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160530

今日で5月も終わり。
昨日の雨はあがった。
青空は出ていない。
気温はそれほど高くないが蚊がだいぶ出てきた。

中野たてもの応援団の地図つくりの練習。
夕方から中野たてもの応援団の定例会。
シンプルな門・アプローチ、蔦に絡みとられた自転車、緑の下見にガラリ戸、マップづくりの今日の成果。
お疲れ様。
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自分で買った本ではないが、福田和也著 「人間の器量」 新潮新書 を読んでみた。
自分よりも年上の著者ではないかと思って読んでいたら15歳以上若い。だから自分たちの時代は良かったという視点で書いているのではないと考えられ、その意味で興味を持って読んだ。人間の器量という評価を発見をしたつもりで書いているのだと思う。我々の年代にとっては、当たり前のことだった評価が、取り立てて云う必要がある時代になってきたことに気付かされた。人の器量というのはなかなかデジタル化しにくい。何事も評価をデジタル化しないと気が済まない世の中になって、ふと気がつくと、大切な評価がなされていないことに気付いたのだろ。
そう思ってふり返ると、大学教員生活の終わりも近づいてきた頃に、講義の仕方や、成績の付け方など細かく評価する仕組みが導入された。それに合わせて、卒業設計や卒業論文などを多数の評価項目を設けて、教員各自が評価したものを合計してみた。その合計された評価はどうも無難なものが高くなるようで、これに対してどの教員も何か実感と合致しないと感じた。論文の方はまだしも、卒業設計となると出た結果に首をかしげてしまう。そこで、それらの項目とは別に総合的な視点も設けてみたが、今度は個々の項目と総合的視点のバランスをどう成績として評価するかがまた分からなくなる。
世の中の仕事も専門性を高くして、専門毎に独立し部外者の口出しを防ごうとする嫌いがある。個々の部分がいくら高度になっても世の中が良くなることに繋がるとは限らないが、そうすることで、多くの人間が食って行くことができるのかも知れない。無意識のうちにつくられた工夫ともいえる。
オタクをを集めて、闇の組織、独裁組織などの悪の巣窟に挑むアクション映画もなかなか面白いが、個々の人間の評価はオタク度だけで決めるわけにはなかなかいない。しかし時には極度のオタク度が総合評価を高める場合もあるから益々難しい。
この本の中にも、しょうの無い人間に近いのだが器量が大きいと評価されているものがいる。
人間の器量を人間の魅力と置き換えてみたときに、あちらこちらハチャメチャでもやっぱり魅力ある者がいることも確かだ。


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160530

朝から雨が降っている。
昨日で46年前の話も一段落。
まちあるきの下調べ。
意外と資料が無い。

JIA文化財修復塾のWeb会議
往き帰りとも霧雨が降っていたが傘不要。
千駄ヶ谷で。
160530-01.jpg トウカエデの根。

神宮前で。
カラフルなマンホール。
目の前を通りながら中をこの方向から覗いたのは始めて。
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何か書きたいが今日はお休み。

160529

5月のカレンダーは最後の一行になった。
この間ゴールデンウイークだと思っていたのに。

今日も良い天気だ。
朝方はそれほど暑くも無い。
昨日出かけたのでやり残した宿題をやり終えなければ。
宿題1:試験問題の作成
宿題2:タケノコ退治宿題3:門の開閉を十分にする。
1は秘密、3は色が落ち着くまで放っておく。
2については下の通り、
細かいものも入れると24本。
これからまだまだ出てくる。
去年は300本こえたと思う。
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川沿いの立葵
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公園にて。
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 「旅と車と私たち」
 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載

150 5/29もう5月も終わりに近づきました。テヘランで一人暮らしを始め、ランタンホテルからジェトロの事務所に通った季節。静かな裏通りの並木の新緑が綺麗でした。あれは何の木だったのだろう。瞬く間にあれから46年が過ぎました。今でも様々な場面が鮮明に目の前をよぎります。大通りの並木に散水していく薄汚れた黄色いロータリー車、灼熱の工事現場を並んでゆっくり動くクロームイエローのロードローラー。蒼空の中のテヘラン富士、カラジのダム。ランタンホテルのマネージャーの知人の住まい。日曜日にジェトロの事務所の窓から見えるエルブルス山脈。バンクメリーの輝き。トルココーヒーで占いをする女性。見渡す限りただ一人の土漠の道。ついに掛かったエンジンのうなり。夜の砂漠で見た星座。ヴァキリーの家族と行った夜の遊園地。チェロキャバブに添えられたまるごとのタマネギ。

大したことをしたわけでもありませんが、若かったせいもあり接した様々なことが非常に強く心に残っています。その後、何回も外国に行きましたが。この旅行ほど印象は深くありません。もう一度二人でテヘランを訪ねたみたいと思いますが、そうっと胸の中に仕舞っておく方が良いような気もします。

思い出してエピソードを気まぐれで書きたすかも知れません。それはともかく
全部読んで頂いた方はおられないだろうと思いますが、もしおられたれ感謝感激です。一部読んで頂いた方も有り難うございます。深く御礼申し上げます。<ではまたいずれ、おげんきで おしまい>t-524@outlook.jp 小西 敏正

160528

天気はぱっとしないが雨は降っていない。
イベントがあり横浜三渓園に行く。
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三渓園の石灯籠。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
149 5/28
この物語の冒頭、「2015年の6月12日に中古で買った車がきた。同じ車名だが、何か全て電子化されていて、昔の面影は殆どない。でもまた乗ってみようと思ったのも名前故であるから特に文句を言うつもりはない。いろいろな面でコンピュータ化されていて故障したらどうやって直すのだろうと思ってしまうが、見ず知らぬ国の見ず知らずの道を走るわけでもない。」と云うようなことを書いた。同じ車名というのはアルファー・ロメオである。
生まれて初めて乗り始めた車は1959年後期仕様の中古のフォルクスワーゲンだった。もう半世紀以上前に作られた車なんだとつくづくおもう。
走行距離が10万キロを十分にこえてパワーが少し落ちてきたため、車を世話して貰った梁瀬の友人と二人でエンジンのオーバーホールをやろうと云うことになった。彼の車はオースチンのセダンで僕はフォルクスワーゲンのカブトムシ。彼の親父さんがやっている白鬚橋の近くにある機械工場の片隅を借りて土日になると通って数ヶ月がかりでオーバーホールをした。勿論、梁瀬からの情報が役に立ちオーバーホールは大成功、ピストンリングもカムシャフトもバルブも換え、キャブは一回り大きいもの(1200ccから1500cc仕様のものに)に換えた。エキゾーストパイプの中もぴかぴかに磨いた。デストリビューターも工業機械にワーゲンのエンジンを使う時に用いる通称“マグネット”に換えた。発電機を内蔵しているので、エンジンはすぐ掛かるし、キーを切ってもマグネットの発電を止めないとエンジンは止まらない。バッテリーが弱くなっても押し掛けが楽に出来るので助かった。どのくらいすぐ掛かるかというと、平らな道で自分で押して飛び乗ってクラッチを繋ぐとエンジンが掛かる。
ともかく、購入した時よりもパワーアップし、その後、オーバーホールした時までの距離以上走らせ続けることができた。しかし、最後は幹線道路の立体交差を登るのがやっとに成り、後ろからダンプに大きなクラクションを鳴らされ続けたこともたびたびで、ついにドイツに頼んでも部品が入手できなくなってきた。ほぼ距離計は二回まわった。僕の車は何故かアメリカ向けの仕様だったので、スピードメーターも距離計もマイル表示だった。だから約1.6倍。当時の車としてはよく走った方だと思う。そのままにしていたがしばらくして廃車にした。それでも捨てきれず余裕が出来たらバギーにでも改良しようと(その頃、アメリカでは古いカブトムシをバギーにするのが流行っていて、マニアのマガジンまで売られていた。)とっておいたのだが、車の中は息子が友達と遊ぶ格好の場所になっており。やがて、内張を剥がしたり、メーターのガラスを割ったり、見るのも悲しくなってしまい、デリカのディーゼル車を購入した時に引き取って貰った。だからフォルクスワーゲンにはこだわりがあったが、本国にも部品が無くなるぐらい乗ったからもういいなとも思っていた。
そして、ちょっと迷っていた時に、僕たちの車、アルファー・ロメオが頭に浮かぶとすんなり決まった。車の名前の響きが懐かしい。かなりの中古であるが、今のところよく走ってくれる。でも調子悪くなっても今更オーバーホールをする元気もないし、今の車はコンピューターずくめで全く分からない。<つづく>

160527

雨がしとしと降っている。
もう梅雨かな?
梅雨前線はまだ天気図に現れていないようだが。
気象庁のページ、
風向風力の入った詳しい天気図をどうやって出すのか思い出せない。

西武線と環七の立体交差。
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ドクダミのアプローチというのも珍しい。
公園のロバ?
サボテン
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JIA中野地域会まちあるきのポスター掲示 6/4 東中野から青梅街道
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このグレープフルーツ、
上の枝から落ちてそのままバラのとげに刺さったのか?
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煉瓦塀の納まり。
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おすすめの本
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
148 5/27
書き残したこと。
イランで仕事をしていた間、彼女には毎日のように手紙を書いた。エアログラムをよく使った。エアログラムの字の書けるところを細かい字で埋め尽くした。彼女からもよく手紙が来た。一人で旅行していた時も手紙を書いたが、ダマスに滞在していた時以外は常に移動していたので一方通行になった。
イランにいる間、家にはそれほど書かなかったが、旅行中は時々手紙を書いた。
今のように携帯電話もなければメールもない。しかしそれも今考えるとなかなか良いものだと思う。無理すれば、国際電話は掛けられるのだが、時差もあり、ちょっと話してもかなり高額になるので全くといって良いほど利用しなかった。極地探検もアムンゼンの頃と、直接会話ができ位置情報を本国で常にチェックできる植村直己の時代ではかなり違いがある。確かにどこにいてもすぐ繋がるのは便利だが。今にして思えば手紙の時代もなかなか良かったと思う。オヤキトク スグカエレの時代、水杯の時代と、どこにいても繋がるというのはごくごく最近のことでしかない。
テヘランで工事監理中、現場に行くのに時々ヴァキリ-の車を借りた。テヘランの街はゆるい南斜面で帰りは下り道だ。交差点で左折をしたのだが、左側通行の要領で左折し、前方から来たタクシーともろにぶつかった。双方とも怪我もないのだが、車の前が潰れてラジエターが破損してしまった。タクシーはオレンジ色のペリカン(イラン製の車)だった。ヴァキリーの車はシトロエンの2CVの貨物車。前輪駆動のため、エンジンルームがかなりぎっしり詰まっていて、ファンベルトを取り替えるのにも大騒ぎする車なのだ。修理に結構時間が掛かり、いいよ、いいよといってはくれたが、ヴァキリーにかなり迷惑を掛けてしまった。イランの苦い想い出の一つ。<つづく>

160526

青空ではないがまあまあの天気。
気温はかなり高い。

今日は田町のセミナーで、
昔の話をする。
一番人気のあったのは卒業記念写真!

65歳以上の介護保険料は、
年金額が年額18万円以上なら天引きされ
満たなければ自治体に直接納める。
年金しか殆ど収入が無い人もいるだろう。
治めるのも大変だからやはり天引きしてもよいと思う。
10円とか、20円とか、多くても100円とかにして、
出来ればマイナス○○円としたら良いと思う。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
147 5/26
僕たちの旅のきっかけは、第2回アジア見本市の日本館の建設である。これがなければ話は始まらなかった。先立つ第1回の見本市は何年か前にインドで行われ、村口さんという先輩が担当した。村口さんは仕事が終わってからドイツに行って仕事を見つけしばらくドイツに滞在した。インドネシアのジャカルタで行われた第3回見本市の日本館は僕がチーフになり後輩の小玉と猪子が担当し計画を行った。確か巴組が所有していた中古のかなり大規模なダイヤモンド・トラスの再利用であった。第4回以降については知らない。
テヘランの日本館の話に戻るが、工事事情がよく分からない国だから、日本で鉄骨をつくり、地域の材料である煉瓦で壁を積むというのが清家先生の基本的な考えに従った。難波さんがチーフになって時々先生と相談しながら進めた。完成図は乃村工芸の石原さんが描いてくれた。鉄骨は既に出発前に原寸検査を終えていた。完成した鉄骨は工事に間に合うように船で送る。これは現地での打ち合わせで決めたことであるが、組積の国の煉瓦造建築の壁厚は一枚半で、フランス積みにした。外側はマシンブリックという煉瓦色をした煉瓦を使い、内側はコモンブリックという土の色(らくだ色)した廉価の素焼きの煉瓦を積みペンキで仕上げた。
屋根はテントで、展示物への影響を考えて白色の生地を使った。製作は太陽テントだったと思う。テントを鉄骨にセットする時にロープを用いるが、そのロープワークも教わった、図の説明もつくり説明しにくい端部の結束は見本も持って行った。イランの職人は見本を見るなりすぐ「これね!」と間違いなく理解してその通り施工してくれた。
それにしても煉瓦の短柱を積んで天端をモルタルでならして行う水盛りやり方が予想以上に正確だったのには恐れ入ったことは前に書いたと思う。木の文化と土の文化の違いの端的な表れだと感じた。<つづく>

今日で147回目になる。切りが良いので150回で終わりにしようと思っている。

160525

雨は降りそうもないが、
ぱっとしない天気である。

紀伊國屋まで買い物。
地学も昔習っている頃よりだいぶ分かってきているはずだと、
少し前から欲しかった。
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電線!電話線?
これで機能しているのか?
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
146 5/25
大学二年の時に車の免許を取った。一度失効して取り直したから今の免許は昭和46年からである。それでも始めは原付だったものが軽二輪に成り自動二輪になった。活用しない手はないと還暦前の何年間かナナハンを楽しませて貰った。
フォルクスワーゲンのオーバーホールについては既述の通りだが、それだけに愛着もあった。一年留守にして、帰国後また乗り続けたかった。高校が同窓で、大学教養時代の仲間でもあったS君がやはり赤いフォルクスワーゲンを持っていた。彼とはよく一緒に梁瀬に行ったり、梁瀬のCさんと会ったりした。彼が留守中時々うちへ来てエンジンを掛けたり走らせたりしてくれた。おかげで帰国後もかなり長い間、その車を乗り続けられた。
もともと僕がフォルクスワーゲンを欲しくなったのは小学校以来の友達の疋田君のおかげだが、当時彼はGKのカリフォルニア事務所にいた。彼は若くしてあの世に行ってしまったが小学校時代一番時間をともにした。彼もものづくりが好きで放課後、学校の松林の中でススキを刈り取って原始住居を造った。それも飽きずに何回もつくった。最後につくったものはかなり完成度が高く中に入ると全く外の光が入ってこなかった。
かなりの中古のフォルクスワーゲンが自宅に来て最初に行ったのが駿河台の彼の家だったのを覚えている。彼が運転しやすい路を地図にして渡してくれた。彼は車のエンジンを載せ替えていた。帰国後かなり経ってからだが、ギヤボックスが壊れ、トランポのものに交換した。多分そんなこともあり、疋田君、Cさん、S君がいたからこそかなり問題のある車で中近東からヨーロッパまで行く気になったのだし、行けたのだと思う。
それにしてもこの頃の車は、ボンネットを開けると美しいエンジンが納まっていて、故障もないがいじるところがなくて面白くない。<つづく>

160524

家の中は涼しいのだが、
外はかなり暑い。
等々力往復。

帰ってから昼食。
近くの門
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泰山木の葉。
なかなか大きくて立派だ。
ちょうど今花が咲いている。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
145 5/24
今日で親父の歳をこえた。
家内の祖父は外洋航路の船長だった、僕たちが結婚するずっと前に亡くなっていたから僕は会っていない。息子が二人いて洋一と航一だから海が好きだったのだと思う。洋一が僕の岳父で、航一は幼くして亡くなったと云う。船長の帽子は今でも残っているが、日記や記録が残っているようにも聞いていない。きっと一つずつゆっくり聞けば幾つも小説が掛ける程、興味深い話があったのではないかと思う。
私の父は結婚してすぐ、一人でアルゼンチナ丸という客船でアメリカに行っている。当時アメリカはエリオット・ネスが活躍した禁酒法の時代だった。路を歩く時は、ポケットの中にピストルを忍ばせているかも知れないと思わせるために、両手を出したまま歩いてはいけないとか、ウイスキーを入れられるようにつくられたステッキにウイスキーを詰めて打ち合わせをする相手にプレゼントしたとか少しだけ話は聞いたがもっともっといろいろなことがあったはずである。
僕もついに親父の年をこえてしまった。今にして思えば随分若くしてあの世に行ったと思うが、当時の男性の平均寿命であった。家内の父もほぼ同年代であの世に行った。僕の母親の23回忌が来月あるが、若い時胸を患いずうっと母親を亡くす恐怖を引きずってきたが、当時の平均寿命まで生きた。家内の母親は96歳で、亡くなる半年前まで一人で生活していた。
それにしても当時、親父は随分年寄りに見えた。僕たちはそれに比べて随分若いと思っているが、子供達は僕たちのことを同じように凄い年寄りと思ってみているのかも知れない。時々やたら老人扱いをする。確かに僕たちが旅した国の幾つかは亡くなり、当時と大きく世状も変わっていることを思えば、時が流れ世界史の一部になっているのだと思う。
彼らはとうに僕たちが46年前にした旅行した年齢を遙かに越えている。彼らもそれぞれ好きな人生を楽しんできたようだ。<つづく>

160523

今日も良い天気だ。
暑くなるらしいが、今のところまだ爽やかだ。

垣根の刈り込みを行う。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
144 5/23
この46年前の僕たちの旅が出来たのもひとえに清家先生のおかげである。たまたま今週の26日に清家先生の話をすることになっている。話したいことが山のようにあり困っている。勿論、先生には、限りなくお世話になったが、この旅についても間違いなく先生のおかげである。直接的なかかわりは勿論、研究室の先輩が外国に出る度にそれぞれそ日本からの出国を活かしてきたという自由な流れ自体先生なくしては、あり得なかっただろうと思っている。その頃は日本からの外貨の持ち出し制限があり仕事に結びつけないと外国での長期滞在は難しかった。
大学時代、昔からの友人と日本脱出の旅行を考え旅行会社に相談に行ったが、ドルの持ち出し制限があり、正規にはなかなか難しく殆ど相手にしてもらえなかった。
さらに僕たちよりも10年以上先輩の番匠谷さんや高浜さん山口さんの時代は、いろいろな面であこがれのヨーロッパであり居着くことを前提に日本を離れた。それから何年かするとヨーロッパで働き学び箔を付け日本で活躍することが夢となった。時代とともに、同じ外国を目指すにしろ、意味合いがだいぶ変わってきているように思える。ジェノバで今も仕事をしているIさんは僕と同じ年代であるが、同じ頃日本を出て、そのままヨーロッパで活躍し続けてきたから一概に言えないが、彼の場合、国を超えた素晴らしい事務所との遭遇の結果だと思う。そして、学生時代に気楽に観光旅行が出来るようになった現在の主流は、自分である程度確立した仕事を国外に広げるために外国に出て行くことに変わってきている。
イランに行くまで、そして、イランに着いてから数週間お世話になった研究室の難波さん、鬼籍に入られてしまったが、建築の設計、見積もり、交渉、契約などの実務的なことをはもちろんのこと酒の楽しみ方も教わった。帰国後、博士論文を書くに当たってお世話になった、清家先生の同期の吉岡先生は、大変にお酒がお好きな先生だったが、その吉岡研究室に溶け込めたのも難波さんのおかげである。
当時、ジェトロのテヘラン事務所の駐在員であったMさんには仕事のことから、僕たちの結婚まで面倒を見て頂いてしまった。いくら御礼を言っても言い切れない気がする。いまだにたまにお会いして昔の話をさせて頂いている。
ジェトロ事務所の現地採用のヴァキリー、彼には専門的なことは別にして、仕事のことで随分面倒を掛けた、昼も二人で近くに食べに行くことが多かった。また、それ以上に家族ぐるみでイランという国の様々な面を見せて貰った。彼には、さらに、かなりイランの危ない面も見せて貰った。彼なしにはイランという国の表面だけしか知ることは出来なかっただろうし、これほど中近東と云う世界に興味を抱かなかったと思う。高倉健主演の中近東を舞台にしたゴルゴサーティーンは自分の見た世界の物語を見ているような気がした。
帰国して数年後、保険外交員のおばさんから「燃える秋」というイランのカーペットを扱った男女のやりとりを描いた映画の切符を2枚もらって二人で見に行ったのも何かの因縁に思われる。<つづく>

160521

日差しが明るい。
風も殆どない。
今日は出来たら荻窪を散策しよう。
公園の見事なクスノキ。公園から荻外荘。
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近くの豪邸
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太田黒公園にて。
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新緑の紅葉
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水面に映る紅葉
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銀杏並木の銀杏の根っ子は芸術家
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久しぶりの西郊ロッヂング
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
142 5/21
おそらく次第に支配の仕方が巧妙になってきたのだと思う。戦争で儲ける死の商人が単純でなくなってきたのではないか。
それはともかく植民地化されなかった日本が第二次大戦に敗戦して、その後一応独立はしたもののいまだにアメリカの支配から完全に脱却していない。インドや中国よりも独立度が低いように思える。しかも高等教育を受けているはずの日本人の多くがそのことに気付いていない。西欧文明に対する根本的な批判が日本には殆どない。それが明治維新を成功させたのかも知れないし、元々日本のものの考え方が西欧のものの考え方に似ていたからという人もいるかも知れないが、その考え方は単純に受け入れられないだろう。
しかし、それにしても英語は本当に強い。イギリス人、アメリカ人のヒッピーと旅行して嫌と云うほどそれを知らされた。言語が広がることはそれだけ支配の領域が広がることだといえる。言語はものの考え方の表れだといえよう。だから英語が国際語になることはその考え方が世界に広がることにつながる。やはり今は英語の世の中だから英語を学ばなければと云うのは英語の考え方の支配を受けることなのだと思う。かつてフランス語がヨーロッパを支配したことがあった。しかしいつの間にかそれは潰えて英語に変わった。また、違う言語が世界を支配することがあるのだろうか。中国語とか、アラビヤ語とか。
僕は英語の重要性が身にしみた割にちっとも英語が上手くならない。年々英語が下手になる。東京の大学にいた時は、時々英語を話す必要があった、宇都宮に行ってから、必要なのは年に数回の国際会議の時ぐらいで殆どといって良いほどなくなり、しゃべることも次第に億劫になった。
耳のせいにはしたくないが、最近は日本語だって聞き取れないのだからとぼやいてしまう。さてそろそろ終わりにしなくてはといいつつもうほんの少しだけ続けさせて頂く。<つづく>

160520

曇っているがまあまあの天気
今日はまちあるきの下見。
青梅街道コース
東中野西口集合。
集合前にさる寺の猿。
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氷川神社-塔山-白玉稲荷-宝仙寺-明徳稲荷神社-あぶまた味噌-慈眼寺-五木五成神社-阿波屋-杉山公園の碑-阿波屋-コヒー飲んで解散
宝仙寺の石臼供養碑、此処は昔の町役場跡でその碑がある。
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慈眼寺の馬頭観音:むかし青梅街道と井草へ行く道の分かれる追分にあったものが移されたという。
青梅街道沿いに在った庚申塚を集めてこの寺に移したとのこと。
お稲荷さんはよく神社などに移されている。
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五木五成神社?(名前正しいか?)五成で稲荷と読むらしい。
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阿波屋
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株立ちのケヤキ
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
141 5/20
この46年前の物語も言い残したことを幾つか書き足してそろそろ終わりにしようと思う。
旅行中、あるいはイランで仕事をしている時、行き先としてあこがれたのはヨーロッパであった。しかし、旅の最後にヨーロッパに入って青い鳥は中近東にいたのかも知れないと気がついた。ヨーロッパも奥は深いが旅行で通り抜けた限り、読んだり見たりした本の通りであったと思う。既に僕たちが西欧文明に毒されているからかも知れない。根本的な考え方など新鮮さを感じたのは中近東の方が強かったと思う。建築についてもいえる。モスクの空間は最初視点が定まらず戸惑ったが、やがて衝撃的な感動となった。帰国後、瀬尾文彰氏らと纏めたただ一つの空間は、まさにその一つの感動の表れだったと思う。そして大げさなことを云えば、今日の自分の何分の一かは中近東で培われたように思える。
初めての外国だったせいもある。僕たちの年齢に関係しているかも知れない。車とのやりとりが印象を深めたところもある。しかし、それだけだなく心に響くものがあったのも事実だと思っている。僕たちの心に強く残ったのはイランであり、イラクであり、シリアであり、レバノンであり、トルコであった。
中近東に親近感を持つことは、ヨーロッパ文明とそれ以外の文明との交錯に興味を持つことに繋がる。第一次大戦前のイギリスに対するインドの対応、イギリスを始めとするヨーロッパの国々に対する中国や東南アジアの国々の対応、それらの国は植民地とされたり、敗戦を味わうことで、一見完全に支配を受けたようで、したたかに根本的なところを見失わずに時を掛けて自分を取り戻している様に思える。日本との大きな違いともいえるがこれについてはまた改めて書くことにしよう。
それはそうと、車の旅は最高だと思う。自転車だったらもっと良いかも知れないが、天気や荷物の面など考えると車が良い。それに仲間がいるのがよい。一人旅も良いが、二人旅はもっと良い。<つづく>

160519

爽やかな良い天気。
クス。
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厄除不動堂・育英地蔵堂
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
140 5/19
この旅の間に寛容のなさを感じたのは、中近東よりも寧ろギリシャを越えて入ったユーゴスラビアであった。ギリシャのサロニカから国境を越えてスコピエ、ベオグラード、ザグレブと今は幾つかの国に分かれているが、当時はユーゴスラビア一国だった。結構、南部は山道が多いのだが、片側一車線の山道の追い越し禁止とそうでないところの区別の付け方は異常なほど繊細であった。例えくねくねとした道であっても、そこで対向車が見えなければ、反対車線に出ることで、前方が見渡せるところは追い越し禁止になったおらず、反対に一見先が見えるところでも、先にカーブがあって、そこまでに追い越しを完了することが難しそうな処は追い越し禁止と、いろいろな場合があるが、とにかくもの凄い肌理の細やかさで追い越し禁止を決めてあるのだ。僕たち学生時代の日本の山道は、追い越しは自己判断だった。しかし、事故が多いと云うことで追い越し禁止の区間をつくったが、追い越し禁止にすれば安全が高まると、かなり長い山道全体に追い越し禁止を掛けることが多くなった。無難な事なかれ主義というか、細かな検証をせずに労を掛けないで決める役所根性が丸見えだった。今は大型車の性能も良かったが、当時は坂道になると大型車は煙を吐きながらスピードは格段に落ちてしまう。そして遅い車がいると大名行列が出来てしまう。しかしそのいい加減さも少しはいいのかなと最近はたまに思う。
もう一つ、それがどう寛容のなさと繋がるか上手く説明は出来ないのだが、ベオグラードのホテルに着いて僕たちがエレベーターに乗った時、我々と同年配か少し若い女性がノートと本を抱えて乗り込んできた。我々に気付くと英語で話しかけてきた。部屋のある階で止まるとうちのかみさんの荷物を持ってくれ、自分が英語を勉強しており、外国にでたいのだとうったえ掛けてきた。自由に対するあこがれのようなものを感じさせられたが、周囲の目をかなり気にしていたように思えた。<つづく>

160518

良い天気だ。
風もなく爽やかだ。
西洋美術館が世界遺産にかなり近づいた。

ここのところバナナをよく食べる。
それも表面に黒い斑点が沢山出来たバナナである。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
139 5/18
ヨーロッパによる文化・文明の浸食に対する反動は大きいと思う。一時期イスラム文化は西欧文化を凌駕していた。理学、工学の上でもヨーロッパよりも進んでいた。それがルネッサンス以後、産業革命を経て、圧倒的な軍事力を得たヨーロッパが金儲けと、植民地支配のために世界に乗り出してきた。アフリカ、中近東、東南アジアはその影響を大きく受けた。植民地にこそならなかったが日本も多大な影響を受けたことに変わりはない。ただ違うのは日本はその影響を肯定的に受け入れてきたことだ。しかし、日本と違って、自分たちの文化・民俗・宗教の否定と受け止めてきた国や民族が大部分であったと考えられる。そこから抜け出すための共通の基盤の一つがイスラム教であった。
高校の西洋史の先生で担任でもあった別枝達夫先生(後に成蹊大学文学部教授)は、中央アジアや中近東の歴史にかなりの時間を割いて講義した。大学受験にはあまり役立たなかったが、世界を考える上では大変役に立ったと思う。その別枝先生が、完成度や哲学的な意味でキリスト教よりもイスラム教の方が上だと繰り返されていた。
自己の確認のため、西洋文明との差を明確にするため、宗教及びそこから派生する様々な違いが強調される。しかし、宗教を根底からはっきり分けるためには厳格で狭量な区別が必要になる。そのためのある意味で分かりやすい極論として、原理主義的な考え方が出てくる。
イランでに本館の建設に従事した6ヶ月という期間、イラン人ばかりでなく、ユダヤ人、アルメニア人と一緒に仕事をした。確かにそれぞれがそれぞれの民族でまとまって暮らしている様子がうかがえたし、他者に対する批判も時々口にしていた。それでもお互いに同じ社会の中で生活していくために許容し合っているように思えたのだが。<つづく>

近所の松の木。
なかなかの枝振り。
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160517

今日は朝から雨が降っている。
道路は掃けない。
何か不調である。
二日続けて食べた酸味のあるカレーに原因があるのか。

JIA関東甲信越支部総会。
千駄ヶ谷で今日はバレー試合があるらしい。
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夜の窓
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
138 5/17
結婚前の一人旅のところで書いたとおりシリア滞在中にダマスカスとベールートの間を何遍も往復した。レバノンは勿論シリアもフランス系の国で、旨いフランス料理の店があるなど洒落た面を持っていた。レバノンは都会的で、シリアは田舎くさいともいえる。レバノンの海岸通りはランボルギーニやフェラーリが爆走していたり、こぎれいなカフェやレストランが散在する。シリアには隠れた美味しいフランス料理の店があり美味しいワインも飲めた。
しかしそれは西洋化された一部の人たちの生き方が表に出たものであって、民衆の生活と掛け離れたものだったのかも知れない。イスラムの生き方、そしてそれを極端に推し進めようとする原理主義、そんなものが、何かに誘発され火が付き中近東を中心に拡散した。レバノンのベールートの荒れた写真にはため息が出た。シリアのダマスカスやアレッポのテロ、空爆、自爆も悲しい。それでも「砂のクロニクル」ではないが人はしたたかに生きているのだと思う。しかし、それさえも難しくなった時に難民になる。多くの場合、難民は同国人同士の争いで生じる。主義の違い、宗教の違い、寛容がなくなるところに熾烈な争いが起こる。中近東を旅行していた時に寛容のなさを特に感じなかったが何故だろう。あるとすればやはり宗教だと思う。そして僕が寛容のなさを殆ど感じなかったのは、自分がイスラム教と関係がなかったからだろうかそれともその後、何かが変わったのか。<つづく>

160516

五月も半ば過ぎた。
少し雲が多くなってきたようだ。

(仮称)旨いもの会仮称は始まった時から10年に以上仮称のまま
だから仮称という文字も含めて正式名称
神谷町、表通り、裏通り、間の仲通りはないが、
北大路で(仮称)旨いもの会
楽しく飲めました。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
137 5/16
帰国してしばらく経ってから、石油の取引に関係している商社の経営に携わる叔父に、イランの国情について聞かれた。具体的は覚えていないが、要はこのまま取引を長期にわたって続けていっても良いものか、イランの政情が安定しているかなどであったと思う。一年近く滞在したイランの国情を伝え、イラン王国が安定しているような説明をした。
しかし、10年経たずして(帰国したのが1970年4月)、1979年2月にホメイニ-師によるイラン革命が起こった。
現代に於いて5年以上先は全く分からないといえると云ってしまえばそれまでだが、イランに滞在していた当時十分安定しているかに見えたことを思うと、先を見る目を持つことがいかに難しいか思い知らされる。
ヴァキリーは、よくイスラムの偉人がいて人望を集めているといっていた。国王が空港に行く時の異常な警戒(しかしテロが心配される現在とそう変わらないようにも思えるが)、王妃の不人気、都市と田舎の生活の仕方の格差、確かに王もモスクに行ってお祈りをするが、都会の女性は顔を隠さない、しかし地方に行くと顔を隠した女性が多くなる。また、そう多くはないが街の中に乞食がいることなど貧富の差がかなり大きい、等々を合わせて考えると不安定な兆しを十分読みとれたのではないかとも思う。<つづく>

160515

陽が燦々と射している。
気温はそれほど高くなく良い季候だ。

鷺宮の白井晟一設計の杉浦邸を見学。
今月末で解体とか。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
136 5/15
その後。
帰国後、まずは披露宴を終えて、改めて先生のお宅に帰国の報告と御礼のご挨拶。
披露宴においで頂いた親戚の家にも挨拶回りをしたように記憶している。

僕たちには、イランのイタリアンカソリックの教会で挙式した時の神父のサインの入った結婚証明書の日付があって、披露宴の日付があって、その後4月の半ば過ぎに区役所に届けた婚姻届の日付がある。僕たちは教会の式の日を結婚記念日にしている。

そして二人で廻った国々では、その後、まるで僕たちが火を付けて廻ったみたいにいろいろなことが起こった。

働いていたイランは、革命が起こりパーレヴィ王朝が倒れ、ホメイニ師がイスラム教の教えを基にした国にかえた。現在は多少落ち着いてきているが、アメリカ大使館の問題、核保有の問題といろいろあった。
あの頃のイランは、首都テヘランに限れば日本よりも西洋化が進んでいた。髪を金髪にし、ミニスカートをはいた女性が、チャドルの裾を蹴飛ばして歩いていた。チャドルをかぶらない女性もいたが、何故かチャドルの下から足が見える方が色っぽかった。日本で若者が髪を染め出したのはそれから10年以上後のことだ。
酒も飲めた。最初に同行頂いたNさんのおかげで、僕がアルコールの味を覚えたのもテヘランだった。テヘランは十分に西欧化で行き渡っている様に見えた。それでいながらパーレヴィ王の二度目の王妃は庶民に受け入れられておらず人気がないなど王朝に対する不満も確かに聞こえていた。西欧化の裏に潜むどろどろしたものが感じられ、比較的最近読んだイランを舞台にした船戸与一の小説「砂のクロニクル」はそれを顕在化してくれたように思えた。

生きているかな、ヴァキリー、ゴルバハール、バハニアン、アンドレシアン。
出来ればもう一度テヘランに行ってみたい。<つづく>

160514

今日も良い天気だ。
心地よい微風がある。

恩師の卒寿のお祝いの会がある。
よそのクラスのクラス会に出席。
ということも出来る幸せな学校だった。
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都市計画、地区計画で区画毎にその特徴で色分けをして網に掛ける。
大きな目で見ることは大切であるが、
それで終わってはいけない。
何処でも、多くの場合、
その特徴で色づけできない特色のあるものがかなりあるはずである。
しかし、それをろくに見ないで、掛かった網の通りに計画をなそうという処に無理があり、
味気ない計画になってしまう。
例外を認めるとまとまらないと云うが、
どんなに小さくとも存在意義のある例外を受け入れていかない計画や網掛けは、
都市、地区の魅力の破壊に繋がる。
存在意義は多くの場合地域に根づく人にしか分かりにくい。
その情報を十分に検討する肌理の細やかさが必要である。
それが面倒だということであれば、
平和な世の中計画などすべきでないと思う。
それが出来ることこそ平和に一つの素晴らしいところともいえる。

確かに国宝級のもの重要文化財級のものには配慮しているかも知れないが、
それでは全く不十分であることが分かっていない。
価値が決まったものだけでなく、
価値を生み出しつつあるものを育てることこそ計画なのである。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
135 5/14
披露宴の会場は父の仕事の関係で三越のすぐ近くの日本橋倶楽部。こぢんまりとした会場のわりに人数はそこそこ。仲人は父の幼い頃からの友人の画家、万一僕たちが帰らなくてもごめんで済む人を選んだとのこと。僕たちにはイランで式を挙げた時のM夫妻と二組の仲人がいることになる。
清家先生と福沢先生が両家の主賓で、司会は僕の小学校からの友人に父が当日直接頼んだ。何故か小学校以来その友人は親父の絶対的な信頼を受けていた。勤務先がNHKだったことも多少あるかも知れないが、長い信頼によるところの方が大きかったと思う。彼とは今日も恩師の卒寿のお祝いの会で会う。その恩師の先生も披露宴に参加して下さった。
清家先生は国連の当時の事務総長のガリ氏に会うためもう一度話をされてからお開きになる少し前にご退席。
勿論両家の親戚には出席していただいたが、幸い僕たちが帰ってくるのやら、来ないのやら分からなかったために、親たちは、自分たちの付き合いの年配の偉い方々はおよびできなかった。おかげで僕たちとすると良い披露宴になったと思っているが、親父の弟などはかなり批判的だったらしい。しかし、友人である銀行家の息子の披露宴は、両家とも銀行関係であったため親の褒め合いで、本人はその褄になっていたことを思えば幸せだった。<つづく>

160513

良い天気だ。
家の中は涼しいが、
外を歩くと暑い。
資料を入手のため中野区立歴史民俗資料館へ。

途中、禅定院、正法寺、明治寺の門
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明治寺にて。
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明治寺のお稲荷さん両脇の狐さまは両方とも耳が欠け、
左側のこんこんさまは足が壊れモルタルで補修されていたが、
あまり様にならない補修。
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ちめんかのいえ160513-08.jpg 160513-09.jpg

消火栓160513-10.jpg

パナマ文書のことも新聞報道は一日だけ。
テレビも一日だけ。
金を握っている我々の世界のことに、
いちいち云うな、
各国の税金が減ったって我々が儲かればそれで良い。
税収が必要ならば、払ってくれる馬鹿なところからとれば良い。
竹_中さんもそんなことをのたまわっていた?

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
134 5/13
1970年4月12日結婚披露宴 於日本橋倶楽部。
朝から親父は披露宴の打ち合わせで外出。父親の日記を見ると僕たちはかなりかなり寝坊して、打ち合わせを終えて帰ってきた頃に起きたようだ。
この披露宴は、親たちが殆どというか全てやってくれた、招待する人まで決めて貰った。勿論手紙のやりとりで一二名の追加はあったが。
僕たちとすれば披露宴なんかしなくてもいい、するとすれば、帰ってからゆっくり考えるのにと内心思っていたわけだから、迷惑とまでは云わなくとも、やって貰ったことに精神的な負担は全くといって良いほどなかった。それはそうとイギリスで受け取ったリストには、僕たちが出来れば出席して欲しいと思う人が殆ど全て書かれていた。
僕は高校の時、山岳部に所属し大学に入ってからもアドバイザーという形で高校の山岳部と繋がっていた。恩師でもあり、その頃山行をともにした顧問の荒井先生は、今年卒寿を迎えられたが矍鑠としておられる。先生はその後、同校の大学の文学部の教授になり、茨城大学に移られ文学部長をされ、退職されてから駿河台大学で教えられていたが今は退職され相変わらず執筆活動など元気で行われている。その荒井先生が、息子のことをこれだけ把握している親も珍しいと驚いておられた。かみさんの方は女性だから母親と話しはしただろうが、僕は親とはろくに口も聞かなかったわけで、私自身も不思議でならない。
それはそうと両親達にしてみれば、披露宴の日が近づいてくると気が気ではなかったと思う。飛行機の切符の期限が切れるから、帰らざるを得ないだろうが、あいつらのことだからどうなるか分かったものではないと内心やきもきしていたはずである。
羽田から電話をした時、ただいま、ついたよ、そうかよかった。とそれだけだったが、声の安堵の気持ちが胸に突き刺さった。会場も間際になっても断りの効くところをセットしていたし、帰ってこなかったら連絡したところを一軒ずつ廻らせる積もりだったらしい。<つづく>

160512

皐月晴れだ。
もっと早く鷺宮のまちあるきをやっておくべきだった。
後悔先に立たず。
K邸。
門柱もいいし玄関周りも。
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S邸。
屋根のむくりと庇の切り方。
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H邸。
茶室だけ残ることになったとか。
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頑張ってくれています。
でも手は入れてもらえない。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
133 5/12
帰国。1970年4月11日朝、予定通り羽田空港到着。
この日で旅行の話は終わりになるが、後日談や思い出したことなど何回かに分けて書き足しておこうと思う。
羽田から家に電話。タクシーで帰る。僕はタクシーはあまり好きでない。何処の国に行っても地下鉄やバスを利用する。時には乗り間違いをして遠回りや余分な時間を食ってしまったこともあるが、何とかなる。しかしこの時は殆ど何も考えずに抵抗なしにタクシーに乗った。
帰宅してしばらくすると、彼女のご両親がこられ、そのほか何人かの方がお祝いにみえた。知らなかったが2階が我々が住めるように改造されていた。床の間付きの8畳と4畳半の和室のうち南側の8畳が洋室にかわり床の間と合わせて10畳になっていた。4畳半には半間の押し入れがついていたが此処は後日、小さな流しに直した。
イランで仕事の合間に改造計画をたてていたので、かなりショックだった。それがはっきり顔に出て、親父は折角やったのにとやはりショックだったようだ。もう一つがっかりさせたのはイランで夏の背広が必要になり送って貰った。ちょっと変わった色調の渋いスーツが届き気に入って着続けた。仕事が終わって旅行の間もジェトロの方と会ったり、ダマスで仕事をするのに着続けてよれよれなって仕舞ったのでイギリスで処分した。折角生地を選んでとかなりがっかりされてしまった。文句ばっかり行って殆ど御礼らしいことも言わなかったと思う。親って有り難いなと思う。
改修して貰った二階に1975年2月19日まで約5年半そこに住むことになる。階段を登ったところに窓があり、夜中、環七の車の音がボワーと聞こえていたのが懐かしい。<つづく>

160511

雨模様の天気予報だったが、
ぱらついた程度。
一時風が強く帽子を飛ばされる。

4月26日の白い花。
どうも有名な「なんじゃもんじゃ」らしい。

ピロリ菌退治成功。

早稲田通りの妻恋神社
誰かいたずらをするのか狐が檻に入れられていた。
いたずらをする人を檻に入れるべきだと思うが。
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水屋もある。
小さな山があり小さな祠がある。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
132 5/11
飛行機が中継地を一つ一つ降りては、また離陸していく。非日常の世界から日常の世界にs次第に引き戻されていく。懐かしいテヘランも空港の待合室だけファルシーも聞こえてこない。経由地は、テヘラン、デリー、ラングーンだったと思う。予定ではラングーン以外であったが、急遽ラングーンの変更になったように記憶している。ラングーンは現在のヤンゴン。
一応ロンドンから前の日に帰ることは伝えた。しかし留守家族は、両家ともその後連絡ないので焦っていたらしい。9日の父の日記にも冒頭「今日も手紙不来」とある。
家内の家の方は、11日、JALに連絡して、搭乗者を調べて貰ったらしいが、名簿に名前がない。そんなはずはないと確認を繰り返したらしいが、僕たちはエール・フランスだから乗っていなくて当然だった。<つづく>

160510

昨日の雨はあがっているが曇り空。
一日天気は保ってくれた。

珍しく食べ物の写真。
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花。
時計草に似ていくけど?
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顔。
距離によって表情が変わる。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
131 5/10
いよいよ、帰らなくてはならない。帰った次の日、披露宴が待っていると思うと気が重い。朝、空港に行き飛行機に搭乗。ギリシャで乗り継ぐことになっている。飛行機は出発が少し遅れギリシャ空港についた時には予定の時間を過ぎていた。スチュワデスが飛行機が降りたら急いでくれと云う。他に乗り継ぐお客はいないようだったが飛行機は僕たちを待っていてくれた。もの凄く明るいギリシャの空港のコンクリートの上を走った。乗り遅れると少なくとも一日遅れる。僕たちが乗るとすぐドアが閉まる。窓から荷物が運び込まれるのを確認する。荷物扉が閉まる音がして飛行機が動き出す。
フランスの冬季オリンピックの映画「白い恋人達」*の機内上映があった。何か雰囲気に合っていて感動的だった。<つづく>

*『白い恋人たち』(原題:13 Jours en France)は、1968年に製作されたフランス映画。この映画は、 1968年にフランスのグルノーブルで行われた第10回冬季オリンピックの記録映画で ある。ジャン=クロード・キリーが活躍したオリンピックである。珍しくこの映画の題名は日本名の方が良い。

160509

今日は午後だか夕方からか分からないが雨。
そして何日か雨が続きそうである。
午前中の用事は一応済ませるも、
半分残ってもう一度。

JIA中野地域会定例会。
南口だから雨だとつらい。
中野産業振興センター
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都立家政駅のレール支柱
地下駅になるとこの柱もなくなる。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
130 5/9
明くる朝、ローマに到着。車の調子で予定していたローマに寄れなかったためローマで一泊する様に予定を組んだ。ローマもかみさんは二度目で僕は初めて。ホテルに荷物を預けて、ローマ見物。サン・ピエトロ大会堂、パンテオン、コロセウム、カラカラの大浴場、フォロ・ロマーノ、ティトゥスの記念門、セプティミウス・セヴェルスの記念門、トラヤヌスの円柱、ハドリアヌスの門など幾つかの門と円柱。
サン・ピエトロ大会堂の内部は凄い人、独立しているわけだが国境があるわけでもない。お上りさん気分で見て回る。
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パンテオンの天孔からはちょうど陽が射していた。コロセウム、カラカラの大浴場、フォロ・ロマーノなどの遺跡、
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いつから人はこれらを残しておこうと考え始めたのだろうか。トロイの街が何層にも積み重なっていることを考えると不思議に思えてくる。潰すことができなかったことはローマ帝国の偉大さ故なのかも知れない。人の多いフォロ・ロマーノのを二人で歩きながら、秋枯れのエフェソスは良かったなと思う。ティトゥスの記念門、セプティミウス・セヴェルスの記念門、トラヤヌスの円柱など『西洋建築史図集』を片手に見て歩く。トラヤヌスの円柱は中に階段があり上まで登れる構造になっている様だが公開はしていないようで外から見上げる。
ホテルに帰って食事。今回の旅行での機内は別にして最後の晩餐。でも何を食べたか覚えていない。<つづく>
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160508

今日でゴールデンウイークもおしまい。
シルバーウイークが始まる。
やはり周りも休みの方が何かと気が楽である。

今日も五月晴れ。
でも明日から雨になるらしい。
子供達のために天気がもってくれた。

面白い入り口
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スチロールの鉢に入った五葉松。
もう30年ぐらい経つかな。
この頃ちょっと手入れが行き届いていない。
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妻飾り
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花の名前は忘れました。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
129 5/8
10時過ぎまで寝坊。4月6日になる。帰る予定の日が刻々と迫ってくる。
一日パリ街を見物。エトワール凱旋門、サント・シャペル、ノートルダム、ノートルダムでは鐘楼に登る。セーヌ川も見る。シャンゼリゼコヒー。夕食にエスカルゴとメモがある。
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次の日、4月7日、22時30分発の飛行機まではだいぶ時間がある。ホテルに荷物を預けて、美術館巡りをするつもりで街に出る。ところが僕たちの旅行は下調べなしの行き当たりばったりの旅行。当時フランスは労使の間でもめていて、ルーブルも、近代美術館も殆ど全てのパリ中の博物館・美術館が何処も皆ストライキで閉館だとは知らなかった。行きたいところが全てだめ。当然二人とも次第次第に機嫌が悪くなる。何が直接の導火線になったか覚えていないが、とうとうはじめての喧嘩。夜の飛行機まで二人別行動。換金したお金と飛行機の切符は僕が持っている。
パリだから、見るところ食べるところ、動き回ることなど何もそう困らないはずなのだが、1時間半掛けても長いと感じなかった食事が、20分で終わってしまう。それでも何とかそれぞれ時間を潰して、夕方荷物の預けてあったホテルで再会。ぶつぶつ言いながら空港に行く。久しぶりに飛行機に乗る。その頃には二人とも結構ケロッとしている。そういう振りをせざるを得なかったのかも知れないが、振りをしているうちに話もするようになる。<つづく>

160507

昨日の小雨も止み。
天気回復。
少し風があるが良い天気だ。

羽田空港滑走路の耐震性強化の為の工事についての東亜建設工業の虚偽報告、
昨年の5月から10ヶ月の工事
発注元は国交通省関東地方整備局。
流動化防止の為の薬液を計画の5.4%しか注入しなかったにもかかわらず全てやったようにデーターを改ざん。

三社でつくるJVのどこからか施工不良の疑いを掛けられた。
この点については三菱自動車の燃費の値の改ざんと似ている。

しかし、10ヶ月の工事で、発注元はどう対応していたのだろうと思ってしまう。
施工者も施工者なら発注者も発注者だ。全くいい加減の塊だ。
時代の流れは、細かい末端を厳しくして、大元は緩やかに、あるいは庶民に厳しく、お上に甘く。
戦前を通り越して時代が逆行しているかに見える。


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枕木の塀
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
128 5/7
カレーにわたり今日はパリ泊まりと決める。車もパリで返すことにした。フランスの田舎道を走り少し遠回りをして、ゴッシックノ教会を見て歩くことにする。アミアン、ラン、ランスとフランスゴシックの梯子。ランは12世紀から13世紀にかけて、ランスとアミアンは13世紀前半に起工され13世紀中に完成している。ランスの教会はゴシックの女王と称されている。殆ど真っ平ら農地の中を走る。やがて遠くに小高くなった集落が見える。其の集落の中心にひときわ高く教会が聳えている。中世の街の中で、教会は圧倒的な高さを持ち、街を睥睨していた。その中世の街がそのまま残っている。ゆっくり3つの教会を見て、パリに向かう。シャルトルも見たかったのだが、パリの街の向こう側でかなり遠回りをしなければならないので諦めた。
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パリに着いて、まず、車のメーターのワイヤーを繋いで無事車を返却。どこか東欧の街で、おばさんの運転する車にテールランプのプラスチックを割られたが、それについても不問。突然車なしになって多少戸惑う。帰国の飛行機の切符の手配をする。
まだ日本に帰りたくない思いからかも知れないし、オランダで会った日本人観光客のせいかも知れないが、二人ともJALにだけは何としても乗りたくなかった。食べ物が美味しいエールフランスにした。変な日本食がでないだけでも良い。4月7日パリ発ローマ経由での羽田行きの切符が取れる。
ホテルを見つけてチェックイン。パリのホテルのトイレの紙は半透明で、薄いブルーのトレーシングペーパーみたいにてかてか光った紙。フランス人は何時もこんな紙を使っているのかといぶかしく思う。パリのホテルについてはそれしか覚えていない。荷物を預けて街に出る。
コルのスイス学生会館を見て、エッフェル塔に登る。イランの工事現場で使ったツバメのマークの入ったヘルメットをエッフェル塔に置き忘れる。折角此処まで持ってきたのに。
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160506

薄曇り。
かなり気温も上がってきたが、
明け方はまだ多少ひんやりする。
一度休んだイッキン会。
しかし、先月は「でえく」で会ったので、
何となくいつも通り。
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二次会
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今日は新聞休み。
夕刊がないと完全に一日空いてしまう。

我が物顔のよその猫。
よく見るとそう憎たらしい顔もしていない。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
127 5/6
ロンドンに戻ってきた頃から雨が降り出した。一本の傘で、濡れるとか濡れないとか些細なことから我々夫婦の間で口論が始まった。一月半以上二人っきりでいると、慣れもでてくるし猫もかぶっていられなくなる。でも、Iさん夫妻は実に仲がよい。あまりそう言うことがないように見える。何十年経ってもそう思える。ハネムーンなのにと心配してくれた。
外地で二人の生活をする。商社などであれば、身近に日本人がいる。留学でも大抵一人や二人日本語が話せる相手がいる。寧ろよほど固い決心をしていないと、日本人同士が集まってしまう。Iさん夫婦の場合は、イギリスの設計事務所で、身近に日本人がいない。だからかなと思うが分からない。確かにIさん夫妻は幼稚園からの友達だという。それもあるかも知れない。
翌朝、Iさんは仕事へ、元気で再会を約束しロンドンを発つ。ドーバーに出てフェリーに乗りフランスに戻る。帰りの船のこともあまり覚えていない。船のデッキで海を眺めるのは好きだし、船の独特の装備を見るのも好きなのだが其の記憶もない。今日が4月5日楽しくて自由な旅行もあと僅かで終わり、現実に引き戻されるという無意識のうちの面白くなさが僕ら二人を苛立たせていた。
<つづく>

160505

今日はこどもの日
五月晴れ。
微風があり爽やか。
目に青葉ホトトギスはいないけどせめて食べたい初鰹。
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時計草・パッションフルーツ
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無題
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
126 5/5
イギリスゴシック建築の傑作の一つキングス・カレッジ・チャペルの中に入る。ゴシック教会は南から次第に北に広がったわけだが、メンバーが細くなり繊細さを増すが、反面、力強さが失われている。
ケンブリッジではIさんと一緒に写真を撮りまくった。日本を出る時にフイルムをかなりの本数仕入れてきた。最近のデジカメと違い気軽にやたらシャッター押せない。今は一枚の容量を調整すれば小さなカ-ドに何千枚も写し込めるが、フイルムだとそうはいかない。一本多くても36枚し、嵩張るし高いからどうしても撮り控えてしまう。一枚一枚慎重にとるのだがそれでも後で見ると随分つまらない写真も撮っている。現在だったら気楽に撮る泊まったホテルや、食べたものや何気ない風景など殆ど全く写していない。
江戸の終わりから明治の初めに掛けて特別な意味を持たない風景写真や人物写真が殆どないのも頷ける。
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ロンドンまで来て、車は渡せなかったがどうしてもと考えていたIさん夫婦との再会を果たした。後は、フランスに戻りパリで、車を返して、テヘラン経由の飛行機で日本に帰ればよい。そう思ったら残っているフイルムを気軽に使えるようになった。
ロンドンに戻って街の中を歩く。ジャンセンの店で素敵な腕時計を売っていた。悩んだあげく、結局買うのはやめたのだが完結していない輪の片端に時計が付いているユニークな銀時計で、その後も其の機構の時計を見ていない。何十年かして、T先生の家の設計をした時にアンティークの家具や建具を担当した女性がその時計をしていて凄く懐かしく感じた。それからまた二十年以上が経過している。<つづく>

朝、雨が残り、風も強かった。
9時頃には雨もあがり青空。

嵐が去った。
HPも繋がった。

クスノキ
風で葉っぱがかなり飛んだ。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
125 5/4
翌日は、フィアット850にIさん夫妻と4人乗り込んでケンブリッジへドライブ。距離は100キロ弱。ただ、正確な距離は分からない。マルセイユ出車を借りて、大体パリまでの距離を走ったところで距離計を止めてしまった。かなり悪辣な不正行為である。新しい最近の車は分からないが、当時の車は、車軸からワイヤーがスピードメーターに伸びていて、距離計を動かすと同時にスピードも示す。慣れればこのワイヤーは簡単に外せる。中古屋などはワイヤーの代わりに電動ドリルを回転させるという。回転方向が逆で、車をバックさせたのと同じことになって表示距離が減少するという。走行距離5万キロの車を3万キロに変えて売ることもできる。ただ不便なことに走っている時に何キロで走っているのかスピードが分からない。マニュアルの車だから、タコが付いていれば換算はできるのだがフィアット850にはタコがない。周りの車を見て感で走るほかない。
ケンブリッジまでの道中、Iさんの働く事務所で設計した建物や古い茅葺きの民家などを見て走る。
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ケンブリッジは大学の街である。主としてアラップやスターリングの建築、大学の施設を見て歩くが、大学は全く塀もなくオープンである。一応、案内所か守衛所みたいなところがあり、大学に入ってよいかを聞く。大学は社会に開放されている。大学を何だと思っているのだと云ったニュアンスの返事を貰う。休日だったこともありあまり人気のないキャンパスをせっせと歩いて見て廻った。<つづく>

160503

まあまあの天気。
ゴールデンウイーク真っ最中。
自転車。
昼間から繁盛している。
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早稲田通り。
洗い出しの装飾。
その右側の柱が途中で切れているのが不可思議。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
124 5/3
翌朝、ドーバー海峡を渡る。何やかやで1時間半ぐらい掛かり料金は一万円ぐらいだったと思う。船とか船の中の様子とか港とか殆ど記憶にない。しかし、イギリスに渡った途端に左側通行に変わる。車は右ハンドルでも左ハンドルでも大して変わりないが、通行方向の変化はなかなか怖い。ひやっとすることがある。ドーバーとかカレーの近くの事故の件数は他の地域より多いはずだ。分離帯のない細い道を走っている時、対向車が来ると避ける方向を間違え対向車に怒られる。細い道から中央分離帯のある道に出る時も気をつけなければ行けない。東京に帰ってからの話であるが、細い道から環8に出た途端にわーっと車がこちらに向かって車が押し寄せてくる。正面に中央分離帯のフェンスがあり左にしか行けないのに、左を見て、車が来ないから右に曲がろうと頭を出して仕舞ったのだ。
ともかく、イギリスへの入国の手続きや着いてからの道を調べたり夢中になってやっていたので、海が静かだったか荒れていたか、海の色は何色だったかなど海峡を渡っている途中のことはともかくカレーやドーバーがどんなところだったかなども思い出せない。もの凄い荒れ方をしていればそれはそれで覚えているはずであるが少なくともそれはない。泳いで渡る人もいるくらいであるからたいした距離ではないはずだ。ドーバーに着いてイギリスに入る。ロンドンまでは100キロ程度だ。
ロンドンは大きな街だ。延々と郊外の住宅地が広がっている。街の中心近くになってから少しうろうろしたがそれでも割合スムースにIさんの家が見つかる。その日はIさんの家にご厄介になることになった。期待されていただけに車を届けることができなかったことが何としても残念である。あの状態ではイギリスまでたどり着けたかどうか覚束ない。時間と経済的な面にもう少し余裕があれば何とかできたかも知れない。手放してみて初めて、車がもの凄い貴重な存在だったことを改めて気付かされた。ロンドン市内の見物。ロンドン動物園のスノードンとプライスの設計した鳥小屋など当時話題になっていて幾つかの施設と大英博物館等々。夜はIさんの家でご夫妻と4人で、お互いに日本を出る前の研究室のことなど楽しい夕食。気がつくと夜中の3時。折角車があるからと言うことで、明日はケンブリッジに行くことになった。<つづく>

160502-05.jpg SNOWT OWL NATIONAL GEOGRAPHIC APRIL 2016 160504-05.jpg

Snowy owls live in the upper latitudes of North America, Europe, and Asia,
but this one ended up in Nebraska and was starving when it was rescued by Raptor Recovery.
Raptor Recovery Nebraska

160502

まあまあの天気かな。
朝のゲンちゃん。
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ちびっ子達はブロードウエーへ出かけた。
毎回行くところの定番の一つである。
他にはヨドバシカメラ、豊島園。

修復塾の打ち合わせで、
飯田橋まで。
この住宅まだ頑張っている。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
123 5/2
アムステルダムを出て、ベルギーに向かう。ブリュッセルに着く、グラン・プラスの広場は心地よい広場だ。当時、広場が駐車場として使われていた。折角の広場が勿体ないと思いながらそこに車を停め広場に面したレストランで遅い昼食を取る。ワインを注文してパンが出てきて食事が終わるまで1時間半。
駐車場の料金が意外に高く、換えて持っていたお金がぎりぎり。小さなコインが一枚だけ残った。勿論、当時はベルギー・フランでユーロでない。また雪が降り出した。かなりひどい雪で見る間に道が白くなっていく。寄りたい処、みたい建物は沢山あるのだが先を急ぐことにしてベルギーからフランスへ。国境に着いた時はもう暗くなっていた。国境のゲートで役人は雪の中に顔を出すのも嫌そうで、窓ガラスの中から戸も開けずに手で、行け行けと合図。スタンプも押してくれない。そのままフランスに入り、カレーへ直行。フェリー乗り場に到着した頃には雪は小降りになっていたがフェリーはもうないという。夜中の12時近かったから当然である。その日はカレー泊まり。夜中着いたのでカレーの街の印象は殆どない。この地名は何故か三銃士の中に出てくるミラディーを思い出させる。<つづく>

160501

五月になった。
良い天気であるが、
空の色は白っぽく五月晴れという感じではない。
ちびっ子達は豊島園に。

近所でまた住宅が解体。
普通の住宅だったが、
なかなか住みよさそうな住宅だった。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
122 5/1
やがて、新興住宅地を抜けてアムステルダムの市街地に入る。雪は小やみになってきた。とっくに日は暮れて真っ暗である。ホテルを予約する時に地図も貰ってきたが、アムステルダムの街は道路が直角に交差していない。道はやたら細い。暗くて通りの名前も読みにくい。1時間以上走り回り、かなり苦労して街の中心近くの四、五階建てのこぢんまりとしたホテルに行き着く。22時。ホテルの名前もルームナンバーも覚えていない。最上階の天窓のあるかなり天井の高い広い部屋、と言ってもあまりホテルの部屋らしくないアトリエのような部屋で天井の大きなガラス面が天窓だとは次の日起きるまで気がつかなかった。天窓から入る太陽の光で目が覚める。北ヨーロッパのこの季節は夜明けは遅いからゆっくり眠れたが、夏だったら寝たと思ったら起こされたかも知れない。
街の中を歩いていると観光バスが止まり、日本人の観光客がゾロゾロ降りてきた。広場の花壇に駆け寄り写真を撮る。日本人に会うのが久しぶりであったが、懐かしさよりも最近日本の繁華街でよく見かけるアジアからの団体観光客を見る思いがした。
それ以外にオランダで何を見たかあまり覚えていない。それでもホテルの近くにベルラーへのアムステルダム取引所があったので見に行ったのは覚えている。僕たちは数日前まで御機嫌屋のアルファー・ロメオを中心に旅をしていたらしい。車の調子と行った場所や見たところを記憶の中で無意識に結びつけるのに慣れていたらしい。アルファー・ロメオを手放してからのごく当たり前に走るフィアット850の旅の記憶は、かなり曖昧なものになってしまったような気がする。<つづく>
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