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160430

昨日は楽しかった。
賑やかなのはよい。
でもちょっと寂しくもあった。
今日は天気も良く、
風もない。凄い落ち葉だ。
しかし、4月も今日で終わりだ。
今朝の朝日新聞の東京版に白鷺の茅葺き民家のことが大きく載った。
前野先生有り難うございます。
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植木の片付け。
シイの傷口が治る過程が分かる。
木も偉いな。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
121 4/30
10時にフランクフルトを出て、北に向かう。デュッセルドルフを抜けてケルンに午後3時頃到着。ケルンの大聖堂を見る。大空に聳え立つゴシック建築を初めて見る。ヨーロッパに行きたかった理由の一つが、ゴシック建築を見たかったことにある。イタリアのゴシックは、その見たかったものと少しイメージが違っている。ともかくも北ヨーロッパのゴシックらしいゴシックを始めて目の辺りにしてその迫力に感動する。少し残念だったのは、現代建築が建ち並ぶケルンの街の中に居づらそうに建っていることだった。大聖堂を見てからケルンの街を一回りする。まだ時間がある今日のうちにアムステルダムまで行こうと走り出す。雪が降ってきた。始めはみぞれだったが、北に進むほど雪は激しくなる。車のライトが雪に反射して前が見にくい。ハイビームをやめてライトを下げると少し見やすくなった。オランダに入る頃には雪が本降りになる。他の車と同じスピードに合わせて走る。チェーン付けてないし、スノータイヤでもないからブレーキは踏みたくない。予定地のアムステルダムの到着がだいぶ遅くなりそうで国境でアムステルダムのホテルを予約する。
郊外の住宅街の中を走って行く。道路の両側の芝生に囲まれた低層住宅は比較的最近建てられたものらしいが、何処も大きなガラス窓があいている。雨戸もカーテンも閉めていない。明かりのついた家の中がよく見え、さらにその窓の反対側の窓から向こう側の家の窓が見えその家の中も見える。オランダに入っての第一印象は家々の大きなガラス窓とそこから見えるオープンな生活であった。<つづく>
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160429

天気は良いが風が強い。
昨日雨で掃けなかった分と重なり、
落ち葉が凄い。

中野一家が到着。
長男もフィアンセと二人で来る。
アップルポットで、
(まつげだけでごめん!)
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シナイモツゴ関係の記事。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
120 4/29
何処に出頭してどうすれば良いのだろうと走っているうちに国境に到着する。手続きもなく通れというのでそのまま通り、駐車違反は結局そのまま。いまだにそのまま。国境を抜けたのが夕方の7時。やはり車の調子が心配だった時は、昼は少しにして、目的地に着いて飲んだが、その心配がなくなると昼食もワインを飲むようになった。バスの運転手もビールを飲みながら運転していたし、レストランで飲んでいた人が、皆そのまま運転席に座る。だから良いというわけでもないらしいが、ピッコロという1/4の小さいボトル、1/2ボトルなどあって気分でのみ分かられる。お昼にどこかの街に着いてレストランに入って注文する、パンが出てきてからたっぷり30分、遅い時は45分ぐらいかかる。その日のコースを確認したり、情報を集める時間にもなるわけだが、飲みながら待っているのが一番良い。気分がいいと1本あいてしまう。それから目的地まで500キロとか600キロとか運転する。
国境を越えると周囲が開け急に平らになったような気がする。清家先生はスクーターでヨーロッパを旅行されたそうだが、北に向かったずっと下り坂がつづくんだよねと言っておられたが確かにそんな印象を受ける。フランクフルトまで国境から300キロぐらいはあったと思うが、スイスを出たのが遅かったから到着したのが夜中の24時。ホテルBristor にもぐり込む405号室。
夕飯は終わっているから後は寝るだけ。ハネムーンも絶好調。<つづく>

160428

昨日の夜から雨。
かなりまともに降っている。
出も午後にはあがるようだ。

三代目と祖母の墓参り。
もう一人の総代の方が亡くなった。
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書店とビックカメラによって帰る。
そろそろHPの写真の追加を行う積もり。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
119 4/28
次の朝ゆっくりとサースフィーを出発して一度下の道まで降りる。昨日は素晴らしい天気だったのに今日はみぞれが降っている。北に抜けたいので道を探す。一つ山脈を越えなければならないので、かなりの山道を通れば抜けることができそうだが、チェーンを持っていないのでかなり心配である。山を越えないとすると距離もありそうだ。観光案内所で情報を仕入れていると山越えの鉄道があり列車にフェリーのように車両ごと載せて山を越えてくれるという。値段もそれほど高くない。確か三千円ぐらいだったと思う。駅で切符を買い陸送トラックのような貨車に乗り入れると、ちょうど時間のなったのかすぐに動き出す。乗客はそのまま車の中に座っていればよい。外は雨で寒い。峠は雨でなくとも雪だろう。この列車を選んだのは正解だったと思う。それにしても昨日の天気は実についていたと思う。車を積んだ列車は険しい山の中をこえていく。さすがスイスだと二人で納得する。
そういえば、アルファーのタイヤは直さないままマルセイユまで走ってしまった。ワイパーもイスタンブールに下りる坂の途中で片方吹っ飛んでしまった。暖房は殆ど効かないので、コートを着たまま運転していたなど、ほんの数日前のことが昔のことのようにいろいろ思い出され、無性に悲しくなる。
車の暖房が効いてよかったと思う。次第に高度を稼ぎトンネルも幾つか抜け、やがて雨は小雪に変わる。やがて登山フェリー列車が山を越えてくれ山脈の北側に到着した。雪のない国道沿いにベルン、バーゼルと走る。
下界に降りて、岳父からスイスに行ったらどうしても買ってきて欲しいと費用を預かってきた時計を買う。50年近く経っていまだに時を刻んでいる。岳父もなくなり、今は僕の腕にある。何年かに一度、遅れたり止まってしまい分解修理をするのだがその費用が馬鹿にならない。それはともかく買って出てきたら駐車違反の張り紙がワイパーに挟んである。<つづく>

160427

曇り。
夜は雨らしい。
三菱自動車は大企業の代表。
大企業の典型的な体質。
滅多に表には出てこないのだが。

木蓮が何故か拝んでしまっているので、
シイノキの幹から引いて立て直した。

建築ジャーナルに豊多摩監獄正門と鷺宮住宅の記事が掲載される。
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中野たてもの応援団の4月定例会。
スマイル中野。
今日は皆さっと帰る。
雨が降り出してきたがたいしたことはない。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
118 4/27
昨日とうって変わってピー缶*である。とにかくスキー場まで行って駐車場に車を止め、スキーの道具を二人分借りる。天気が良いし陽が当たってぽかぽかしている。かみさんは普通の細めのスラックスにセーターを着てジャンパーか何かを羽織る。僕は上はセーターにしてジーパンでもはこうかと思ったが、どうもスキーの感じではない。そうだと思いついて、テヘランは意外に寒いんだと云ったら、家から送ってくれたラクダの股引があるのを思いだした。セーターの丈は長いし、遠目には分からないだろうと、これで行くことにした。
最近の貸しスキーはなかなか上質だが、貸しスキーの質は当時の日本と変わらずお世辞にも良いとはいえなかった。
しかしコースは良いし景色もまあまあだ。残念なのは眺望も良いのだが、これだという山が見えない。もと山岳部としては多少はスイスの山も知っているつもりだがそれが見えないのが寂しい。もしかするとかなり遠くに雲がかかっているがその中なのかも知れない。結構雄大で美しいスキー場なのだが、ここのところ雪が降ってないのかゲレンデはアイスバーンのところが多い。借りたスキーの締め具が甘くアイスバーンの処では踏ん張りがきかないから流される。それでも人は少ないし、それほどの急斜面もないし好きなところを滑れる。遠目には股引スキーヤーはどう見えたか知らないがフルに一日滑った。そうせっかちに滑らなくても良いのだろうが、こちらは今日だけである。
長いリフトを乗り継ぎ、一番上から下まで何度か滑り晴天の一日を堪能した。夕方スキーを返しその日は昨日の宿にもう一泊した。<つづく>
*ピースの円筒形のたばこの缶のように深い青色の空。

160426

天気は上々。
風もない。
高円寺に少し早いけれど税金を払いに。
が綺麗、新芽が綺麗。
白い花は何の花だろう?
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幼稚園には送り迎えの自転車が並んでいる。
自転車に子供二人乗せてはいけないという騒ぎの結果。
儲けたメーカーがいたとか。
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中野の
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どんどん新緑が延びる。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
117 4/26
天気はそれほどよくなかったように記憶しているが、単に夕暮れが近かったのかも知れない。目指すスキー場にの近くに到着、片端から目に付くホテルに宿泊ができるか尋ねる。かなりの数のホテル、といってもスキー場だから固まって建っているのだが、訊いて廻ると何処も泊めてもらえない。僕たちは先のこともあるから、とりあえず一泊したいのだが、泊まれるかどうかを聞くと何処も最低一週間の条件がかえってくる。中には十日とか数週間という条件のところもあった。一泊などお客ではないという顔をされる。ホテルには立派なガレージが付いていて、長逗留でも車が雪に埋もれる心配がないように整備されている。おそらく夏のニースでホテルを探しても同じようなことを経験するかも知れない。庶民的な日本のレジャーの楽しみ方とは違う。結局、ゲレンデ近辺のホテルは諦め少し山を下る。
10分ぐらい降ったところにドライブインホテルがあり泊まることにする。外に出ても全く何もないところだ。スイスに来たのだからとフォンデューを食べてワインを飲む。何故かかなり前にうちの親父が、どこからかフォンデューのセットを仕入れてきて、何遍か食べたこともあったのですぐそれに決めた。油を入れて、サイコロ状に切った肉や野菜を食べるものと、チーズを温めてパンでチーズを絡めて食べるものとあるのだが、この時はチーズフォンデューだった。
さて明日はスキーだ。スキーや靴は借りられる様だが、スキーズボンやヤッケは持ってきていない。スキー場ではおしゃれなスキーウエア-もいろいろ売っているが貸してはくれない。日本と違って最低一週間、一月くらい休暇を楽しむ富裕層の来るところであるから当然ともいえる。僕たちとしては一日のために買う気にはなれない。<つづく>

160425

まあまあ良い天気である。
風もなく落ち葉も少ない。
今年は数は少なかったが木蓮が咲いた。
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何時もの木にキノコ。
大きさもそれほどでもなく一つ。
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ハンズで価格調べ、
小物の購入。

インテリアの委員会
終わってコーヒーでおしゃべり。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
116 4/25
こんなに車の調子がいいのなら、西回りは少し無理かも知れないが、少しぐらい寄り道をしても大丈夫だろうと、頼まれた時計の買い物のこと、ダマスでお世話になったOさんが話してくれた本場スイスでのスキーの話、そんなことが一つになって、リヨンから進路を東にとりスイスに向かった。ヨーロッパに来てから国境はすこぶる簡単。パスポ-トにスタンプを押すだけ。黙っているとそれさえ省略されてしまう。
それにしても、今まで、車を通して世界が見てきたような気がする。登り坂、下り坂、エンジンを冷やした時間とそこの景色。車の調子によって変わる食べ物の味。車の苦労がなければ世の中もっとよく見えるだろうと思うのだが、車というフィルタ-がなくなってしまった途端、記憶に残る世界も消えてしまったのか、殆ど何も覚えていない。
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スイスに着いてからスキー場を探すことにしたが、できれば通り道の近くのスキー場をと考える。有名なスキー場は皆少し遠くて行きにくい。まあ滑れればいいやと云うことで、初めて見た名前であったが、サースフィーというスキー場に行くことにした。タイヤは新しいし多少の雪なら大丈夫だという言葉を信じて、チェーンも付けずに走る。<つづく>

160424

小雨が降っている。
今月も一週間を切った。
熊本の地震は収束に向かっているようだ。
高速道路の橋桁の事故は何が原因なのだろう。
理解できない。

中野たてもの応援団
白鷺の茅葺き民家お掃除会。
お掃除せずに雨戸の板を古板で直す。
ツツジの古木が満開。
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鷺ノ宮の駅は昔、極一時期、「御嶽前」という名前であった?
御嶽信仰の火祭りが行われていたことと関係があるのだろうか?
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夜、「若冲」をテレビで見る。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
115 4/24
そのままポンコツ置き場に持って行くだけかも知れないが、ともかく、レバンノンナンバーの廃車の手続きはやってくれるという。一応、車は200Fで買い取ってくれた。実は簡単に直せ、誰かが安く買って乗ってくれればそれはそれで嬉しいと思った。
買ってから実質約2ヶ月足らずで19500キロ走った。あと一日は知れば20000キロになったかも知れない。車に手を振ったってしょうがないのだが、思いの一杯詰まった車に手を振り、何度も振り返りながら後ろ髪を引かれる思いで修理工場を出る。
突然、宿なし児になってしまった気分である。このままでは動きが取れないので、レンタカー屋を探すとすぐ近くにあった。一番安い車はと聞くとフィアット850だという。フィアット500に乗りたっかったがその店にはなかった。トランクのスペースを考えると無理だったかも知れない。返却はフランス国内ならば、OKだという。ガソリン代は勿論別であるが、キロ数計算にして契約した。マルセイユからパリまでのおよその走行距離を調べマルセイユを出発。17時45分。とにかく北へと云うことで、その日はリヨンまで、何か分かれたアルファーのことを思って無口になる。涙が出てきて止まらない。フィアット850の方は、拍子抜けするほど静かに何も文句を言わずに走っている。走るのにも苦労しなくてよいのだ。
かなり遅い時間にリヨン着。Hotel Continental 42号室。そして次の日、僕たちは突然東に進路を変えて進み出した。<つづく>

160423

曇り空。
四月もあと一週間しか残っていない。
来週の後半からゴールデンウイークに突入。

何処へ行っても花が綺麗だ。
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古い家。
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大和小学校の碑。
鹿鳴館の門の礎石。
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ついでに大和小学校の正門を入ったところにある木とそのタコの足のような根っ子。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
114 4/23
次の朝早く、マフラーから奇音を発しながら街の中を走り、マルセイユのアビタシオンを見に行く。どうしても見たい建物の一つであった。ピロティを寒風がかなり強く吹きぬけいていた。
アルファー・ロメオの修理工場を探す。ホテルで大体の場所を訊いたおかげで割合すぐに見つかりサーヴィスの持ち込む。街の中の天井の高い鉄骨の建物。修理中のアルファーが沢山並んでいる。奥行きのある建物で、こっちに持ってきてと奥の方まで持ち込み、今までの状況を説明する。もう古いし、アラビヤ文字のナンバープレートだし、あまりなおす気は無さそうだったが、それでも熱心に随分時間を掛けて見てくれた。結果は「ひどく壊れている。殆どもうだめだ。直せと云えば直すが、最低でも1週間ぐらいはかかるし費用は分からない。」という。
ここで、一大決心をして、車を手放すことにした。とにかくもう少し何とかなると思っていたわけだが、どうにもなりそうもない。帰国しなければ行けない期限がある。一週間待っていたら、何処も行けなくなってしまう。何のために直すのか分からなくなってしまう。
しかたないので、車を引き取って貰うことにした。記念に何か部品を貰っていきたいというと、何でも持って行けという。荷物にならない程度と考えて、車の鍵が2本合ったのでそのうちの1本、シフトレバー、前面パネルにはまっていたアルファーの名前の入ったプレートを取り外した。アラビア文字のナンバープレートは何としても貰ってくるべきだったとあとで気がついたが、後の祭り。<つづく>

160422

雨もあがって良い天気だ。
先日まで温かだったがまた薄ら寒くなった。

福富稲荷 万屋清兵衛版「続江戸砂子」によると、
「室町うきよ小路」にあったとある。
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久しぶりに、
頭をなでさせてくれて、
写真を撮らせてくれたがいた。
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大成建設宇峻会新宿西口 Xian にて。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
4/22
1つは飛行機の切符の有効期限である。オープンの国際便の飛行機の切符は一年間有効である。テヘランから羽田までの切符は二人とも持っている。ヨーロッパからテヘランまでは意外と近い。活かさなければ日本に帰れなくなる。出発したのが昨年の4月10日。現在3月26日である。もう一つの理由は、両家の親たちが、結婚披露宴の場所と日取りを決め、案内状も送ってしまった。追加はないか?訂正はないか?と連絡が来た。
当初の予定では、スペイン、ポルトガルを回って、フランス北部に出て、イギリスで車を友人に渡す積もりでいた。しかし、かなりの強行軍。しかも今の車の調子ではかなり無理かなという思いが強い。真っ直ぐ北へ抜けてイギリスに渡るのも能がない。とにかくマルセイユまで行ったら車を直そう。直すのに日数も掛かるかも知れない。
フランスに入るとまたガソリンが高くなったような気がする。海岸沿いの平らな道を走っているのに3回もオーバーヒートをする。二人で行く先のことを話ながら走ったせいかこの付近のことは断片的にしか覚えていない。ともかく夕方マルセイユに着く。Select Hotel 455号室。街を歩くと海産物が多い。露店で採れたての生牡蠣を売っている。夕食はついつい牡蠣を注文してしまった。<つづく>

160421

曇りだが、午後から雨との予想も。
だんだん嫌な世の中になってきた。
戦前に逆戻り。

植木の整理。
3時頃から小雨。
JIA文化財修復塾のWeb会議。
JIAの近くで見かけた花。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
112 4/21
ジェノヴァにでてからはずっと海沿いの道である。しかし平らかというとそうでもない、モナコの辺りは崖縁をかなり上まで登る。車がまた一段と調子が悪くなる。何とかそこを越えてニースまで来ると砂浜と林立するホテルの間を平らな道路が続いている。今はシーズンオフで雑誌などで見る賑やかな様子はなく閑散としている。車もそれほど負担が掛からないせいもあって何とか走ってくれる。マフラーからキンキン云う音も滅多に出ない。このまま進みとにかくマルセイユまで行こう。その後どうしよう。
決めなければならないことが2つある。苦労してでも今の車を走らせていくかどうか。しかし、車の不調は僕たちの旅に対してかなり負担になっていることは確かだ。次の予定の処までたどり着けるか、どこか調子が悪くならないかに心の多くの部分を使ってしまう。でも、苦労する分、愛着が増していく。
もう一つは、これからのコースである。ミラノで日本からの手紙を受け取った。局止めで送って貰った手紙を受け取ったと思う。はっきり覚えていないがとにかく家からの手紙を受け取る。これもヒッピーから教わった。何処に泊まるか分からない旅をしている時は大変便利である。それによると、あと2週間ぐらいで東京に向かって飛ばなければならない。東京に戻らなければ行けない理由は2つあった。<つづく>

160420

良い天気である。
いつの間にか温かくなった。
裏のアパートはなかなか人が入らない。
剪ったと思うとすぐ後から繁ってくる。
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こんな屋根だらけでなく緑が多かったが。
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よそのうちのドウザン。
うちのは花が付かなかった。
ツツジ。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
111.4/20
明くる朝、朝食を食べてからアルファー・ロメオの修理工場を探して車を見て貰おうとするが休み。ミラノで見て貰うのが一番よいと思ったのだが、ヨーロッパなら何処でも何とかなるのでは無いかと、先を急ぐことにした。(第2回で、アルファー・ロメオをミラノで手放したと書いたのは記憶違い訂正した。)かみさんは、素敵なミラノの街にもう少しいたそうだったが、結局、3時過ぎにミラノを発ちサンレモまで行くことにした。ところが、道に多少起伏があり車の調子が悪い。それでもGenovaを通過する。
この車を持って行きたいロンドンの友人は、現在、Genovaに住んでいる。その時、ここに住んでいてくれれば車が届けられたのにと全く無意味なことをこれを書きながら考える。とにかく車の調子が悪く、走っては止まり、止まって騙しながら走る。夜の8時を過ぎ、サンレモには行き着けそうもない。Imreriaという町のHotel Italiaに止まることになった。明くる朝、食事して9時15分に出発。この町のことも、泊まったホテルのことも、ホテルの部屋4号室のことも全く記憶が無い。とにかくだましだまし先は進もうと云うことになった。サンレモを抜けてフランスに入る。<つづく>

160420-07.jpg 夕焼けの中のUFO

160419

天気も上々。
風もない。
4月も2/3が過ぎた。
地震が収束に向かってくれるとよい。
応援団として、応援団らしい救援、対象、具体的方法?
ご実家が熊本の震源の近く90年建つ家が大きな被害。
慌てて解体しないようにとしかいえない。

中央区図書館で調べもの。
人形町界隈。
建築塗装の店?なかなかの建物。
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「俺のフレンチ」にて。
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帰りの電車。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
110.4/19
Bolognaまでは往きと同じ道を通って、そこからミラノに向かう。
本当は、ローマ、ナポリぐらいまでは行きたかったのだが、車の調子が日増しに悪くなるので諦めた。この車を何としてもロンドンまで持って行きたいのだ。Bolognaからマルセイユまでは道も平らで何とか走った。フィレンツェを出たのが遅かったせいで、ミラノには夕方6時過ぎに着いた。街に入ったところはホテル街とは縁遠い区域なのか走り回るのだがホテルが見つからない。二人とも機嫌が悪くなってくる。ナビも無いから感で探すより他にない。とにかく街の中心部に行ってみようと云うことで、繁華街に入っていく。Hotel Manin を見つける。ちょっと高級そうだが、ホテル探しに疲れ果てて、まあいいやと飛び込んでしまう。(750号室)今回の旅の中で一番高いホテルということになった。車を預けて街の中を散策。歩いてドーモにすぐ行けたからかなり町の中心にあるホテルだったのだろう。
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素敵な街である。外装は昔のままなのに店の中は超モダン。アーケードの中のコーヒーショップで大きな緑の帽子をかぶった素敵な女性がお茶を飲んでいたのにつられて僕たちもお茶を飲む。2014年10月、40数年経って二人でミラノのアーケードを歩いたが、銀座の変わりようと比べると、入っている店は多少変わっていたが殆ど昔のままに見えた。時間のせいもあるのか多少人通りが少なくなっていたような気がする。車のことは明日にしておやすみなさい。<つづく>

160418

よい天気だ。
風も治まったが昨日は結構荒れて東京でも被害が出たようだ。

レポートのまとめ。
時間が掛かる。

剪定した植木の片付け。
まだ当分掛かりそうだ。
蚊が出てき。急ごう。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
109. 4/18
明くる日は、一日中フィレンツェ見学、かみさんは大学の卒業旅行でフィレンツェにも来ている。案内して貰うことにした。歩いているうちその卒業旅行に出っくわしてしまう。いくら卒業生と云っても大学生であるから、制服を着ているわけでもないので引率されている生徒だけを見ても、自分の後輩だろうとは分からなかっただろ。引率の先生を見てそれと分かる。
そして、この時始めてお会いした引率の永井先生とは、その十数年後にいろいろお付き合いさせて頂くことになることになるのだが、その時はそんなこととは思いもしなかった。
翌年の初夏に生まれた長女が高校に進学し、ひょんなことから、PTAの役員になり、会長になったが、永井先生が、奇しくも中高の校長先生になられ月一回の定例会と、様々なイベントで、お世話になることになった。
街でかみさんは靴を買う。履き心地がよいのか随分長いこと履いていたと思う。この日はくたびれてもう一晩、フィレンツェに泊まることにした。
フィレンツェ大会堂、礼拝堂や、捨子保育院など幾つかのブルネルスキの建物、パラッツォ・メディチ、サンタ・マリア・ノヴェルラ教会、ポンテ・ヴェッキオ、サン・ミニアト、サンタ・クローチェ、など覚えきれないほど見て歩く。個々の建物もさることながら街全体が一つの造形物だ。長い時間を経て、数え切れないほど多くに人たちが関わりながら創り上げられてきた。そこには先人達への敬意を伺うことができる。
明くる日、昼過ぎにフィレンツェを発ちミラノに向かう。ミラノに行けばアルファー・ロメオの本社がある。まだまだ先が長い旅のために車を何とかしなければの思いがあった。<つづく>

160417

恐ろしく風が強い。
雨滴も混ざっている。
低気圧が来ているが、
九州は大変だろう。
これ以上震源地が拡大しないで欲しい。

原発を稼働し続ける理由は、あり得る可能性を全く含まない現状のデーターのみによるもので、
そんな判断ならば誰にでもできるだろう。
唯一、予想めいたことは、
震度7の本震をこえる地震はもうないといいきっていることだが、
本震はその後で起きている
まあ、この度も、無能と無責任な発言の責任はとらないだろうが。

花の季節。
ムベの花。白い花もある。
葉っぱもいいね。
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うちの山吹は花が少ないけど、
こちらのお宅の山吹は満開。
八重ではないけど。
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連続しているので面白い。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
108. 4/17
次の目的地、フィレンツェに向かう。我々の車は、ゆっくり走っている時はまあまあ静かなのだがのだが、それでも常にオーバーヒート気味でだんだん車の調子がおかしくなってきた。イタリア半島の背骨を走っている高速道路をそうゆっくり走るわけにも行かない。この高速道路が結構上り下りのある山道ですぐ水温が上がる。上がったところで下り坂になればしめたもので、下っている間に水温が下げられる。しかし、登りっぱなしだとエンジンのパワーが見る間に下がってくる。路肩に止めて、ボンネットを開けてしばらく休憩である。しかし、ろくなところで止まらなかったのか何十回と止まった割にその場の景色など全く覚えていない。走ったり止まったりを繰り返すているうちにマフラーからキンキンという音も聞こえ始める。トンネルの中を走っていると火花が散っているのが見え、音が反響して響く。並んだ車の運転手がこちらの顔を見て抜いていく。
それでもPadova, Bolognaを通って、夕方遅くフィレンツェにつく。何故かいきなり車が繁華街に入ってしまった。どの街についてもホテルが見つからないと二人とも機嫌が悪くなるのが分かる。この時もこれはまずいと思った。しかしついていたのか不思議なことにこの時は意外とすぐにホテルが見つかる。それも便利そうなところで手頃なホテル。チェックインする。Hotel Mediterraneo 321号室。<つづく>

160416

曇り。
浅草木馬座
ヤマセンの「でえく」上田さんと山田さんも来ていた。
泥鰌を食べてから、
有名居酒屋「正ちゃん」の煮込みでホッピーもう一杯。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
 4/16
運河沿いのレストランに入る。何時、何を食べたかはあまり覚えてないが、この日の夕食だけは何故かよく覚えている。ボーイが慣れた手つきで二人の皿の上のヒラメの骨と身を分けてくれたからだと思う。
次の朝、午前中はベニス見学。サン・マルコ広場、サン・マルコ教会堂、総督邸、カ・ドロ・ヴェネチア、サンタ・マリア・デルラ・サルーテ教会堂、パラッツオ・ペサロ、サン・マルコ図書館、パラッツォ・ヴェンドラミニなどを見て歩く。小さな丸いロンデルガラスを意識して見たのはその時が初めてであるが、なんでその小さな丸いガラスをつなぎ合わせて窓がつくられているかを知るのはずっと後のことである。当時、ベニスの洪水や、街の沈下などそれほど大きく取り上げられていなかったように思う。それまでにも実際にあったかも知れないが特に調べてはいない。しばらくして、National Geographic でベニスの洪水の記事を読んだ。
昼を軽く食べて、ベニスを出発する。駐車場に着いて、二人は同時に車のトランクに手を掛けた。やはり鍵を掛けずに残しておいた荷物が心配だった。トランクを開ける、勿論、鍵は掛かってないからそのまま開く。開けてほっとした。荷物は入ったまま何一つ盗まれていなかった。まあ、普通だったら車のトランクを一つずつあけてみる人もいない。たまたまそういうことをしてみる不心得の人に会わなかっただけ幸運かも知れない。アラビヤ文字のナンバーの車であるが、どうみてもサウジの大金持ちの車には見えないし、興味を引く車でもない。そうはいってもやはりよかったと安堵した。盗難に遭えば気分悪いし、想い出の品も多少は詰まっている。<つづく>

160415

青空で陽が差しているが風も強い。
落ち葉が遠くまで飛んで行ってしまう。

我が家は、何故か今年は、花が少ない。
木瓜が二つに木蓮が一つ。
沢山咲いたのは海棠のみ。
昨年は南側の木の剪定が遅く日が当たらなかった。
海棠は東にあり、南にあった木斛がなくなったので日当たりがよかった。
花の後の時期に陽が当たらないと花持ちが悪くなる。

今日はインテリアの会議。
伊勢丹前にて。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
106. 4/15
明くる朝、11時出発。ユーゴスラビアの国境を通りイタリーに入る。ついにヨーロッパに着いたなと実感する。午後2時過ぎにトリエステを通過。ベニスという都市名の入ったの案内板が出てくる。道路の様子も右左の違いはあるが日本とそう変わらなくなってきた。やがてベニスの街の近くに到着する。どうも車は街の中に入れられないらしい。市営の大駐車場があり、そこに車を止める。駐車場から街までは少しある。街に着いてからホテルも探さなければならない。当時、まだトランクの底にキャスターは付いていない。付いていたとしても石の舗装の道を引いていくのはかなり難儀である。必要なものだけ持って、残りは車のトランクに置いておくことにした。ギリシャの国境でトランクのロックは壊されたままである。イタリアは泥棒の多い国で南の方ほどひどいと昔から聞かされていた。この辺りは南ではないだろう。盗られたら盗られただと、ロックが効かないだけで何とか閉まっている。開けてみなければロックされてないことは分からない。幸運を祈って、手荷物だけ持って街に入る。2,3軒目で手頃なホテルが見つかる。部屋には窓があるがガラリの戸が閉まっていて薄暗い。開けてみると多少光は入ってくるが、細い路地の向かい側の家の壁が見え、同じように壁に付いたガラリが皆閉まっている。ガラリ戸を元に戻す。部屋の中は薄暗いのだが、まだ4時半で夕食の時間までは間がある。僕は外国旅行は始めてだが、かみさんは大学の見学旅行できたからイタリーは2度目だと云うことで、何となく気が楽になる。少し街の中を歩く、運河に面して家が建ち家々から直接船に乗れるようになっているから、運河と地上の道の間に建物があり運河沿いの道というのは殆どない。ゴンドラが通りよいように中央が高くなった橋を渡る時に運河を眺められる。何処も絵になる風景である。様々な時代の建物があるのだろうが、歴史的な町並みに外れているものは無いように見える。世界的な観光地だとしても、これだけ面的に旧状を保つのは大変な努力だろうと思う。日本の古い町並みで有名な観光地に行くと、多くの場合古い町並みが部分的に残っているに過ぎない。多少まとまって残っていてもその隣に興ざめする建物が建てられていることが少なくない。親父の友達の須田さんという画家が「ベニスの水は綺麗だという人と汚いという人がいる」と云っていたが分かる気がする。<つづく>

160414

天気予報では朝のうち雨のち曇りとなっている。
もう雨は止んでいる。

熊が和布を届けに来てくれた。
中野たてもの応援団事務居局と打ち合わせ。

熊本で大きな地震。
震度7。
大きな被害が無ければよいが。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
105. 4/14
出てきた料理は忘れてしまったが、ジャガイモが付いてきたことは覚えている。クラシックな感じのする薄暗い天井の高い食堂で大勢の人たちが食事を楽しんでいた。ワインも食事も悪くなかったと思う。
明くる朝、早めに起きて、街の中を歩いてみる。街の感じは、まだヨーロッパに足を踏み入れたことがない人間が言うのもおかしな話だが、ヨーロッパ以上にヨーロッパという感じがする。映画や本で見てきたヨーロッパなのだ。かなり最近になって、ウイーンやプラハに行った時に感じたものと似ている。
多分、ヨーロッパも東京ほどではないにしてもどんどん変化している。それが、共産圏ではその変化がストップしてしまっていたに違いない。確かに街全体の雰囲気はそうなのだが、よく見るとそうとばかりはいえない。繁華街の幅の広い石畳の歩道には地下街に降りる屋根なしのエスカレーターがあったりする。多分、外部の屋根なしエスカレーターは日本にもなかったのではないかと思う。少なくとも僕は初めて見たと思った。ふらふらと街の中を歩き、バックスキンの茶色の上着を買う。少し大きめで気に入って随分長いこと着ていたが、あれはどうしたのだろう。もうずうっと見ていない。少しゆっくるして十時過ぎにベオグラードを出発。
ザグレブまでの道。周りの景色は素晴らしいのだが、車の振動が凄い。道の大部分が石畳なのだ。いわゆるピンコロと呼ばれる一辺が10㎝程の立方体の石を鱗状に並べたもので、見た目は風合いがあって良いのだが、車で走るにはあまり適しているとはいえない。泥濘よりはよいとしても馬車だってやはりかなり振動があるのではないだろうか。アルファー・ロメオののショックアブソーバーがかなりへたっていたのかも知れないが、ともかくがたがたと凄い振動である。アルファーロメオは坂道でないからエンジンの方は支障なく動いている。とにかく随分世話が掛かる自動車である。しかしその分だけ可愛い。ガタガタ道を全身ふるわして走っていると身を切られるような思いがする。タイヤも心配である。夕方、ザグレブの街に着くが、ベオグラードと違って小さな町である。タイヤ屋にも寄ったが、合うサイズのタイヤはないという。再度パンクしないことを願って走ることにする。今にして思えば、サイズが少し違ってもホイールに合う古タイヤを装填して貰えば安心感もだいぶ得られたような気がする。ホテルらしい建物もないままどうやらザグレブの街を行き過ぎてしまったらしい。街まで戻ろうとUターンしやすいところを探しているうちに、モーテルがあったので、その日はそこに泊まることにした。ベオグラードの街の中とは違って、妙に現代的な造りだったような気がするが、今と違って、デジカメはないので泊まったホテルの写真は何処も全くといってよいほど撮ってない。<つづく>

160413

どんよりとした天気。
天気予報によると今日は何とか持ちそうである。
千駄木の安田邸で防空壕を公開していると云うので見に行く。
畳廊下から入る。
大谷石の立派な防空壕。
奥の部屋から外にも出られるようになっており、建物内からの入り口、
外からの入り口ともに鉄の扉が閉められるようになっていたらしい。
中に入って隠れることも想定していたのか?
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二階の客間からのしだれ桜。
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2度目なので、小物少々。
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安田邸の近くで。
①こんなに剪定してもよいのか?
②二階が増築されていたが1階は装飾も凝っている。(島薗邸)
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ザクロを剪定。
季節的にちょっと遅かったか。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
 4/13
ガソリンスタンドでタイヤの修理を頼むが、傷が大きくチューブの修理だけではだめで、タイヤを交換する必要があるという。確かにかなりの長さで裂けており、裏当てをするぐらいでは上手く行きそうもない。そんな傷を受ける衝撃は無かったと思うが鋭利な金属片でも踏んでしまったのだろう。サイズの合うタイヤがないというので、タイヤを売っているところを探すことにして、スペアタイヤのない不安を抱えたまま走ることにする。
もう一度パンクしたら大変だと思いながらも、周りの景色など見ていると急にヨーロッパの中を走っているという実感がわいてきた。Nisを通り、19:15頃、ベオグラードの街に入る。行き当たりばったりToplice Hotelに飛び込む。古風なヨーロッパ風のホテル。ユーゴスラビア語は勿論分からないが、ホテルのカウンター以外はドイツ語はしゃべるが、英語は殆ど通じない。我々二人とも第2外国語がフランス語だからドイツ語はからっきしだめ。ともかくチックインして、鍵を貰いエレベーターに乗った。若い女の子が英語で話しかけてくる。ゆっくり動くエレベーターに載っている間、そしてエレベーターを降りると荷物を運んでくれ、その間、真剣に話したい様子だった。非常に短時間だったが、当時のユーゴに対する不満や西側社会へのあこがれのようなものを強く感じた。彼女がどういう民族に属し、どういう境遇にあるかは全く分からないが見た感じはごく普通のヨーロッパ人に見えた。その後のユーゴスラビアと西側との交流が開かれた状況、そしてその後の内戦・分裂の状況、そんなものが一度に頭の中にわき上がって来る。
ホテルの食堂で夕食。メニューが全く読めない。ユーゴスラビア語かドイツ語で説明してくれるのだが益々分からなくなる。そういう時は人の食べているもので美味しそうなものを指さして「あれ」と注文することにしている。実にそれに限る。<つづく>

160412

まあまあよい天気。
車で出かける。
道も空いている。
まだ雪が残っている。
北の唐松林はかなり荒れている。
建物の中に入り込んで障子を駆け上ったのは誰だ。
爪痕が残っている。
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雪は残っているがもう春だ。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
103. 4/12
11時にギリシャの国境に到着。11時15分にはユーゴスラビアに入り山間を順調に進む。羊腸とした山道なのだが、その道路標識の繊細さに少なからず感心させられた。山道の所々が追い越し禁止になっていたり、解除されていたりする。曲がり道でも追い越しを掛けて少し走ると前方の様子が分かるような処は追い越し禁止になっていない。反対に見通しが効きそうだが、その先の曲がっているところから対向車が現れ、追い越すことが難しい処は追い越し禁止になっている。走っていてその絶妙な使い分けに感心する。かつては、日本の山道もユーゴスラビアと同様に使い分けられていた。但し、ユーゴ程繊細でなく、追い越しを掛けると前方から車が突然現れたり、楽に危険なく追い抜けるところでも曲がっていると云うだけで追い越し禁止になっていた。だから事故が多く、山道は全て追い越し禁止にして仕舞ったわけだがそれもどうかと思う。しかし、今になって思うと、あの凄まじい使い分けの隙のなさ寛容のなさこそ、チトーなき後ユーゴスラビアを崩壊に導いてしまったような気がする。
その頃は、ヨシップ・ブロズ・チトー(死亡は1980年)は、まだ健在で、ユーゴスラビアは一つにまとまっていた。トルコのムスタフ・ケマル。アタチュルクと同様もの凄くカリスマ性のある支配者であったのだと思う。二時間ほどで、スコピエの横を抜けてさらに北北西に進む。
突然、ハンドルが取られる。降りて車をみるとパンクしている。タイヤを交換をする。<つづく>

160411

よい天気になった。
温かいのだが風が強い。

シイノキⅤの剪定。
何日か前の手つかずの姿。
剪り終わって。
今年の大物は終わり。
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木は上手く剪ると時間を掛けて傷口をふさいでしまう。
たいしたものだ。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
102. 4/11
寝てでも居ると思ったのかアクセルちゃんと踏んでる?という、ちゃんと踏んでいるよといっている間に惰性で走っていた車がついに止まってしまう。夕闇も迫っている。一瞬またかと背筋が寒くなる。それでも惰性を利用して路肩に寄せる。ボンネットを開けて点検する。オーバーヒートかと思ったが、水温は定常通りというか少し高いくらいである。プラグのコードとか、しばらくチェックしていると、コイルとデストリビューターを結んでいる電線が裏側の見えないところで外れている。裏側の手を入れにくいところなので、ベールートであちらこちらいじり回しているうちにしっかり繋ぐのを怠ったらしい。線を繋いで、掛かってくれよとセルを回す。1度目は空回り、そして間をあけてからもう一度回すと、エンジンが掛かる。こんな人里離れたところで動かなくなってしまったらとほっとする。動き出したあとは上り下りははないので順調に走ってくれる。ギリシャもこの辺りはあまりギリシャらしくない。少なくとも走っている道の両側は今までとあまり変わらない。イスタンブールを出たのが8時40分、サロニカ着20時10分になってしまった、それでも約650キロ走っている。
サロニカは翌朝出発してしまったので殆ど何も覚えていない。この辺りも崖の上の修道院で有名なアトス山がある。三本の指のように突き出て半島の一つにあるらしいが入山にはいろいろ条件があるらしいのでやめる。ホテルはヴィクトリアホテル316号室。翌朝9時サロニカを出発。<つづく>

160410

雨は降っていないがどんよりしている。
下小代の桜祭りに久しぶりに出かける。
160410-01.jpg 駅の陸橋の上から。

エドヒガンザクラは満開。
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人も結構でている。
国の登録文化財 下小代駅も健在で活躍している。
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懐かしい人たちに大勢会う。
大谷石研究会の理事長にも会う。

帰りに大谷石の工場を見つける。
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その近くの大谷石の鳥居、
3.11で倒れたが、再建されていた。
仕上げが綺麗すぎるなどと文句は言わない。
そのうち味が出てくるだろう。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
 4/10
朝の8時40分にホテルを出発。数ヶ月前にギリシャ行きの汽車に乗った駅の前を通って、イスタンブールから西に向かう。イランの国境を出発して、約4000キロちょっと走ったことになる。トルコの国境を抜けギリシャの国境で手続きをする、ここからがヨーロッパである。シリアの車だというので麻薬を運んでいるのではないかと厳しく調べられた。国によっては、トランクをちょっとあけて覗くだけの国境もあったが、トランクの中身は全部出さされ、エンジンルームから車の底を見るのはよいが、ドアの内張を無理やり剥がして調べる徹底ぶり、納得したのかしないのかは分からないが、首をかしげながら通してくれた。それだけ中近東から車を使って麻薬を運搬している人が多いと云うことだろう。最後によしと、降ろした荷物を積み込んでトランクを閉めてくれたのはよいのだが、荷物がつかえているのに、力任せに強引に閉めたものだから、トランクのロックが壊れて効かなくなってしまった。駐車しても大切なものは持ち歩かなければならなくなるし、被害甚大である。ぐずぐずしているとまたどこか壊されそうなので、一言二言文句を言っただけで、国境を通過する。今日の予定は一応サロニカまで。ギリシャに入るとガソリンが急に高くなる。そういえば、今まで産油国の中を旅していたのだとつくづく思う。
また次第に車がオーバーヒートするようになってきた。しかし、慣れるとそんなものだと思いながら走るとそれほどやきもきしない。ということでそれなりに順調に走っていた。林の中の比較的平らな静かな道、オーバーヒートなどしそうもないところで突然車が失速を始めた。アクセルを踏んでもエンジンに伝わらない。エンジンの力がどんどんなくなっていく。<つづく>

160409

今日もよい天気
シイノキⅢⅣの剪定。
シイノキⅣがまた少し明るくなった。
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ここ数日で少しずつ向こうが透けてきた。
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講談社現代新書
『警察捜査の正体』原田宏二著(元警察官部)
TV映画だけでは分からないことがいろいろ書かれている。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
100. 4/9
何となく下り坂になり、建物も増える。唄で有名なウスクダラの街に到着。ボスポラス海峡には、だいぶ経ってから日本も協力して橋ができたらしいが、1970年の時点では橋がまだなかった。40分ほど待ちフェリーで海峡を渡る。もう辺りは暗く、対岸のイスタンブール街のモスクのミナーレットの突き出た黒いシルエットの中に灯が瞬いていた。アンカラを出たのが遅かったこともあり、イスタンブールに着いた時には21:00を廻っていた。一人旅で泊まったGeji Hotelに行くと泊まれると云うことですぐにチェックイン。ずっと後のことだが、2005年に地下建築の国際学会の発表でイスタンブールに来た時もこのホテルに泊まった。この年は同じ時期にUIAの大会がイスタンブールで開かれていた年でもある。この35年経って、イスタンブールを訪れた時、この街が大きく変わってしまったのではないかと心配していた。確かに地下鉄が通り、高速道路ができていたが、旧市街はその良さを残して発展していた。35年後のときには、カッパドキアを訪れ、ミナム・シナンのモスクを見て歩いたが、このときはシナンの名前も知らなかった。古い市街地が当然残すべきものとして残されているのを見ると、東京の35年の経過との違いをつくづくと考えさせられてしまった。日本は経済的発展は遂げたかも知れないが、もっと真剣に諸外国に学ぶべきことがあるはずだと思う。
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明くる日、アヤソフィアなどモスクを見てバザールや街の中を見て歩く。バザールで彼女は白いラムスキンのコートを僕は革のサンダルを買った。もう一泊Geji Hotelに泊まる。<つづく>

160408

よい天気である。
高枝切りで枝を下ろす。
空が見えるようになった。
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中野たてもの応援団の
ガード下の展示「門・塀・生垣」をじっくり見てださる方々がいる。
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東中野から青梅街道史跡めぐりコースを歩いてみた。
山政醤油製造所の煉瓦壁が移築されている。
フランス積み。
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白玉稲荷は、別の場所に移されている様だ。
何故か猫が入り込んでいる。
狐の罰が当たらなければよいが、
それとも仲良し?
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中野の塔という三重の塔があったらしい。
江戸名所図會の一場面が石碑になっている。
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家から中野坂上まで自転車で巡り歩いてみた。
痕跡が残されていないものが多い。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
099. 4/8
トルコの首都であるアンカラの街も探せばいろいろ面白いのかも知れないが、一見あまり特徴のない現代都市である。少なくとも旅の間持ち歩いて参考にした『西洋建築史図集』にはアンカラの建物は載っていなかったように思う。アメリカのワシントンとニューヨークのように、トルコではイスタンブールが繁栄し、アンカラは官庁の集まった静かな街に思える。首都だから日本の大使館がある。この大使館の構造計算をしたのが岳父だという。大使館を探して見に行く。柱が太いことで知られることだけあって、此処もしっかり柱梁が太い。
ssolo20014.jpg アンカラの日本大使館
大使館を見てからアンカラを出発する。12:45。イスタンブールまで500キロぐらい。東京-京都の距離である。道路は緩やかな山の背を走っている。草原にサフランの花が見事に咲いている。花をつまんでまた走る。都市に近づくと人家が増え、隣の緩やかな尾根の斜面にびっしりと斜面の形状通りに家々が建っている。日本の場合、谷側から開発され尾根筋は最後になり多くの場合、多少緑が残るのだが、此処では山の背から人が住み始めるのか根本的に違う不思議な景色に見える。幾つも重なる緩やかな丘陵を家々が覆う姿は、トルコの町並みの特徴だと思っている。そういえば道路も沢筋でなく尾根を走っている。おそらく日本では水を谷に求めたのに、此処では谷は水がある場所ではないのかも知れない。家々のなす緩やかなスカイラインの所々に月のマークを飾ったモスクのミナーレットが見られる。やがて家々に明かりが灯りだし、前方に海が見えてきた。イスタンブールはもうすぐだ。<つづく>

160407

朝から雨。
暗い。
昔、TBSのラジオ番組で、新聞の読み比べというのがあった。
そんな番組が今こそあっても良いような気がするほど、
新聞に記事に差がある。

コクヨの セ-Y3 緑色のSKETCH BOOKがなくなったので買いに行く。
1.2mm芯のシャープペンシルも欲しかったのだが見つからず。

新書を一冊買って帰る。
新宿南口の高層駅ビルができた。
汚かったガード下が整備された。
エレベーターは地下へ行くためのものらしい。
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新聞によると、
裁判結果にも差がある。
特に原発に対する判決は、
判決が出る度に180度逆になる。
裁判長が自分の思い込んでいる誤った「社会通念」で判決を下したことに対し、
新聞が批評している。
原発に対して批判的な判決をした裁判官は飛ばされるという。
ある程度、最高裁は大局から見た判断が必要だとも思うが、
大局ではなく、政府が自分たちの都合に合わせさせるのだから、
とても三権分立の成り立っている民主主義の世の中とはいえない。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
098. 4/7
明くる朝、朝食も番匠谷さんとともにし別れを告げ、8時10分アレッポを出発。
シリアの国境を抜ける。15分ぐらいで通過。トルコの国境は25分ぐらい掛かるが問題なく通過。暫くは南の海沿いを走る。Reyhaniyao, Antakya, Iskenderon, Adanaなどを通りアンカラまで行く。カッパドキアの近くを抜けているはずだ。この日の予定は結構、距離があった。780キロぐらいか?
この旅行での道案内は、昔から家で父親が取っていて、今もとり続けているNationl Geographicに挟まってくる地図だ。中近東からヨーロッパまでの地図をかなりの枚数持ち歩いていた。道や名前も正確で詳しく鉄道もでていてヒッピーとの情報交換にも役に立った。
海岸線から離れて北上する。交通量は極めて少ない。前にも後ろにも車一台人っ子一人見えなくなることがしょっちゅうである。対向車にもしばらく会わずに走っていることもあった。大きな湖があって、沈む夕日が湖面に映えて素晴らしかった。その交通量が少ないところで、何故かパトカーが後ろから走ってきて、追い抜いてくれない。ヨルダンの軍隊のトラックのこともあり、静かに運転を続けていた。1時間ぐらい一緒に走っていたと思うが、そのうち気がつくと居なくなっていた。あとは交代でひたすら走り続ける。陽はとっぷりと暮れた。カッパドキアは分からず仕舞いで、いつの間にかアンカラに到着。20時10分、バリン・ホテル泊。<つづく>




160406

よい天気である。
シイノキⅣの剪定。
明日で終わる。
晴れてくれれば。
でも天気予報によると明日は少なくとも半日は雨。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
097. 4/6
しかし予定が狂ったおかげで、忙しい番匠谷さんに夕食前に会うことができた。お勧めのフランス料理のレストランでワインを飲みながらゆっくりと食事する。料理も美味しいしなかなか美味しワインだ。何年か後に、番匠谷さんが日本に一時帰国をして、プリンスホテルでパーティーを開いた。ワインを選んで注文したのだが、その値段が、一桁違っていて驚いていた。最近は日本でもワインを飲む人が増え値段のそこそこ下がってきたが、その頃は輸入ワインはまだまだかなりの贅沢品だった。
番匠谷さんで思い出すことがもう一つある。この一時帰国の時であったと思うが、その頃まだ一般的でなかった低価格の飛行機を利用して往復の予定であり、航空券も往復で購入し日本に来て、用事を済ませて、予定の日にシリアに帰ろうと思って空港に行ったら、飛行機がない。予定の便の掲示もない。有名な詐欺組織による詐欺だった。往復する国と関係ない国の飛行機を使い、そことも関係ない国の会社で運航をするなどと仕組むと何処の法律にも触れないらしい。しかも、往復で普通の航空運賃の片道よりも安いので、とことん追い詰められないらしい。しかし、ともかく空港に行ったらその便はなく、飛行機もきていないというのだから驚いてしまう。
アレッポでお会いした日は番匠谷さんと同じホテルに泊まった。ごちそうになってしまう。<つづく>

160405

天気予報は曇りなのに、
小雨が降っている。
先に外出の用事を済ませよう。
出かける頃には雨は止む。
上野の都美術館で明日まで開催中の第13回キルト日本展 入賞作品展へ行く。
上野は桜が真っ盛り。
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旧因州池田屋敷表門の前を通り、池にはいる犬を見て、科学博物館の前を通って帰る。
この門は鹿鳴館の門と同じ格式の門だという。
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残っていた枝を落とす。
昨日との比較。
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中野たてもの応援団のガード下展示を見て、
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JIA中野地域会総会支部長ら支部大会の説明に来られる。

タイ料理の店で懇親会。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
096. 4/5
地中海沿いに北上する。トリポリ辺りは海が綺麗だ。風車のある塩田がある。
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しばらく走るとレバノンからまたシリアに入る。ラタキア経由でアレッポに行く予定であったがラタキア付近で道間違い。気がつくと確かさっき走ったところをまた走っている。直角でない分岐点を何遍か曲がったているうちに大回りをしてもとの道に戻ってしまったようだ。90キロのロスだ。こんなことならハマの街にも寄れたかも知れないと残念に思う。ともかく今日はラタキア泊まり。セミラミスホテル。
次の朝、比較的ゆっくり10時近くにでて、アレッポに昼過ぎに着く。途中の景色が素晴らしかったとメモにあるが、残念ながらどんな景色なのか覚えていない。今度はファンベルトが不調。原因がはっきりしているものはすぐ直る。
番匠谷さんと連絡が取れ夕方会うことになり今夜はアレッポ泊まり、ホテル・ラムシスにチェックインする。アレッポでの番匠谷さんの滞在中のホテルである。夕方までの時間アレッポの観光巡りをする。アレッポ城を見て、モスクを見て、スークで買い物をする。アレッポ城はイスラム特有の城の典型的な形を持ち、急斜面の上に城壁があり、城門の作り方も特徴がある。アレッポ城は外部はよく旧状保っているが、内部は廃墟と化し草が茂っていた。
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城の高台からアレッポの町が見渡せる。
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イスファハンやダマスと同じようにらくだ色をした街だ。人気のない城の中で二人でのんびりと過ごす。早くヨーロッパへと気は焦るのだが、イラン以来、ファルダー(明日)とインシャーラー(神の御心のままに)に慣れてしまった。<つづく>

160405-06.jpg 国立博物館の前の池に入って楽しむ犬。






160404

珍しくかなり激しい雨。
東京の桜は昨日で終わりかな。
昼には雨が上がりまた植木屋。
クスノキ中を東西から攻める。
下から見ると
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2階から見ても、
少しは軽くなっている。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
095. 4/4
シリアの中を北に進んでもよいのだが、やはりレバノンも案内したい。峠を越えてベールートに向かう。ところが峠がなかなか越えられない。少し急な登りがつづくとオーバーヒートする。ボンネットを開けて、5分か10分、冷やしてまた走る。数回繰り返して何とかベールートに到着。このままでは先が思いやられる。アルファーロメオのディーラーのサービスに行くが休み。しかたなく、数ヶ月前にNさんから車を買う時に泊まったニューハムラホテルにチェックイン。その時、Nさんにアルファーロメオの部品を売っている店を教わったのを思い出して行ってみるが此処も休み。まだ明るいが中途半端な時間である。しかたないので、二人で映画を見て夕食を食べる。
次の日、ディーラーに持って行くが、日にちも費用もかなり掛かりそうなことを云う。アラブの国では約束した日よりも延びるのが当たり前。修理を頼むのを見合わせて、一日中自分でいろいろ車を修理してみる。イランからイラクの国境を越える時、デストリビュータを調整したら上手くいったのでやってみたがさしたる効果はない。雨も降ってきた。もう一日ベールートに泊まることにして、明くる日、ホテルの近くでおじさんが一人でやっている修理工場に持って行って見て貰うことにした。修理には結局一日半かかり、ベールートをスタートできたのは13日の昼過ぎになった。ベールートは居心地のよい町で時間を潰すには困ることはなく時々ガレージに車の様子を見に行って過ごした。修理工場のおじさんがいろいろ調べ、調整し、シリンダーの吸排気バルブを交換してくれた。一カ所のバルブは熱で端が焼けてしまい隙間ができ十分塞ぐ機能を果たせない状態になっていた。ガレージのおじさん掛かりっきりで本当に親切に修理してくれた。費用も60L.L.と思っていたほど掛からず、車のパワーはかなり改善された。<つづく>

160403

今日は荻窪のS邸で花見があるというのに、
小雨が降っている。
長靴を履いて昨日なくした剪定はさみを探す。
嬉しいことに出てきた。
雨で濡れていたがまだ錆は出ていない。
植木屋さんもお休み。
近所の桜が満開。
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雨もあがって、荻窪で花見。
見事なソメイヨシノ満開。
山桜も殆ど満開。
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二階からも。
お庭。
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ボケも満開
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来年も宜しく。
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妙正寺川沿いの見事な桜。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
094 4/3
今日は金曜日、仕事は休み。Oさんの家族とダマス見学に出かける。最初にウマイヤモスク。モスクとしては大変古い(705-715)もので細長い中庭がある。礼拝室も細長い。大きなドームの空間はないがかえって方向性が定まっており親しみやすい。内戦でかなり傷んだようなことが報道されていたが、大丈夫だろうか。その後、国立美術館に行く。中庭があり、鉛板を張った小ドームの屋根が並んでいる。観光客も少なく静かな落ち着いた美術館である。
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バザール(こちらではスークと呼んでいる)の中をふらふら歩く。賑わっているが品数は少なく外国人観光客もあまりいない。やはり時々ベールートに買い出しに行きたくなるのが分かるような気がする。一度Oさんのアパートに帰り、Oさん家族と一緒にピクニックに出かける。
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ダマス郊外の山裾に川が流れている。街のつくりもらくだ色だが、家がなくなると殆ど緑がなくなり辺りが全てらくだ色になる。道路の脇に並木が植えられているところや、野菜の畑もあるが、地の色の印象が強い。その山裾の川が幅数十メートルから数百メートルで深さ数十メートルの溝をつくっている。川はその中を流れていて水は綺麗だが水量はあまりない。そして川の両側が平らな緑の草原になっていいるのだが、疎林もあり上から見るとエデンの園とはこんな景色からイメージされたのではないかと想像してしまう。緑の草原は川の両側に帯状に繋がっていているのだが所々で広がりを見せており、人々のささやかな行楽地になっている。我々も草原にシートを広げ手お弁当を楽しむ。
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できればダマスでもっとゆっくりしていたいが、まだまだ行きたいところが沢山ある。番匠谷さんとも会いたい。翌朝8時30分ダマスを出発する。1970年3月9日。<つづく>
sDamas0011.jpg お世話になったOさんの家族。

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雨は降ってないが曇り空。
気ばかり焦るが一向に進展しない。

モッコクに最終的に手を入れる。
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ボケが咲いたが今年は花の数が少ない。
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シイノキの洞
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今日はクスノキ中の西半分の枝を落とす。
また剪定鋏をなくした。
もう暗い探すのは明日の仕事にしよう。
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
093. 4/2
誤解が誤解を生む場合もあるし、ちょっとした行動の間違いが思わぬ悲劇を生む場合もある。何事もなく上手く収まってよかったとしばらく経ってから思う。ヨルダンに入りアンマンを素通りし特に問題もなくシリアに入る。イラ・イラ戦争の時もそう思ったし、イスラム教国による紛争が激化してからも思うのだが、よい時にこの辺りの国を旅できたと思う。紛争がなかったわけではない。街の中にタンクが止まっていたり、国境で丸一日留め置かれたり、多少驚かされることや不便なことはあったが、さして旅に差し支えはなかった。国境を越えて百キロそこそこでダマスの街に入る。手紙で貰った住所を探す。慣れもあって比較的すぐ見つかる。集合住宅の2階か3階だったと思う。大きなテラスがある。
テラスから見下ろした僕たちの車とダマスの景色。聖書のソドムとゴモラの話の中でロトがふり返った丘ともいう。
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結構,ゆとりある広さで、ご厄介になることになった。やはり、番匠谷さんとの同居と違いのびのびと生活をエンジョイしている様子がうかがえた。Oさんが清家研究室の先輩なだけでなく、O夫妻と我々二人は昔からの知り合い。Oさんの奥方がシリアの生活状況や、町の様子など、うちの奥さんが最近の日本の情報を提供する。話は尽きない。
夜は町に出てフランス料理を食べる。パリにはかなわないけれどもかなり手を掛けた美味しいオニオンスープが食べられる。番匠谷氏は今シリアの北の方に出張中だと云うことで、トルコに抜ける途中で会えそうである。上手い具合に明日は休日だという。改めてダマスを案内して貰うことになった。<つづく>

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四月になりました。
今日から『日本キルト展』が都美術館で始まりました。
4月6日までです。
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家内の作品も出ています。
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作品集も出版されています。
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花曇り。
東側の垣根の刈り込み。
こっちはほどほどの長さだからいいんです。
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イッキン会
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 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
092. 4/1
銃を手にバラバラと我々の方に駆け寄る。そして、周囲から囲むように銃剣を突き付けられた。生まれて始めたの経験である。手を伸ばせば触れる距離に何十とこちらに向けられた銃口がある。不思議と恐怖感はそれほどなかった。何も悪いことをしているわけでもない、なんだ、どうしたのだと聞く。今、写真を撮っていただろうという。確かに撮っていたという。何で撮っていたのだという。綺麗な景色をバックに彼女を写真を撮っていたという。此処は撮影禁止だ!!! 知らないのかという。知らなかったと答える。とにかく此処はだめだという。所々に撮影禁止の立て札があったらしい。アラビア語に併記して英語でも書かれていたらしいが、100キロぐらいで飛ばしているのだから読めるわけがない。でもどうして此処が?と、写真を撮った方をよく見ると草が生え緑のあるなだらかな起伏に見えたものは弾薬庫か何かの軍事施設らしい。
パスポートを見せ旅の目的などを話しているうちに、日本人だと分かり彼らの目もそれほど険悪でなくなってきた。カメラからフィルムを取り出してそのまま渡そうと思ったが、それを現像するまで留め置かれたのではたまったものではない。
あとから考えると、証拠隠滅ととられてもしょうがないが、フィルムの端を持って、引っ張り出す操作をして見せ、それで良いかというと、チーフらしい英語のしゃべれる兵隊が、OKという。エクタクローム36枚撮りフィルムには、ここ数日間の写真が納まっている。消えてしまうのは残念だったが、それで済むならとフィルムを全部引き出しわたすと、それを受け取った。何か二言三言、我々に注意を与え、兵隊達に車に戻るように命令し、最後に早急に此処を立ち去れと指示された。云われなくとも早急に離れたい。
車に戻り、走り出す。2台の軍用トラックは、我々の車のバックミラーからが見えなくなるまでそこに止まっていた。起伏がある道であったため数キロで見えなくなった。真っ平らな道だったらどうしたのだろう。<つづく>

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