いレモン 021 畳のへりの鬼ごっこ 170612
母が寝込む前、母と二人で6畳の仏間の畳のへりを歩いてネズミと猫の鬼ごっこをした。毎日毎日飽きずにやっていたような気がする。多分、幼稚園に上がる前だ。
小学校の二年の時、祖母が亡くなり、中学校の二年の時祖父が亡くなった。二人の寝室は8畳、襖一つはさんで、父母と私がねていた。二部屋とも床の間があったが、床の間として使っていたのは8畳の部屋だけ、6畳の床の間はものが置かれていた。そのかわり、その隣に仏壇が置かれた。明石町の家の仏壇は焼けてしまったので、祖母が亡くなったとき(祖父かな・・・・記憶というのは怪しいものだ)に新たにつくった。単に購入したのかも知れないが、家紋が入っており、伯母の一人がその向きが天地逆なのみ気付いて、直させたのを覚えている。我が家は浄土宗で、かなりきらきらした仏壇であるが、浄土教の極楽浄土の表現からは確かにそう云うものになる。親類ではなかったように思うが、家によく来る女性がいて、仏壇の脇に二人の像を置かされた。一人の衣は下三分の一が金色で、日蓮様だという。どうしてもこれをおくべきだと頑張られ、置くことになったように覚えているが、どなただったかは定かでない。父が仏壇には幾ら掛けようが、相続税が掛からないと云っていたのを覚えている。今の仏壇ができる前、どんな状態だったか全く忘れてしまったが袋張りの観音開きの戸棚だったように思う。

170120

今日は曇り空
雨が降るらしい
雪になる心配はあるのか?
分からない
結局小雨がぱらついただけ

早稲田通りまで、
一度帰り、郵便局、
裏通りで、
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もう一度帰り新宿ヒルトンホテル       JCQAの展示会
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夜景
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今日の花
170120-04.jpg 臘梅が咲いていた

青いレモン 020 グリコ 170527 170612
グリコ、脳溢血、ヒル
我が家にとって祖母ふじの存在は偉大だった。
三代目安兵衛には二男七女があり、長男は次女の次に生まれたが幼くし亡くなり、最後に生まれた次男が四代目を継いだ。しかし結婚前に若くして亡くなる。長女せんは二歳で明治15年に早世し、次女である私の祖母ふじが小森家から喜兵衛を養子として貰い跡を取る。三女はひさは、清水家から安治郎を養子にもらい結婚、中野の家を興す。四女は早く亡くなる(如幻孩女)。五女のぶは住山家から艷太を養子にもらい結婚し富士見町の家を興す。六女うたは森家から長治郎を養子にもらい氷川町の家を興す。七女いくは結婚せずうたのともに氷川町の家に住まい最後まで結婚せずに亡くなった。
祖母は、みみっちいことが嫌いで、そういうことを見聞きすると、「いやだね」と渋い顔をした。孫の私には優しく、幼稚園から小学校に掛けて、帰ってくるとグリコを一箱くれた。当時、赤い箱の上には小さな箱がくっついていて、そこにおまけが入っていた。おまけはいろいろあったが、小さな自動車とか人形とか今にして思うとなかなか工夫が凝らされていた。小学校の2年になってすぐ祖母が倒れて寝込んでしまった。敷居の滑りをよくするために水蝋蝋を引くが、経緯は覚えていないが、僕が普通の蝋を塗ったらしく。其の蝋が廊下について祖母が滑って転んだのが原因だといわれ子供なりに可なりショックを感じた。実は、それとは関係なく脳溢血の発作だったらしい。
中央線の駅から真っ直ぐ北にきてクランク状に商店街が曲がった其のすぐのところにあった漢方薬の店で、ヒルを仕入れて、祖母のコメガミに這わせて余分な血を吸い取るなどしていたが、1ヶ月ほどの療養の後、グリコのおばあちゃんは藤の綺麗な4月の28日になくなった。ご近所に高島易断の看板を出していたお宅があり、そこの家の藤棚の藤を分けて戴き棺に入れた。そこのお宅は看板は下ろされたがまだある。しかし、藤の木はいつの間にか無くなって仕舞った。

青いレモン 020+α 170527 170612
その頃の高円寺の商店街はよく歩いたにもかかわらずあまりよく覚えていない。
次第に店が建て変わっていく頃で、よいとまけで基礎作りをしていたのを覚えている。
古い店では大正堂という書店、最近まであったがなくなってしまった。あと、たかくらという文房具店とつかはらという文房具店がありよく利用したが両店ともいつの間にか亡くなった。
あと一本西側に入った南北の道には高円寺平和という映画館と、ゴルフの練習場があった。
映画館は1970年代までは残っていたし時たま見に行った。ゴルフの練習場は父親に連れられて何遍か行った。それを聞いたゴルフ好きの伯父が短いウッドのクラブをつくってくれた。しかし結局ゴルフはあまりやることはなかった。

170119

薄雲が広がっているが気温はそれほど低くない
風は少しあるが、
落ち葉が舞う程ではない
時間とともに蒼空が広がる

黄色いカリフラワー
写真では白く写ってしまう
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廃業した
裏通りの
角の
たばこ屋さん
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豊玉の氷川神社
狛犬と重たそうな力石
神庫も並んでいる
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中野と練馬の境辺りで、
妻飾り(換気口)
古い切り妻の家には必ずといってよい程付いていた
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平屋の民家
が立派である
手入れがたいへんそうだ
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枝垂れ桜の木
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来年度はどうするか
そろそろ考えなければならない

今日の花
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青いレモン 019 近所の話 170521 170522 170611
道路を挟んで東側にはオヤジの従兄弟の康資さん家族が住んでいた。やはり富士見町に住んでいたが戦火で焼かれ引っ越してきた。西側に門があり、門の脇に大きな泰山木が立っていた。クリーム色の壁の洋風の家で、当初は土手に笹の風雅な塀であった。今の坂の下の山田茉莉さんの家の塀と全く同じである。そういえば泰山木があるのも似ている。手入れが大変で中が見えてしまうと言うのであるとき万年塀の塀に直した。それから大分経ってからだが、台風のあった翌朝、その塀が全部倒れていた。
康資さんの家には、道子おばさまとまり子ちゃんが住んでいた。まだ、万年塀の塀になる前の頃、この家の南側の藤橋さんとの間の道は、何故か不整形で、道路の途中が幅広くなっており、真ん中にアオギリのかなり大きな木が一本立っていた。木が切られ、道路が整備されたのがいつだかはあまりよく覚えていないが幼稚園の頃か小学校の低学年の頃だったと思う。康本さんの家は変わってないから、道路の北側を基準に不整形も是正されたのだと思う。
まり子ちゃんが生まれる前の一時期、時々、日本橋の木屋さんの息子が康資さんの家に泊まりがけで来ていた。男の兄弟二人で、確か弟の方が「まことちゃん」だったと思う。何でしょっちゅう泊まりに来たのか今ひとつ思い出せないが、年が近かったせいか来る度によく遊んだ。「まことちゃん」とは、その後親戚の結婚式の時に一度あった。
二階の東側の窓から康資さんの家の庭越しに中野の刑務所の迷彩を施した塔が見えた。
ついでに、かなり最近まで、といっても結婚後しばらくの頃までだが二階から南には高架になった中央線が高円寺駅付近を走るのが見えた。西には富士山、北には豊島園の花火が見えた。花火と云えば両国の花火も豆粒のように見えた。
南側に木製のバルコニーから見えた富士山は、伊倉さんの家が建ちそこからは見えなくなった。今でも倉庫の上から誠心寮の屋根越しに富士山の頭が少しで家見える。
当時、藤橋さんの家もお爺さんお婆さんの代で、犬を何匹も庭で放し飼いにしていた。普段は出てこないのだが、たまに四つ目垣の間から顔お出し、石垣を飛び降りて道に出てきて、近くをうろついている。一度は牙をむきだして追いかけられた。特に真っ黒な犬がいて、不気味で怖かったのを覚えている。家のすぐ下まで来て、大回りをして家に帰ったことも何度かある。お爺さんが亡くなり、お婆さんは可成りお酒が好きだったようで、一升瓶を下げて酒屋に買い物に行く。しかし、我が家が家事で2階を焼失したときに話らしい話を初めてしたが、家は平屋が一番いいんだと日本の家の哲学を語られていた。因みにマンションに建て直す前の藤崎さんのお宅は数寄屋造りの平屋だった。


170118

今日も表日本天気
寒いがよく晴れていて風はない

夕方からJIA文化財修復塾
いろいろ重要事項があったが、
年明けで集まりが悪かった

修復塾のメンバーが逝去された
岩手の会員で、
3.11の時にもたいへん活躍された
心からお悔やみを申し上げます。

携帯の電池の減りが極端に少ないと思っていたら、
ピンコード騒ぎで、店の人が初期設定にしてくれたみたいで、
電波OFFモードになっていた
解除したら、マナーモードの設定もOFFになっていて、
着信音が続け様にけたたましく鳴り響いた
音量も大きく、音の種類も聞きなれない音
慌てると何処をどうすれば止まるか即座に反応できない
それでも何とか元に戻る

青いレモン 018 防空壕 170522 170611
鷺宮1丁目六番地の家の庭の真ん中には防空壕があった。赤土の地面に穴を掘っただけのもので、足場の幾つかの穴を開けた赤土の斜路を降りていくと小さな空間があって、茶碗などが隅に重ねて置いてあったような気がするが朧気にしか覚えていない。上空をB29が編隊を成して飛ぶことはあっても、既に空襲はなくなっており手も入れられておらず危ないから入ってはいけないといわれた。あまり興味を感じることもなく、そのうちもういらないと、埋め立てられてしまった。そこし高めに盛り土気味に埋め戻したように記憶しているが、10年ぐらいの間、埋め戻したところが沈下し、水が溜まっていたのはよく覚えている。完全に痕跡がなくなるには20年ぐらい掛かったのではないだろうか。
戦後も落ち着いてきたが景気はよくならず、祖父は明石町には戻るのをやめて、鷺宮に落ち着く決心をした。まずは焼け残った蔵の中身を移す倉庫を建てることになった。Hさんのいた奥の4畳とトイレの建て替えも合わせて行った。この時、庭に簡易トイレができた。縁側から一間程度の橋がかりみたいなものを渡して、その先にトイレができた。何故か、縁側から直角でなく斜めに突き出しているところが、子供心に洒落ていると思った。この仮設トイレの使用はせいぜい一月半ぐらいのものだったと思うが、トイレの下には大きなカメが埋め込まれていたが当時はまだ水洗便所の時代ではなかったので、それほど違和感はなかった。夜は、雨戸を開けてこの橋を渡ってトイレに行く。橋にはちゃんと簡単な手すりも付いており子供心にはなんとなく非日常的で楽しかった想い出がある。
庭の樹木も今ほど生長しておらず。庭には良く陽が当たった。食糧不足の時代であるから、庭は家庭菜園になって、トマト、ナス。菜っ葉などが植えられ、菜っ葉に付く青虫を割り箸でつかんで瓶に入れた。庭だけでなく敷地の南側の道路の端にも空豆を植えたのを覚えている。勿論、道路は舗装されておらずだ何処の家でも道路の端を活用していたし、文句も出なかった。因みに南側はトウモロコシ畑、北側は麦畑だった。白田さんの家はその頃トウモロコシ畑に囲まれてもうあったように記憶している。

170117

昨日より1、2℃暖かい?
空は真っ青

朝スイッチを入れたら
携帯が全く動かない
携帯ピンコードて何?
auの店に行き番号を調べて貰って解決

近くの評判のやきとんの店
まだ仕込み中
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植木鉢
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下見板の民家2題
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妻飾り
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2題
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今日の花
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青いレモン 017 ごわじゃごわじゃボン と 質屋のベル 「丸幸さん」 170522
もう具体的に忘れてしまったが学校と駅との間を歩いて帰るときに、なんとなく顔つきに特徴のあるお兄さんとよく会った。誰かが、彼のことを「ごわじゃごわじゃボン」だと名前を付けた。下校時刻が同じであれば自然と会うことになる。今から思えば何が楽しかったのか分からないが、「ごわじゃごわじゃボン」だ「ごわじゃごわじゃボン」だといって喜んだ。
これはもっと先のことだが、学校から五日市街道をわたったすぐ南側に、質屋さんがあり、誰が始めたのか入り口のベルを押して、「丸幸さん」と叫んで走って逃げる。
こっちの方はしばらくして、学校で問題になり、やめるようにと注意があったが、誰がやっているか分からないから、一般的な注意だけだった。その後もしばらく続けていたが、飽きてしまって、この遊びはそのうち自然と消滅した。
あと音の響きで、印象に残っているのは、文化祭の一二年上級生の劇の中で、出てきた「廻れ廻れブローニー」という台詞。今となっては定かでないが、サーカスと関連した劇だったような気がするが、なんとなくその響きが胸に残っている。もう一つ、これも劇の中の台詞だと思うが、「ハイシー、ハイシー歩めよ子馬」という台詞も「シー」に特徴があって、其の役の一年上級の女性は今でも「ハイシー」で通っている。これらは、何でもないことなのだが、可成りの人数が強い印象を共有していたのだと思う、十年も二十年も経って時たまそれが話題になった。しかし印象は次第に色あせ音だけが残っている。

170116

今日も空は真っ青だが寒い
部屋の中の温度が上がらない

仕上学会の作品賞WG
田町に早めに着き遠回り
東京タワーが真っ正面
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冬夏会の新年会
大岡山に出席

日本は労働環境では後進国のようだ
労働時間に対して厳しさがない
戦後からバブルの頃まで、
自分たちの労働が
自分たちの国を豊にするという
相互関係があった
だから、多少の厳しさには文句が出なかった
違いはあるものの、趣味の時間とはいかないまでも、
好きなことをやっている限りは多少つらくても文句は出ない、

しかし、日本の社会の状況が変わって、
自分たちの国のために働くという認識ではなく、
経営者、あるいは資本家、あるいは金権主義者、あるいは国を牛耳っている人達・・・・・・のために働かされているという
認識に変わってきた
これは働く側が、変わったのではなく社会が変わったのだと思う。

自分たちの労働という意識は、
階級闘争を経てきた欧米諸国ではあまりなく、
この日本の特異性が、戦後を支えてきたことは確かであるが、
既に状況は大きく変わった。
それにもかかわらず、ILO(国際労働機関)の国際ルールを日本は無視しすぎていると言える
ILOが特に重視している8条約のうち、
職業についての差別や、
強制労働にについての条約の批准を行っていない
また、労働時間に関する18の条約があるが、
日本は一つも批准していない
確かに日本の労働基準法は労働時間を原則一日8時間、
週40時間までと規定しているが、
規制を事実上外すことができる36条の労使協定(サブロク協定)があり、
長時間労働の温床になっている。

ただただ、会社は、昔の惰性で、皆長時間労働をしてくれると甘えているとしか言えない。
労働に関して、日本は後進国と言える。
長時間労働によって、国際競争力を保とうとしているならば、
それこそ、日本の後進性だと言える。
労働時間を改善しても、国際競争に打ち勝てる工夫が必要である。
これは国内の会社同士の競争にも言える。

青いレモン 016 弓づくり 170522 170608
キャンパスの北側(中学校のキャンパスは道路を挟んで別)、小学校の西側には、松林と呼ばれる疎林があって松だけでなく、いろいろ灌木や蔓草も生えていた。枝を選んで、蔓草の蔓を張って弓をつくる。木の種類によって弾力がかわってくる。蔓も太すぎないで、ピンと張れるものがよい。人それぞれ工夫して弓をつくる。小さい弓、大きい弓などいろいろできてきた。矢の方にも工夫がいる。まず真っ直ぐでなければいけない。軽い方がよいが、軽すぎると風に左右される。試行錯誤して、次第に遠くまで飛ばせるようになり、進歩が見られるようになってきた。
やっている内にできるものが安定してきた。弓の大きさ、矢は薄の茎の選び方、特に鏃など付けなくとも太くて多少とも重たい生え際の方を先にすれば真っ直ぐ飛ぶ。矢羽根もいらない。次第に飛距離が伸びて、当初考えられなかったほど遠くに飛ぶようになった。三階建ての一見煉瓦造の本館の屋上が目標になり皆飛距離の出る弓矢づくりを競い合った。しかし一人目が屋上に届かせたときに自分はせいぜい三階の窓までしか飛ばなかった。
それが悔しくて、必死になり真っ直ぐな細くて芯のある薄の茎を探した。弓も大切だが、矢の方がどうも飛距離を伸ばすには重要なようだ。そんなことを試行錯誤していると放課後の時間が瞬く間に過ぎ去ってしまう。
弓矢ブームが何で起こったか、覚えていない。映画教室で見た映画の影響だったかも知れない。ようやく無理なく屋上まで届くようになった頃には、そのブームも廃れまた違う興味へと向かっていった。それでも数週間は続いたかも知れない。そういえば、確か『赤い槍』というアフリカのサバンナ地帯の映画を見たあとはやり投げが流行った。垂直に持つ槍を投げる方向に持ちかえるときの動きが何とも格好がよいのだ。これは、美術部の戸隠の合宿でさかんに槍を投げ合ったから、中学になってからのことかも知れない。

170115

今日は寒い
気温が零度しかない
外の水甕に薄くがはっている
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センター試験たいへんだと思う
試験に合わせて雪が降る
東京が雪になると大騒ぎだが、

白鷺の茅葺き民家で集まる
干し柿、ゆずの収穫
焼きミカンがなかなか
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茅葺き民家の近くで
一寸手入れがいりそう
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高田馬場の古地図とその部分
思い入れのある方が個人的にしたためた
確か、私の生まれる少し前
凄いエネルギーだ
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今日の花
170115-01.jpg まだ蕾の堅いチンチョウゲ

青いレモン 015 ドングリのスマートボール 170128 170522
天然スレートを調達したラグビー場の南のドングリの林には、季節になるとドングリが沢山落ちていた。その頃、パチンコと同じようにスマートボールというのが流行っていた。パチンコは垂直面を釘に当たりながら金属の球が落ちていくその行く先を楽しむのだが、スマートボールは水平に近い緩い傾斜の釘を打った板の面を白いガラス玉がゆっくりと転がってくる。球はバネの付いた棒ではじき出す。家庭で遊ぶゲームにはコリントゲームという同じような遊びがあった。スマートボールト同じような傾斜を持った番にした下から既成の棒で球をはじき出す。全くの手動である。釘に当たりながら転がり落ちて、途中の穴に飛び込む、穴に点数が書いてある。球はパチンコの球と同じ大きさである。パチンコや、スマートボールはお金が掛かるし、コリントゲームは単純で面白くない。
同じようにドングリを球にして遊んだ。木の根元などの斜面に幾筋にも分かれた溝を掘り、枝からドングリを転がす。行き着いたところに穴があって、穴ごとに点数が決まっていて、入るとその点数だけドングリがもらえる。難コースとそうでないコースを作り分けて、その通りにドングリが転げ落ちてくれるとなかななか面白のだが、ドングリはいびつだし思った通りには転がってくれない。それにドングリは周囲にいくらでも落ちているのだから何のためにやっているのだか分からないところもありすぐに飽きてしまったが、一時期、夢中になってこのドングリスマートボールの溝を工夫してつくっていたのを覚えている。うちの庭にもつくって見たが、一人で遊んでもちっとも面白くない。

170114

晴れているが雲が多く、
雲一つ無い青空とは言えない
昨日はなんとなく疲れたな
夕食に入った店が満席で、
騒音過剰
ほとんど会話が聞き取れなかった。
もっと指向性が強いマイクというのはないのだろうか?
創ってしまうのもよいが?

小さな町の駅と南口商店街
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お魚の水槽とレーザー表示のある医院
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この小さな商店街の中に
今日は一軒休みだったが
三軒のお茶屋さんがある
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今日の花
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青いレモン 014 竹スキーほか 170522 170606
小学校の頃は今よりも寒く、よく雪が積もった。キャンパス内にも少しは勾配があるところがある。スキーをつくろうと云うことになった。防火水槽のまわりにある竹の柵から割だけを引き抜いて、掃除のおじさんたちが付けたたき火にかざして、竹の先を曲げて、スキーを作くった。表面のすべすべした面が滑り面、内側の節のところに靴を載せて滑る。竹は火であぶると曲がるとどこかで教わり、実際に応用してみたくなったのだと思うがまずまずの成果だった。しかし、斜面もあまりなく時間とともに東京の雪は溶けてなくなるから、すぐに飽きて、垣根に曲がった竹を戻して帰る。その後、曲がった竹が問題になったかどうかは覚えていない。

バンク回転と蝦蟇 170522 170606
今はもうなくなって久しいが、というのは高校生になったとき名はもう埋め立てられていたように記憶しているからであるが、キャンパスの本館西側の幾分北寄りにコンクリート製の防火用水が残っていた。通常水は溜まっていないのだが、雨水等が、下の方に溜まり緑色の藻を発生させていた。この防火槽は地上面で約8メートル×6メートルくらい矩形だが、断面はすり鉢状になっていて深さは二メートル以上ある。真っ直ぐ歩いて上り下りが難しい程、斜面の勾配は急なのだが、隅の部分は勾配が幾分緩くなるのそこを使えば何とか上り下りができた。
そんなことをいったい誰が考えついたのか分からないが、その防火水槽の斜面を勢いよく斜めに走り下る。スピードが付くと遠心力が働き、速度を落とさなければ、周回できる。さらに速度を付ければ上まで戻ることができる。一度できてしまえば何と言うことはないのだが、最初に斜め下に駆け降りるのはなかなか勇気がいる。失敗するとアオミドロの池の中に突っ込まなければならない恐怖がある。放課後この防火用水の周りに集まり順番に駆け下り何回周回出来たと楽しんだ。しかし、できてしまえば、単純だから、多分一月、あるいは二月くらいで、誰も遊ばなくなってしまった思う。三〇代の頃だと思うが、横浜に住む友人とお互いに子供を連れて其の付近のアスレチック公園に遊びに行ったときにその公園に赤土のすり鉢状の穴があり、まさに斜めに駆け下り周回するための遊び場を提供していた。もちろん懐かしくやってみたが足元が滑るので、防火用水よりも若干難しかったが、飛び込むときの胸の高鳴りなど小学生の頃を思い出してしまった。
この防火用水にはもう一つ想い出がある。春になると数珠玉状の蛙の卵が池の中に一杯産み付けられる。それがかえりオタマジャクシになるのだが、かなり大きく次第に成長してきて蝦蟇になる。蝦蟇の大量発生である。
その頃、学校の近くはまだコンクリートの側溝が整備されておらず両側に草の生えた自然の側溝だった。そこにはさらに大きなオタマジャクシが泳いでいたが、みんな食用蛙のオタマジャクシだと云っていたが確かめたわけではない。それはともかく、防火水槽で生まれて大量発生した蝦蟇の頭を竹竿でたたくと気絶する。それが面白くて多少はみんな面白がってやったが、中にそれが、面白くてたまらないやつが一人いて、それまではアマ公と呼ばれていたのだが、ガマ公といわれるようになった。彼はガマと、毛虫が嫌いで、小学校に近くの桜並木に大量発生するサクラのケムシを見ると逃げ回る。サクラのケムシはあまり美しくないのだが、刺さないので、誰にとってもあまりどうでもよい存在だった。ガマ公はガキ大将だったから通常はそんなことはないのだが、この季節、学校に来るのも嫌になるほどいじめられた。棒の先にケムシを付けたり、手の載せて、彼を追い回した。
彼の子供二人と、うちの子供二人が同じ幼稚園に通っていたので、その頃改めて家族同士で付き合っていたが、そのガマ公も昨年鬼籍に入ってしまった。

天然スレートの鏃・小刀づくり 170522 170606
松林の中のたてものか、総長邸か、具体的には忘れてしまったが、ともかく屋根が天然スレートで葺かれた建物がキャンパスにあり、その補修用の天然スレート板が、400メートルトラック(ラグビー場)の南側のドングリの林の中に保管されていた。悪いやつがいて、それをどうやってかみつけてきて、それで遊ぶのが流行った。
我々としては学校で習った、新石器時代の復習のつもりではないが、天然スレートの破片を持ってきて、硬い石で削って、ナイフや鏃をつくって楽しんだ。
上手く割って小片にして、研げば、それなりにナイフなどになる。天然スレートは層状をなしていて、上手く力を配分して剥がすと、かなりの薄板を得られる。これ以上剥がせないほど0.何ミリかの薄板にしてその端を研ぐとかなり鋭利な(と言っても金属に比べれば大したことはないが)刃物をつくれる。この作業にもヒキ公が結構はまっていた様に記憶している。
割れてしまった破片を拾っているうちはどこからも文句が出なかったが、破片がなくなると、木の箱に保管している長方形のちゃんとした板を持ち出し石にたたきつけて割って、それを材料にして楽しんだ。皆でそれをやれば、どこからか話が伝わり、大切な学園の保管材料を何とすると怒られ、その遊びは消滅してしまった。大切な保管材料の割にはその保管方法がずさんだったような気はするが。天然スレートの性質はその時、身を以て感じ取ったことは確かである。

170113

今日は宇都宮

大谷石の組積造建物の耐震補強のガイドラインについて
大谷石の実験
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そして会議

宿舎のあった敷地の切り株
何の木があっただろう
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昼は久しぶりに長尾

池袋駅で、
座り込む男
無関心な駅員
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昨日の花
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青いレモン 013 小学校の遊び 2 170522
うちの学校のよいところは、小学校から大学まで同じキャンパスで、しかも小学生が一番大きな顔ができたことだ。何で大きな顔ができたかというと、私立の教育の根本をたたき込まれるのは小学校で、その後中高と外から人が入ってくるが、純血なのは我々だと自負していたところがある。駅と学校の間は歩かなければいけない(現在は繁華街になって教育上よくないことも多いというので、バスに乗らなくてはいけないことになってしまった)
のだが、病気だったりすると許可を貰ってバスに乗れる。大学生などにちゃんとならばなどと命令するのは小学生で、大学生も渋々云うことを聞いた。

松林の薄の家つくり 170522
高校・大学キャンパスを自由に遊び場に使えることから随分楽しい思いをさせて貰った。赤土の滑り台ばかりではない。今のように校舎が建て込んでいるわけではない。先生の目の届かないところなど一杯ある。北側の外れにある松林もその一つだ、松が生えているから松林なのだが、その名称で、学園内の誰もがちゃんと位置を特定できた。ついでに云えば、中学校の敷地は一度西門を出て、欅並木を数十メートル北に進んだところの入り口から入るから一寸離れているが、その中学校の敷地に隣接して、林園がある。こちらも名前の通り樹木の生い茂った緑地である。先日一寸入ってみたが、木が大きくなりすぎ、暗い感じで、下草が生長できない状態になっていた。それはともかく、敷地内にほとんど手つかずの林があり、適当に起伏があり、夏は薄が生い茂る。小枝などいくらでも手に入る。小枝と云っても太さ数センチで、長さ数メートル。ヒキ公と二人で、これを組み立てそこに、このススキをナイフで刈って覆いを掛けて、小屋を作る。何度か繰り返してつくった覚えがある。最初のものは、向こうが透けて見えて、空間を作った感じがなかった。最後に作ったものは二人が楽に入れて、ほぼ真っ暗になり窓を開ける必要があった。確か、日曜日に二人で出てきて作業を完成させたことがあった。その時ヒキ公の持ってきたお弁当のサンドイッチバターに砂糖を混ぜて塗ってあった。初めて食べて感動したのを覚えている。
因みにヒキ公のオヤジは結構名の知れた建築家、僕は後に建築を目指すことになる。こんなことが薄の小屋づくりと関係しているかも知れない。松林の中にいれば、人目には付かないのだが、下校時刻は割合ちゃんと守った。時には給食を食べる食堂の台所に顔を出すと、おばさんが、コッペパンにジャムかマーガリンを塗って渡してくれた。
実の大らかな時代である。
あの頃、昭和二〇年代後半か。年に一二回は大雪が降った。不思議に休校にはほとんど成らなかったし電車も止まらなかった。雪が降れば雪合戦である。男女共学であるから雪合戦も一緒にやる。ひとクラスに5,6人の女の子は強い。泣き顔など見たことはない。ただ、大人になっても世の中、男性が多いと勘違いが続いて相手を見つけるのに苦労する人が多かったとか。それはともかく白一面の松林の中で雪合戦、夢中になっているうちにシンチャンがどさっと穴に落ちたら、そこは石炭ストーブのすすを捨てている穴名で、洋服に雪をつけそこにすすが付いて、凄まじい格好になった。先生が対応してくれたのだと思うが、遊んでいた仲間たちはただただ笑うばかり。

170112

今日もよい天気だ
日本海側は今期最強の寒波に見舞われているようだ
北海道、札幌も最低温度はマイナス10℃近く、
積雪も多く雪も重たく雪搔きがたいへんだと云うことだ。
飛行機に遅れは出てないのだろうか?

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格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

切り妻飾り
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広くなったり狭くなったりする道
もう何十年も続いている
でもなかなかいいものだと思うのは
私だけだろうか?
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郵政宿舎
やはりどこか違うと思っていた
さすが
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野方の豪邸
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川に枝をしだれさせていたサクラ
苦情が出たのか太い枝がばっさり、
切り口はちゃんと処理してあるように見える
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とにかく根元から切られずによかった
保護樹木の欅が切られたこともあるし、
また枝をのばして欲しい
でもあの風情が戻るまではなかなか生きていられそうもない
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花が咲いている写真は2016年4月3日のもの
未だ一年経っていない


小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
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本代は不要。
勿論一冊で良いのですが、
誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

今日の花
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青いレモン 012 小学校の遊び 1 170522
年とともに変わる遊び、順序は忘れてしまった。
おはじきやお手玉などが流行ったこともある。
共学のおかげだ。

水雷艦長:授業の合間の十分の休み時間も利用して実によくやった。僕は何時もつばが横だった。水雷は足が速くないからすぐ捉まって面白くなかった。
缶蹴り:
飛び馬
鉄独楽:肉の厚い鉄の輪の付いた独楽を投げて止まるとまた投げる。相手の独楽とぶつかってはじき飛ばす。
相手の独楽の上に叩き落とすことを「かっぽる」という。かっぽられると独楽の木部に独楽の心のめり込んで傷が付く。やられるのもしゃくに障るが独楽に貫禄が付く。
安定して長時間回転が保てるように重心を低くする。鉄心を削ったり、打ち込んで鉄心の下側を短くしたり工夫した。また自分の独楽だと云うことを誇示するために木の部分に色を塗った。ベイゴマは独楽を取り合うが、鉄独楽はベイゴマに比べると高いので取り合いはしない。
独楽の大きさもいろいろあって、大きいものは直径10センチくらいか結構重たい、ひもを巻いて投げるのだが、巻き方が悪いとずっぽぬける。重たい鉄ごまが飛んでくると怖い。
危険だと問題になったが、怪我したものは誰も居なかった。時々見に来る先生の方が怖くなって、人がいる方に投げるなとかいろいろ五月蠅くなってきてそのうち廃れてしまった。
小学校の遊びとして、結構気に入った遊びの一つだった。

あと、芯が細く手の上に載せて遊ぶ独楽も流行った。これは鉄独楽とはひもも違うし、巻く向きが逆だった。これが流行ったとき、いえでその独楽を見つけたうちの祖父が、昔やったと腕前を披露した。さすがに綱渡りとか高等技術はなかなか上手くいかなかったが、昔取った杵柄で様々な遊び方を披露してくれた。

野球ぐらいしか皆で楽しむスポーツがない時代。低学年のうちは、グローブもないから、ゴムボールのゴロベースだの三角ベースだのが主だった。何も分からず「ファールで走るは****人」などと今聞いたらすぐさま問題になるようなことを大声でわめきながら遊んでいた。

グローブなどが手に入るようになると、軟式ボールを使った野球が一般的になってきたが、家に帰ると近くの同級生とキャッチボールを楽しんだ。近くにはオニコウ、ガコが住んでいて彼らとはよく我が家の前の道でキャチボールを楽しんだ、元々才能というか運動神経がないので、様にならない、相手が取れっこないようなボールを投げて、ごめんと謝ってばかりいた。

赤土の滑り台、学校の正門の近くに防空壕の覆いなのかよく覚えてないが、高さ3~4メートルぐらいの赤土の小山があって、雨上がりなど、赤土は天然の滑り台になった。拾った紙切れやハンカチなどを敷いて滑るのが面白い、そのうち制服のズボンが赤土でべっとりになる。
まあ適当なところで、飽きて帰るのだが、そのまま電車に乗ると白い目で見られる。さすがに座席には座れない。家に帰ればどうしたのと云うことになるが、諦めていたのか不思議とそれほど怒られた記憶はない。

170111

今日も晴天
何故かそれほど寒さは感じない
体が寒さに慣れてきたせいかも知れない。

駅北口にて
商店街の脇道とさらに脇道の木賃アパート
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踏切脇の文房具屋さん
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今日の夜の窓
昔のイランの旗に一寸似ていた
メキシコの方の住まいかな
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今日の花
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青いレモン 011 小学校 170521
今でこそ凝縮されて、小学区の6年間はあっと言う間のように思えるし、細かくは覚えていない。しかし小学校の6年間に学んだことと云うのは膨大な情報量を持っている。
小学校の1年は当時本館の呼ばれていた木造2階建ての小学校の校舎らしい建物に入っていた。2年生の時は平屋のベランダ付きの最新の教育理念に基づく吉武さん設計の校舎、3年の時は家庭科館と呼ばれていた木造2階建てで、外観が黒ずんだ木の下見板の建物で、4,5年はまた、平屋の建物に戻り、6年は1年で入った建物に戻ったように記憶している。
夏休みに入る時期に夏の学校が開かれた。一年の時は学校の校舎に泊まった。お昼寝の時間があり、大きな太鼓をたたいて、寝る時間と起きる時間を知らせるのだが、目をつぶってもそう簡単に眠れない。2年は箱根の芦ノ湖湖畔の寮、3年は千葉館山の波佐間寮、3000メートルくらいの遠泳をした。何年か前に事故があって生徒が亡くなり、遠泳もしなくなり、波佐間の寮も閉鎖されたとか。大学生になってから一度波佐間の寮に泊まりに行ったことがある。成蹊出身で、現役で大学に入学し、一年の時同じクラスになった佐久間君と二人だったと思うが、泊まりに来ていた別のグループの女の子が盲腸になり館山の街まで車で運搬した。急ぎたいのだが、砂利道で揺れると盲腸が痛むというので、そう飛ばせなかったのを覚えている。そうだあの頃は、地方に行くとそこら中に未舗装だった。4年は葉山の日影茶屋に泊まり、5年は何処だったか、もう一度箱根の寮に行ったような気もする。箱根権現まで、肝試しをした記憶があるが、2年生には一寸きついのではないかと思う。だから5年生?もう一度調べてみる。夏の学校は、それぞれの泊まる場所に合わせて歌が作られている。
6年は修学旅行で、常陸の常磐炭鉱から新潟の新津の油田、新潟では「くしせい」という結構名の知れた旅館に泊まった。日本の産業を支えていた油田や炭鉱を学習のために見に行ったわけだが今は閉じられてしまった。そういえばあの頃は捕鯨船も社会の教科書には必ず出ていた。

170110

いよいよ正月明けの観がある
天気も上々、蒼空が広がっている

郵便局
木の陰の家
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斜めの踏切横の道祖神
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梅の香りがほんのり
まだ暫くは楽しめそうだ
陽が沈むまで外で仕事
富士山が見える
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今日の花
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青いレモン 010 一丁目5番地 170521 170529
昭和20年3月20日戦災で明石町の家焼失
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赤坂氷川町の家にお世話になる。やはり被災? となると目黒の家は戦後と云うことになるが、それにしては目黒の家が何故あれほど立派だったのか分からない。
3月28日より中野の家にお世話になる。この間3月26日に僕にについていてくれた看護婦さんが帰国する。確か、国は鹿児島だと聞く。ニンジンを嫌いにならないように一生懸命食べさせてくれた人だと云うことだけ聞いて覚えているが。
人の家ばかりお世話になって入れないので、中野の家を足掛かりに中野区周辺で仮の家を探したらしい。鷺宮一丁目5番地(現在の若宮1-17-7)に入ってしばらくそこに住む。4月2日にこの家で初めて、オヤジのことを「トウチャン」と呼んでオヤジが飛び上がって喜んだと母のノートに記録されている。だから焼け出されてから十日そこそこの、4月の2日にはもうこの家に入っていた。人の世話になるのが嫌な祖父らしい。
その頃からなんとなく朧気な記憶ができはじめる。この平屋の中廊下の家で造りは東西逆だが、今の我が家と似ている。中廊下の真ん中辺りの鴨居の上に直径3センチぐらいの小さな赤い豆電球が夜になると点いていた。この鷺宮1-5の廊下の電灯が僕の初記憶かも知れない。
そこからすぐ南に50メール位歩いたところに家を売りたい人が居て、少し広いそこの家にに引っ越しをすることになる。引っ越したの5月10日だから焼け出されて、約50日である。一丁目5番地の家は会社の番頭さんが住むことになる。引っ越しした家を売って下さったのは九州出身の西村さんという方で、東京が怖いから九州に帰りたいと手放される決心をされたらしい。しかし西村さんの九州の家は本当に戦争の終わりの終わりに戦火で燃えてしまったと云うことで、戦時中に運べなかったので置いていかれたピアノを取りに来られ、残ったのはこれだけですよと云われていた。その時、母の頭のピンを借りてピアノの蓋を開けて鍵盤をたたかれたのも覚えている。これが生まれた初めて意識して聞いたピアノの音である。
祖父はあくまで、この新たに買った家にも満足できずにかなり長い間、清水組が建てた家のあった明石町に帰るつもりであったようだ。
一丁目5番地の家に住むことになった番頭さんだが、奥さんが、七夕の頃となると庭の竹を切って持ってきてくれるなど、後々まで私をとても大切にしてくれた。後妻さんだということであったが私は先妻の方は全く知らない。また、息子さん方が大きくなるに従って、手狭になったようで、2階を増築し綺麗に住まわれている。
10年ぐらい後の話だが、そこには息子さんが二人居て、弟さんに、玄関を入ってすぐ北側の和室で、鉱石ラジオの作り方の手ほどきを受けた。多分オヤジが無理を言って頼んだのだろうと思う。幾つ年上だったのかは正確には分からないが、コードの被覆のはがし方、半田付けのこつから、何故、ラジオが聞こえるかなど分かりやすく説明してくれて、鉱石ラジオから始まって、3球スーパーぐらいまで一人で鳴らせるようになった。蛇足を承知で云えば、3球とは真空管3本を使ったもので、市販品の高級ラジオが5球。6球であった。
ラジオづくりの工作は、はじめは、キッドを買ってきて、説明書通りに組み立てていたのだが、それでは面白くないと、その頃はやっていたラジオづくりの雑誌を見ながら、秋葉原などに行って部品を買い込み組み立てをした。ちょうど小ぶりの真空管が出だした頃であったが、その後どんどん小型化しやがてトランジスターに置き換えられてしまう。軽薄短小の時代のちょうど始まろうとしていた時期だった。私自身は音が聞こえるとそれで満足で、音質などを云々することはなかったし、やがて解体し次のラジオの部品に当てていた。しかしスイッチを入れてもはじめはウンともスンとも云わず、いろいろ工夫して初めて音が出たときのうれしさは何とも言えない。
番頭さんは大分前に亡くなられ、また、ラジオづくりを教えてくれた弟さんも早く亡くなられた。そのお兄さんの方は父親の後を継いで、会社に入り定年退職し現在もお元気に暮らしておられる。

170109

昨日に引き続いて雨
松本は雪らしい

雨は午前中で止み、
午後から陽が射してきた
またしばらく晴れの日が続きそうだが、
なかなかたいへんだ

袋小路の奥に初めて見る住宅、
そのすぐ脇にも袋小路があって、
南側に広い空き地、その向こうに大きな木のある家
そこに行き着けない
そこには南側からの袋小路のようなアプローチで入るしかない
不思議な一角だ
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近くの住宅まだ健在
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幼稚園まで足を伸ばす
片道2110歩だった
往復4000歩以上ある
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幼稚園の近くで
杉並の屋敷林と長屋門
一寸離れて趣の違う入り口
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今日の夜の窓
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青いレモン 009 ヨッチン 170521 170529
今でも同じだが、私立の小学校に入るためには受験がある。合格を確実にするために、その学校の先生に指導を受けるのがよい。オヤジは何処で聞き込んできたのか知らないが、吉虎という受験先の名物先生を探し出してきた。しばらくの間、その先生の自宅に通うことになった。場所は目指す小学校から数百メートルのところ。半年通ったか、一年通ったかは定かでないが、とにかくいろいろ教えて貰った。試験当日かなり近いものがでたように記憶している。吉虎先生がよかったのは、ただ覚え込ませるのではなく、よく考えて合理的に判断することが大切なのだと教えてくれたことだと思う。具体的には覚えてないが今になって思うとそういう印象が強い。
ところで、吉虎先生には何人か息子が居て、末の息子が私と同じ年だった。先生は数人の同じような受験生を教えていていたようだが、待ち時間や終わった後、その息子と遊んだ。当時まだ夢の存在だったアメリカの車の写真を雑誌などから切り抜いてノートに並べて張ったりかなり意気投合して時間を過ごした。目出度く二人とも目指す小学校に入った。と言っても当時は先生の息子はフリーパスで入学させていたようだ。それはともかく、入学後、学年、東・西・南と3クラスある南組で一緒になった。このクラスは、卒業まで6年間クラス替えがなかった。クラス担任は星野先生。我々はクラス替えがない最後の学年で、次の学年からは3年でクラス替えを行うようになった。
彼はみんなから「ヨッチン」と呼ばれるようになった。就学前のそういう付き合いもあったからか学芸会では二人で共同の紙芝居などつくったりしていた。中高と進み、二人とも浪人し、同じ予備校に通った。現役で入った仲間とも会って、酒を飲むのも一緒だった。1年後、それぞれ希望校に入り卒業した。私は大学に残り、彼は東京産業という会社に就職した。みんなから「トウサン」、「倒産」といってからかわれた。結局会社は倒産しなかったが、数年で退社し、オヤジの後を継いで、母校の中学校の教員に成った。悪いことはないのだが、家と学校が近すぎ、活動範囲が狭すぎだと仲間にからかわれていた。そのせいかどうか分からないが、最近一寸ボケがひどくてと言っていたが大丈夫だろうか。そのヨッチンが漆原さんに次いで、二番目に長い友達である。

170108

曇り空
後ほど雨らしい

葬儀、告別式、初七日法要、納棺、葬祭場、精進落とし
花いっぱいのお別れ
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名が消えたがDNAがみごとに残った

天気予報はしっかり当たり帰る頃には本降りになっていました。
雪で無くてよかった。

今日はでられなかった中野たてもの応援団のまちあるきは
雨の降り出す前に終了できたようだ。

青いレモン 008 幼稚園の友達 170521 170529
幼稚園の友達で、一番よく覚えているのが岡野学ぶちゃんで、家が、帰り道のタバコ屋さんのすぐ南にあった。親同士が、小学校を受験させると云うことで、付き合っていたので特に親しかったのかも知れない。コップを描くときに子供は、飲み口は楕円に描くけれども底は直線で描くことが多い、小学校の試験では底も楕円に描くことが一つのチェックポイントだ、などという話をお茶を飲みながら先生風の女性から聞いたのも岡野君のうちの庭での話だった。何故か其の場面は一枚の絵としてはっきり記憶に残っているが、人の顔は消えている。
西洋の透視図的な見方からすれば、確かにそうなのだが、人間のものに対する認識を考えると、子供の素直な見方も捨てたものではないとも最近考えるのだが、当時は素直に成る程と思った。岡野君は確か優秀で、学芸大学付属の小学校に進んだ。僕は吉祥寺の私立に入った。
幼稚園が終わって岡野君のうちはどこかへ引っ越していった。聞いたかも知れないが何処へ引っ越したか全く記憶がない。
それでも、お互いに小学生になってしばらく経ってから、岡野君が一度だけうちに遊びに来たことがある。現在、車が置いてあるところに数本の植木があって、ドッジボールの球を投げてその梢の隙間に投げ入れて、遊んだことが印象に残っているが、岡野君とはそれきりになった。数本の植木が在ったところは、その後、車置き場になった。
幼稚園で遊んだ仲間に、松丸君という肉屋の息子が居た、早稲田通りに面した肉屋で、店はかなり後まであったが、そのうち無くなった。松丸君は肉屋を継がなかったのかも知れない。この松丸君は結構なガキ大将だったような記憶がある。
岡野君の家は、妙正寺川に向かった下り坂の細い袋小路に面していたが、その表側に靴クリームの会社があり、そこの尾崎君も名前だけは覚えている。多分方向が一緒だから帰り道一緒に帰ったのかも知れないが全くという程、顔は覚えていない。
あともう一人、幼稚園にいたときは、女の子だったということもあり、一緒に遊ばなかったので全く印象はないのだが、小学校が同じ漆原さんが居る。中高とも同じ学校だったので、その後も同窓会の時などに会うことがある。正味70年の付き合いである。

170107

天気は相変わらずよいが寒さは一段と厳しくなってきたような気がする
世の中が次第に変わるのはよいとして、
急激に変わると社会の通念や制度が追従できずに生活に歪みが生じる

荷台の工夫
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塀と門
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今日はお通夜
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今日の花
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青いレモン 007 幼稚園のことなど 170521 170529
幼稚園、当時、鷺宮(現在の若宮)の辺りは、まだ田圃の風情が残っていて、空き地や畑が多く、住宅の敷地も余裕があって緑が多かった。人口も少なく、幼稚園など数も少ない。それでいながら人口は急激に増えてきて、子供の数も多くなり、近くの幼稚園には入れなかった。片道おとなの足で2000歩をこえる隣の区の幼稚園に入った。毎朝オヤジが、幼稚園まで送ってくれた。幼稚園を少し南にいくと早稲田通り(当時の道路名?)に出る。バスが走っており、それに乗って会社にむかった。今はない木炭バスである。バスの後ろに円筒形の釜が着いていて、煙突から煙を吐いて走る。
帰りの時間は、会社があるからオヤジが迎えに来ることはできない。家と幼稚園のちょうど中間地点にタバコ屋さんがあり、そこまで友達と一緒に帰ってくる、そこで待っていると誰かが迎えに来てくれて一緒に帰るというシステムを親が作ってくれた。
幼稚園の中での生活は、あまりはっきりは覚えていないが、はじめの数ヶ月は温和しく、砂場の隅で一人でぼそっと小さなスコップを持って立っていたそうだが、半年程経つと悪友もできかなり活発に遊び回っていたという。本人はあまりよく覚えていない。
キリスト教系の幼稚園で、クリスマスお楽しみ会(今で云うイベント)が行われ、何か劇をやることになった。何の劇だか覚えていないが、キリストにちなんだ劇だったと思う。何故か赤いマントを着けた王様にさせられた。何人か王様になりたい希望者が居て、というよりは息子に王様をやらせたい親が居て、私はできれば成りたくなかったのだが、何故か今井先生というおばあちゃんの園長先生が、積極的で、結局、王様にさせられて短い台詞をつぶやいた。その頃から遊び相手もでき外から見ていた親は一寸安心したのだそうだ。
登園拒否とか登校拒否の記憶はないが、一度だけ何かのことで、オヤジに怒られて、家の片隅の砂場を潰すといわれ、泣きながら、トウモロコシの根っ子の付いた茎を持ってオヤジに向かっていったことがある。確かその日は幼稚園を休んだ。

何故か幼稚園が早く終わりタバコ屋さんまで帰ってきたが誰も迎えに来ていなかったので、一人で帰ろうと歩き出し、大分歩い後ろにタバコ屋さんも見えなくなった頃、急になんとなく不安になり、走って家まで帰ったのはよかったが、家に着いてら涙が出てきた。

このタバコ屋さんで、オヤジはたばこを買っていた。後にはショートホープになったが、その前は缶入りのピースだったが、戦後すぐの頃は、配給される刻みと紙をブリキ箱に二本の木のローラーが着いた簡単な装置で紙巻きたばこを作り吸っていた。ゴールデンバットの時期もあったような気がするが、ピースが手に入らないときだけ間に合わせで吸っていたのかも知れない。朝から晩まで常にたばこをくわえていた。勿論、少し出っぱな歯は脂だらけであった。
ずうっと後になってからだが、オヤジは総入れ歯にした。友達の歯医者の友情かも知れないし、歯科学的にその方がよいのかも知れないが、何か普通の顔になってオヤジらしくなくなってしまったと思ったのを覚えている。

オヤジの友達の歯医者は、鶴見の吉田さんと池ノ上の戸田さんで、私はこどもの頃、よく虫歯になり、両方の歯医者に通ったが、学校に行くようになってからは近くの戸田さんになった。吉田さんも戸田さんもアメリカの大学を出た先生で、私が結婚して暫くした頃、年で医者をやめられ間もなく亡くなられた。知人に新しい歯医者を紹介して貰ったのは大学に勤めるようになってからである。

蛇足:鶴見の吉田先生の息子は大学の応援団の団長だった。今でも年賀状のやりとりはつづいている。

170106

今日もピー缶
やはりそこそこ寒い
日曜日は雨だとは信じられないが、
この頃の天気予報はよく当たる

今日は今年初のイッキン会
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なかなか一人前の高齢者にしてもらえない
成りたいわけではないけれど
昔は60歳で結構いい年寄り、
現在でも世界中が65歳とだいたい認めている
それが日本では高齢化が進み、高齢者を前期と後期をわけることにした
65歳から高齢者で、75歳で区切って、前期、後期となった
つまり75歳まではたいした高齢者ではないということである
さらに、もっとはっきり
65歳から75歳になるまでは準高齢者で、高齢者とは言えないことにする
75歳になるとやっと高齢者にしてもらえることになりそうである
しかし75歳になる頃には高齢者は80になっているかも知れない
別にどうでもよい話

ついでにどうでもよい話をもう一つ
シルバーシートに座りたいわけではないが、
いったい何時になったら気兼ねなく座れるようになるのだろうか
高齢化と追いかけっこをして、
これも何時になってもだめなのではないかと思ってしまう。
良いことなのか悪いことなのか。

高齢化とは全く関係ないが
それにしても共謀&罪は不気味だな
また説明不足のまま通そうという腹なんだろうけど
世の中が何も騒がないのがまた不気味である

今日の花
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青いレモン 006 結婚式にくっついていく 170522
どういう経緯からそうなったまったく不確かなのだが、ふくちゃんの身内に、お兄さんだったと思うが、結婚式があるから何日かくにに帰るという、僕について来ないかと私の両親にもちかける。あまり気の進まない両親と掛け合って、いろいろやっているうちに、それも勉強だから行って来いということになった。
往復の汽車のことはなぜか全く覚えていない。頭の中では、ワープして、突然、福島のふくちゃんの家に飛び込んでしまっている。伝統的な日本家屋。襖・障子を取り払えば可成り大きな空間ができる。そこで結婚式が行われ、その間黙って座っていたように記憶している。式が終わってから披露宴が二晩続けて催された。二日目の昼間は暇だから、家の子供たち、親戚のこども、近所の友達が集まってきて遊びに連れ出してくれた。周りは自然がいっぱい赤土の段差を掘ると化石が出てきた。子供たちは確信をもって化石だという。今でも本箱の片隅にその化石が置いてある。小学校の夏の学校に行く以外、家族以外と旅行することがなかったためかわずか二泊三日の福島への小旅行は私の中で貴重な思い出となっている。当時小さなカメラを持っていた。何故カメラを持っていたかというと朧気な記憶によれば、たまたまグリコの景品のカードを集めて応募したら当たったものだったと思う。フイルムはパトローネに入っていないものを使用していた。子供たちみんなで遊んでいる姿が逆光の中でも結構よく写っていてその写真があるから記憶にはっきり残されているのかも知れない。もちろんその頃はバカチョンカメラではないから、絞りと、露光時間を決めて写さなければならなかった。しかし晴れの時はこのくらい、曇りだったらこのくらいと決まっていてそれで十分に撮れた。無事、結婚式の催しも終わって家に帰りついて、この旅行のことは私の頭の中の特別室に思い出として納められた。


170105

今日もよい天気
寒い
午後から結構風が出てきた

溜め池はどうもこの五叉路の辺にあったと考えられる
右奥に流れ
続きの2枚の写真のところを通って
川に注いでいたようだ
しかし最後が分からない
注いでいた川が、今はなくなっているから
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面白い入り口
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計画道路(都道)工事による建て直し
昔の壁の色を残し、
昔の屋根の瓦を使った勾配屋根としている
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この家も近々に建て直しか
こういうの結構好きなんだけれど
南側の建物を建てる前に、
古い建物が解体され、一瞬南側の空き地から写真を撮るチャンスがあったが、
暗くて次と考えていたら工事用のシートが貼られてしまった。
数十年も計画道路でほっぽって置かれ無ければ
この家だって、
違った結果になったのではないだろうか
確か昔は文房具屋だった記憶がある
切手を扱っていて、
脇にポストがあった
そのポストが現在地域活動センターのところに移された
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道路が広がることで、そんな歴史が消えてしまうんだ。

今日の花(葉っぱかも知れない)
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青いレモン 005 書生さん 170519 170521 170527 170528
夏目漱石や森鴎外の小説には、書生の話が出てくる。古い住宅の保存のに携わっていると、間取りの中に女中部屋や書生部屋が出てくる。小学校のころまで、家の西側に4畳に押し入れのついた部屋があり、いわゆる書生さんがいた。部屋の西側は裏庭になっていて、南半分は野菜などを作っていた。北半分は孟宗竹が生えていたが、竹の猛威はそれほど記憶にない。七夕の時に竹の枝に短冊や網に切った折り紙を下げた。
書生部屋の住人は、祖父の会社に勤めている若い人で、会社の休みの日や、朝晩、雑用もしてくれたようだが、遊んでもらった記憶のほうが強い。私は小さかったので、書生さんの部屋に自由に出入りしていた。昼間、留守の間に遊びに入って、友達とかくれんぼでもしいたのかも知れないが、押し入れに潜り込んでごそごそやっているうちに、マーキロ、いわゆる赤チンのふたが外れて、外したのかもしれないが、とにかく衣類に赤チンが見事に付いてしまった。
親には自分で申告したのか、黙っていてばれたのか覚えていないが、勝手に他人の押し入れまで入って悪さをしてとかなりこっぴどく怒られた。
その書生さんであったHさんは、そのまま会社に勤めて取締役になった。ついでに言えば、祖父は店(今の会社)に丁稚で入り、長男が生まれて間もなく亡くなり、あとを継いだ次男も若くして夜を去ったため、我が家に養子に入り、店を継いだ。だから、祖父や父にとっては書生がいることは何ら不自然でなかったといえる。
重役になってからも母は頼りにして、いろいろ頼みごとをしていた。母が牡丹が好きなことを知っていたので、故郷の須賀川から牡丹の苗を取り寄せて庭に植えてくれた。一度はどうしてもと、出不精な母を誘って、須賀川の牡丹園を案内してくれた。何十年経ってもたまに会うと赤チンの話はが話題になった。そのHさんは、可成りの酒飲みであったと聞くが、定年退職後、数年して、体を壊され亡くなられた。
子供だったから聞かされてはいなかったが、今にして思えばHさんも福島出身で、Hさんのお兄さんは須賀川の目抜き通りで呉服屋さんをやられていたと聞くから、ふくちゃんも福島出身と云うことを考えてみると、そのお兄さんの世話だったのではないだろうか。
その頃まで、女中さん、いやお手伝いさんは、職業斡旋所で世話した貰うのではなく、知り合いのツテで、身元のしっかりした人を世話して貰っていた。何かあった場合はその知り合いの責任になったが、それだけにこれはと思う人を紹介してもらえた。今はない旧態依然とした社会がその頃まで残っていた。しまちゃんはふくちゃんのつながりだったと思う。最後にきてくれた、とくちゃんは、母のメモを見ると斡旋所で世話をして貰ったと書いてある。
それからもうひとつ付け加えておかなければならない。我が家が火事で、二階が燃えて、放水だけでなく、2階の水道栓が壊れたのに気付くのが遅く、1階が水浸しになった後、既に重役になっていたHさんは家族総出で片づけに来てくれた。涙が出るほどうれしかったのを覚えている。

Hさんとは別の話だが、確か「えいさん」と呼ばれていた力仕事をするキン肉マンのような男性が時々仕事をしに来ていた。明石町からのつながりだと思うがよくは覚えていない。アル中だったらしく家の仕事の関係で手に入るエチルアルコールが目的だったようだ。透明の瓶に入った透明の液体を伏し拝んで受け取っていた。力仕事をして、アルコールを少し飲んで裏の地べたで褌一つで、大の字になっていびきをかいて寝てしまう。祖母はいやだねと云いながら気にしていなかったが、母は気持ち悪がっていた。私などこどもが近くで仕事を見ていて邪魔になると「ちょんめ!」と怒ったが声は意外と優しかった。
ほかには、今で云う整体の様なことをする柴田さんという人が出入りしていた。
そのほか、小さかった頃よく押し売りが来た。勝手口から入ってきて、座り込み、ゴム紐などを売る付ける。買わないと何時までもいる。沢山買えばつけあがったまた来る。ケチと思われるほど少しだけ買うのがこつのようで、それも、どこからいつ引き上げてきたとか、どこの監獄を三日前に出てきたのなどと云う説明を嘘だと分かっていても一通り聞くことになる。

170104

三が日が明けて、
今日からスタート
といってもあまり変わらない
相変わらずよい天気だ

ギャングどもが帰った
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卒業生が来た
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今日の花
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青いレモン 004 母親付きの女中さん 170519
ものごころ付くようになってから、母のところに戦前母に付いていた女中さんが訪ねてくるようになった。母に付いていた人だけではないかも知れない。一人だったり、数人連絡を取り合って一緒に訪ねてくることもあった。少し世の中が落ち着いてきた昭和二十年代の中頃からではないだろうか。そのうち年齢のせいもあったり、それぞれ忙しくなったりで縁遠く成ってしまったようだ。それでも母の入院の前後に亘っていると思うので、十年ぐらいは続いたように思う。母が亡くなったときにお悔やみに来てくれた人も居て、絆の強さが感じ取れた。子供の興味を引くような話はなかったから、話の内容は覚えていないが、昔話や今の境遇などを1、2時間話して帰っていったみたいである。
一人は確か船橋辺りに住んでいたように記憶している。その人かどうかはわからないが、その何人かの中に「ふみや」(本名 土谷フミ)と呼んでいた女性がいて、盛んに母に私の家にも遊びに来て下さいと誘っていた。出不精な母はその度に断っていたが、そこで皆で集まることになって、何を着て行こうかとか何を持って行こうかなどとぶつぶつ言った挙句に出かけていった。母とすると、もう少し格好をつけたかったようだが、そうもいかず次第に戦前が遠のいて行った感が小さい私にも感じ取れた。

170103

今日もよい天気だ
1月3日はオヤジの誕生日だった。

白鷺の茅葺き民家
緑の集合体
植物と土、その影響は広い範囲に及んでいるはず
少なくとも記録だけは取っておく必要があるなどなど
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今年のUFO
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トルコでまたテロ
シリアにおけるアメリカとロシアの政策の違いが収束を遅らせている
分かっていてもどうにもならないことなのか
国際的な努力が足らないのか

今日の花
枇杷その他、水仙など
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青いレモン 003 170519
その次にいたのは、「せんや」だったと思う。少し下ぶくれで、ガッチリした体格。祖父も元気だった頃で写真も残っている。
本名があるのに呼び名を決めてそれで呼ぶなどまだ戦前の習慣が抜けてなかった時代のなごりである。「せんや」がいたころ従兄弟の敏之兄さんが通学のため我が家の2階に居候していた。学習院の高校に通っていたのだが、家が藤沢の六会だったので目白に近い我が家が役に立った。悪い年頃で、うちのオフクロも何かと苦労したようだが、私としてはいろいろ遊んでもらった記憶がある。戦後間もないころで、軍艦や飛行機、あるいは島につくった要塞の断面図などの絵を、時間があるとせがんで描いてもらった。
「せんや」がお嫁に行き、その次に来たのが「ふくちゃん」で、福島出身であった。その頃もう一人、やはり福島出身の小柄な人が来て、「しまちゃん」と呼んでいた。福島県出身の二人だからであるが、多分、家に居た書生さんが福島の須賀川の出身で、そのお世話できてくれたのだと記憶している。
「ふくちゃん」と「しまちゃん」は特技があって、声を出さずに唇だけ動かしそれを見てはなしをする。目の前でひそひそ話をされているようなもので、あまり気分がよいものではない。教えて貰ったが、なかなか上手く読み取れない。方言がそれに合うようにできているのではないかと解釈した。方言と云えば、彼女らはよく「げばり」と言った。聞いてみると「外聞悪い」がなまったものらしい。お客さんなど、挨拶で話していて、褒められすぎたりすると「げばり」というので何だろうと思うらしく首をかしげていた。



170102

今日もピー缶
冬休みの宿題の残りを何としてもやって仕舞いたい。

今日の上弦の月
隣に金星?をお供に浮かんでいる
1時間その位置関係はほとんど変わらず
そんなものなのかな?
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高円寺、さすがに駅前は明るいが、少し駅から離れると閑散として静かなものだ
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お伊勢の森まで歩いて方向転換して帰る
170102-03.jpg お伊勢の森公園(杉並区)

1世代前の最後の親戚(祖母の妹の娘)が亡くなった
95歳 大往生

青いレモン 002  170519
我が家にいた女中さんのことで、存在をなんとなく覚えているのは「せいや」である。今の家に引っ越してきてから来た人だと思う。昔の焼け出される前の家とのつながりは聞いていない。
多分、焼け出されてから落ち着くまでは人を雇うどころではなかったと思うし、それぞれの家の都合もあって、前からいた人たちは暇を取ったのだと思う。今時あまり聞かないが、奉公人が自分から仕事をやめることを暇を取るという。それから、今では女中さんというと怒られるが、ごく普通の言い方だったし、呼び方がけしからんという話が出てきた頃までは、女中さんというのは決して相手を差別する(当時は差別という言葉は使われなかったと思う。貶める、侮辱するでもなかった)言葉ではなく寧ろ殿中のお女中から来た言葉だという意見も聞かれたぐらいだ。しかし雇用形態が旧態依然としていたこともあり、結局、使えなくなり、お手伝いさんと呼ぶようになった。でも、お手伝いさんはお仕事だけの臭いがして、家族的なつながりがなくなり空々しい語感がある。
この「せいや」については、姿形がぼんやりとイメージできるが定かではない。割合ほっそりとしていて、なんとなく垢抜けて身ぎれいな感じだったような気がする。
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