FC2ブログ

160131

晴天。
今日で1月もおしまい。
2月はあっという間に終わる。

高円寺で元保存問題委員会でご一緒したK氏と応援団のついての打ち合わせ。
八幡様のお稲荷さん
160131-01.jpg 160131-03.jpg 160131-02.jpg

民家
160131-06.jpg

門2題、塀1題、外壁1題
160131-04.jpg 160131-10.jpg 160131-08.jpg 160131-05.jpg

円形階段・夕焼けの窓
160131-07.jpg 160131-11.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
031.
午前中、Fさんを案内してカイロ美術館に行く。数日歩いたお陰でまちの中を結構自由に歩けるようになっていた。美術館の中は別行動で、見ていなかった所を重点的に見る。
何かとやっているうちに飛行機の時間になってしまった。MEAの707。
イスラエルの上は飛べないので、地中海上を飛んでベールートへ。Fさんと一緒のお陰で空港にはベールートのジェトロ駐在員が迎えにきてくれていた。Fさんとホテルに案内して貰いチェックインし、ジェトロのオフィスに行き航空代金を支払うエジプトで買うよりもベールートで買う方がずっと安いそうだ。アルコール類などもカイロの外国人は皆ベールートに買い物に来るという航空運賃を払ってもその方が得だという。同じ本数制限でも、巨大な瓶も1本と勘定してくれるというのも面白い。
ドックリバーという名所に案内して貰う。レバノンは一見西洋風の落ち着いた町に見えたが戦争状態だという。まちの中を走っていると、十字路から突然戦車が現れたり。角を曲がると行く手を阻むように装甲車が止まっていて、その回りに銃を抱えた兵隊が立っていてどっきりさせられる。
ドックリバーというところは、険しい山が海までせり出しその山を縫って川が地中海に注いでいる。十字軍の遺跡が点在しているところらしい。怖いほど極端に頂部の薄い石のアーチ橋でその川を渡って、茶店風の店でレバノンビールを飲む。ジェトロのエジプト駐在員はエジプトのビールが美味しいと云い、ベールートの駐在員はレバノンのビールの方がよいという。両方とも美味しいが、ベールートではビールを頼むと簡単なつまみが必ずついてくる。それが何ともいえず嬉しい。
夜は、久しぶりにワインで中華料理を食べる。
シリアのダマスカスに行きたいのだが、国境が封鎖されている可能性があるので、ヨルダン経由で入った方がよいという。明くる朝、早速日本大使館に行きパスポートにヨルダンの名前を追加して貰う。
その頃の日本のパスポートは行く国毎に申請して目的国名を書き込んで貰うが必要であった。その後すぐに街の外れにあるヨルダン大使館でビザを貰う。アンマン行きの飛行機も予約する。飛行機は明後日までない。明日はバールベックに行くことにしバスの予約をする。<つづく>

変な木
160131-09.jpg
スポンサーサイト



160130

昨日の雨は雪に変わらず、
小雨が降っている。

折角切符を貰ったので郵政博物館「壮麗と質実~心斎橋大丸と逓信省のヴォーリズ建築原図展」と、
「奥の細道 切手原画展」を見に行く。
ヴォーリズの原図の数はそれほど多くなかったが、原図の迫力に圧倒された。
160130-02.jpg 広告から。
東京スカイツリータウンソラマチ6階から、
自転車置き場が面白い。
160130-01.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
030.
列車は指定席で、往きの部屋ほどは立派でないが、ごく普通のコンパートメントである。暫くは順調な旅がつづき窓からの景色を楽しんでいた。地図で見たところ行程の1/3ぐらい進んだところで客が少しずつ乗ってきた。しばらく走りまた駅に止まる。ホームにはかなりの客が待っている。昼頃にはコンパートメントは一杯になる。次の駅はホームに人が群れをなし、止まると同時に乗り込んでくる。コンパートメントの中にも遠慮せずに入ってくる。二等車なのだが三等の切符で乗り込んでくる。6人乗りのコンパートメントに12-3人の人が入り込んでいる。勿論、座れずに不安定な格好で立っている、しかもそれぞれ、荷物を持っている。野菜を一杯入れた一抱えある駕篭を引き込んで入ってくるかと思えば、生きた鶏が何羽も入った駕篭を担ぎ入れる。手振りでだめだと行ってもにやにや笑っているだけ、車掌もだめだと云うが通路も一杯で今更動けない。それでも鶏のおじさん悪いと思ったのか窓からホームの売り子を呼んでコーラを2本買って我々をこれでどうだと拝み倒す。所長の勧めに従えばよかったと気がついたときには後の祭り、イスラムでは勧められたものを断るのは失礼になる。コーラが良いのならと野菜はどうかと野菜かごの人が、かごからキューリを出して渡してくれる。私はまだよかったが、コーラが効いたのFさんはトイレに行きたくなり次第に顔色も悪くなり口も効かなくなる。キューリを持ったまま苦笑いしている。キューリは嫌いかと今度はタマネギをFさんに渡してしまう。本人にすれば生き地獄。通路も人で一杯ひしめいている。車掌が移動できるのだから強引に動けば移動は出来ないことはないだろうが、おそらくトイレの中も人で埋まっている。実際より何倍も長い時間を体感してカイロの駅に着く頃には生きた心地でなかったと思う。それでも何とか保ってトイレに駆け込む。こっちだってそう余裕があったわけではない。
所長にお土産をと思って早めに出たわけだが、カイロに着いた時間は4-5時間後から出た特急とさして違わず、とんだ土産話で誤魔化すことになった。その夜はカイロ最後の夜と云うことでオリエンタルダンスを見に行く。<つづく>

160129

天気が崩れてきた。
まだ雨は降っていない。
垣根の柊木星の下に落ちていた。
160129-01.jpg 160129-02.jpg

今日は中野たてもの応援団の1月の定例会。
寒い雨にも関わらず出席率は悪くない。
素晴らしいことだ。
160129-04.jpg 160129-03.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
029.
この神殿には、エジプトに残る一番高いオベリスクがある。その脇にロータスとパピルスの彫られた柱が立っている。近くに聖池があり黄金虫の彫刻が水面を眺めている。ここにもオベリスクが2本立っている。トゥトメスⅠ世のものとハシェプストのオベリスクである。
昔はこの神殿からルクソールの神殿(第18王朝)までスフィンクスが並んでいたという。ルクソールの神殿はアメン・ヘテプⅢ世とラーメスⅡ世が建てたと云われ、全長260mもある。
ラーメスⅢ世(第20王朝)の葬祭伝の聖域が入れ子になった空間の中に入るほど深くなるのに対して、ルクソールの神殿では、空間が線状に繋がり先に行くほど聖域が高められている。アモン神殿(第19王朝)はその中間の空間構成に思えた。塔門の前にあったオベリスクはパリに運ばれたという。いったい何本のオベリスクが国外に持ち出されているのだろう。ガイドのおじさんと別れてホテルに帰る夕日がナイルの向こう岸に沈むのを見ながらビールを飲む。明日は暗いうちにカイロに帰る。ひんやりとする夜風がジャスミンの香りをベッドに運んでくる。
明くる朝、暗いうちにホテルを出て、予定していた特急をやめて、ジェトロの所長の勧めに従わず、4,5時間早く出るガラガラの急行に乗った。特急料金をけちしたわけではない、ただ普通の汽車にも乗ってみたかっただけなのだが、しかし、これは大きな失敗だった。<つづく>

160128

蒼空。
それほど寒くはない。
明日ぐらいからまた天気が悪くなるようだが、
雪には成らないらしい。

夕方からJIAで修復塾の会議。Web会議。
行く途中の寺の山門の石柱。
どこかにもあったな。
160128-02.jpg

会議はまだ始まらず。
時間まで後少々。
160128-03.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
028.
葬祭殿を続けて見たところで、ガイドがこれでナイルの西側は終わりだという。ラーメスⅢ世葬祭殿であるマディナト・ハブは行かないのかと聞くと、あそこは何もないから行かないという。しつこく頼むがどうしてもうんと言わない。根負けしてナイルを渡り一度ホテルに帰ることになる。
残りはまた後でと云うことにして少し休むことになった。しかし時間がもったいない。資料で見たマディナト・ハブが気になる。F氏は疲れたから寝てるという。少し観光地の街の中を歩いてみることにする。土産物屋が並ぶ中を歩いているとギリシャで一緒であったアメリカ人の二人組のヒッピーにばったり会った。自転車に乗っている。早速、貸し自転車の情報を得て自転車屋にいく。自転車ごと一般の村民が乗る渡し船に乗り込み、もう一度西側へわたる、蒼空の下、葦に挟まれた砂利道を鼻歌交じりに飛ばすのもなかなか良いものだ。ちょっと一汗かいてマディナト・ハブに着く。パイロンに自転車を立てかけ中に入る。チケットを売っている親父が一人いるだけ。チップをねだるガイドもいない。巨大な石の楼門を潜りゆっくりと広い祭殿の中に入る。楼門が幾重にも重なる。巨大な石の壁、列柱、壁の浮き彫り、ゆっくりと歩く。巨大な石の列柱、プランは中国の紫禁城に似ているが、太い列柱が空間を埋めている。付近の農民が道具を置いて、壁にもたれてたばこを吹かしていた。見学者は僕一人、贅沢なひととき。まだ多少時間があると女王の谷を見て四度ナイルを渡り急いでホテルに戻る。
やがてガイドが迎えにきて、今度はFさんと一緒に馬車に乗ってアモンの大神殿に向かう。ナツメヤシの生えた田舎道を進んでいく。まばらに土の家が建ちその中を馬車は進んでいく。
001cairo5.jpg
小さなスフィンクスが並ぶアモンの大神殿に到着する。
001cairo3_2016012722253839f.jpg
中王朝時代から末期王朝の間に幾度となく増築を繰り返してきたためかなり複雑な平面を持っている。塔門だけでも10をかぞえる。特にセティⅠ世とラーメスⅡ世による102m×53mの多柱室は圧巻である。巨大な柱に遮られて、柱の並びの方向以外には目が届かない。天井の上下を利用して高窓が造られている。柱の周囲一面に図や文字が彫り込まれ、上部の方にはまだ色がのこっている。<つづく>


160127

天気は相変わらず。

年賀状の当たりくじチェック。
大体確率通り。切手シートのみ。

妙正寺川の鴨がまた増えた。
写真に全部写りきらないが50匹以上いる。
160127-01.jpg

杭基礎の被害の問題。
1970年代頃、大深度の地下開発などの話が出ていて、
基礎の先生や、地盤の先生と、その信頼性について疑問を呈したことがある。
全然大丈夫だの一点張りで、あまり議論にもならなかった。
しかし、地層は幾重にも重なり合っており、
大規模な地震が起こったときにその地層が一体になって動くとは考えられず、
一部の地層が他の地層と違った動きをしたときには、
大地が動くのだから杭はそれに対抗できそうもないし、
大深度に到達するためにアプローチ(多分縦坑)も被害を受けるのではないかとの疑問に
答えて頂けなかった。
多分、杭基礎の被害や問題は、
施工の良否にかかわらず、
これからもいろいろ出てくると予想している。
しかし、話は矮小化され、
被害に対する補修や、やり替え工事も行政と組んで、
利益に結びつけてしまう建設業界。
恐ろしいエネルギーだ。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
027.
昨夜の汽車はよく揺れた。しかし、寝台車が止まっていると不思議に眠れないものだ。早朝ルクソールに到着する。馬車でホテルに行きガイドを予約する。眠れずに疲れているF氏としばらく仮眠を取ることにする。
離れになったホテルの部屋の周りの低く白い囲いにはジャスミンの花が咲きよい香りを漂わせていた。
やがてガイドとの待ち合わせの時間になる。ぽんぽん蒸気の渡しに乗って、西側に渡る。外人客ばかりで皆ガイドを連れている。一般の村人達が乗る渡しはすぐ近くの別の桟橋から出ている。対岸に着くとガイドがタクシーを捕まえて乗り込む。タクシーは葦の間を通って約5キロ位走って高台に登る。王家の谷。最初にセティⅠ世の墓、いくつかの墓巡りをして最後にツタンカーメンの墓に入る。鮮やかな色、数千年前のものとはとても思えない。太陽の光を受けず乾燥していることとはいえ驚かされる。黄金のマスクはカイロの美術館にあり、ここには棺が置かれている。壁に猿の絵が描かれているが、浮き彫りになっていないのは最も貧しい王の墓だからだとガイドが言う。
王家の墓を出て、ハシェプスト女王葬祭殿(第18王朝)とメントヘテプⅡ世・Ⅲ世葬祭殿(第11王朝)に向かう。岩のがけを背負った壮大な建造物だ。修復工事中で、聖所のある一番奥までは入れなかった。右手に大きな耳の猫の顔が柱頭についた柱があり印象的であった。何故かハシェプスト女王の顔は全て削り取られていた。ハシェプスト女王葬祭殿の方は単なる供養礼拝のための祭殿で墓はない。
メントヘテプⅡ世・Ⅲ世葬祭殿は祭殿の上にピラミッドが載っていたらしいが今はない。
タクシーに乗りラーメスⅢ世葬祭殿に向かう。<つづく>

160126

1月も1週間を切ってしまった。
蒼空の下、
今日も氷が張っている。
JIA中野地域会の定例会議
産業振興センターの会議室にてこぢんまりと、
大会議室がもったいない。
160126-02.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
026.
すぐ隣に、Biet el Kretliaという通りに面してかつての富豪の家がありAnderson美術館として公開されている。上下に入り乱れるプランを登ったり降りたりしながら見学する。イスラム教国らしくハーレムがある。ハーレムから広間を除く隠し部屋なども面白い。一日中ハーレムに入り浸っているわけにもいかず、実際にはどのような生活が繰り広げられていたのだろうか。
また、スルタン・ハッサンのモスクの前を通り、ブルー・モスクを見る。このモスクは名前は同じでもイスタンブールのブルー・モスクよりはずっとこぢんまりしている。中庭に面した一室に青いタイルが使われているので、この名があるらしい。木材が多用され、中庭に木が植えられている。カイロらしくない気もするが、何かほっとする。こぢんまりしているのは下町に位置するせいだろうか。
魚市場で、魚や貝を見てジェトロの事務所に引き返す。丁度、イランの見本市も終わり、見本市業務のために開催に合わせて東京から来ていたジェトロのF氏がカイロに到着する。所長に勧められ、急遽二人で、ルクソールに行くことになり、夜汽車に乗ってルクソールに向かう。一等車のコンパートメント。車掌がベットメイキングをしてくれる。かなり豪華で各部屋毎に洗面台付きの2ベットである。数日前の旅とはだいぶ違う。
しかし、折りたたみ式の洗面台は水仕舞いが成ってなく、顔を洗ったら床のカーペットが水浸しになってしまった。いくつかの駅に止まったが、止まる度に1時間ぐらい停車していた。そんな距離のないルクソールに一晩掛けていくわけが分かった。<つづく>

うちには松がないが、
見本のような松の古葉摘み。
160126-01.jpg

160125

蒼空が広がっているが寒い。
庭に水甕に氷が張っていた。
160125-01.jpg

餌台に鳥がきた。
メジロかな。
寄り目でこっちを見ている。
しばらく餌を食べていた。
オナガの雌がきて逃げ出した。
でもオナガの雌は餌は食べずに飛び去った。
160125-02.jpg 160125-03.jpg

残しておきたい中野の建物。
160125-06.jpg

お地蔵様(杉並)
160125-07.jpg

森岡孝二著「雇用身分社会」岩波新書1568 を読み終える。
日本の現状。明治時代と変わらなく成りつつある。
仕事のこと、経済のこと全般に繋がりよく分かる素晴らしい本。
雇用身分社会から抜け出すためには、
(1)労働派遣制度を抜本的に見直す
(2)非正規労働者の比率を引き下げる
(3)雇用・労働の規制緩和と決別する
(4)最低賃金を引き上げる
(5)8時間労働制を確立する
(6)性別賃金格差を解消する
と結論づけている。
景気がいくらよくなっても、安定雇用者が増加しなければ何にもならない。

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
025.
このAl Gawhara 宮殿美術館は、昨日行ったシタデルのモハメッド・アリのモスクのすぐ横だった。部屋数が多く場所場所にガイドがいてチップをせびりに寄ってくるのにはいい加減うんざりした。宮殿美術館を出て坂を下り人のごった返す下町抜ける。むっとする人の臭い中近東のもの凄いエネルギーを感じる。城壁のような長い壁があり、壮大な壁に似合わない小さな門がついている。靴を脱がされるのでモスクだと気づく。分厚い木の扉を抜けると回廊を巡らしたかなり広い正方形の中庭、その中央に泉がありドームが掛かっている。回廊の外へ抜ける別の木戸を通るとバクダット近くのバベルの塔を小型にしたような塔に上れる。ミナーレットだ。上から見ると四角いプランのこのモスクの構成がよく分かる。さらに付近に高い建物もなくカイロの町が一望できる。下におり回廊を一巡りする。モスク特有の漠然とした空間。
001cairo1.jpg

ここはイブン・タルンによって建てられたモスク(868年)で、イブン・タルンはエジプトのツルーン王朝の創始者で、広い中庭を囲む回廊と中心の泉、外階段のミナーレットが特徴である。イラン、トルコ、エジプトでは、他にあまり例を見ない構成のせいか強く印象に残っている。<つづく>

梅が満開
160125-05.jpg


160124

今日も晴天、空が蒼い。
結局、昨日から今日に掛けて雪が全国的に降る予想は外れた。
しかし、沖縄九州は雪が降ったとか。
平塚からの帰りがスムースだったのはよいが、
折角の防水工事の成果を試すことができずに残念である。
裏のアパートの見学会。
覗きに行く。2階のアパートから我が家がこの様に見える。
160124-01.jpg

宮益坂ビルディングを見に行く。
そこそこ混んでる行き帰り電車の中で,
隣に荷物を置いて何も考えないおばさんと、携帯に夢中な若者(左二人)。
160124-02.jpg 160124-07.jpg
宮益坂ビルディング。
宮益坂から。御嶽神社から。
御嶽神社で。
160124-03.jpg 160124-06.jpg
160124-05.jpg 160124-04.jpg

新宿でデモ。
160124-08.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
024.
車は中之島から右岸に渡り、At-Tahrir の通りを進み広場に入る。広場の正面の大きな建物の中庭に入る。まちの中の大きな建物の入り口には何処も銃を持った兵隊が立っている。Abdin美術館があり、ファルーク王の宮殿を革命後博物館にしている。王や王女の部屋その浴室を見ることが出来る。浴室は仕上げも素晴らしかったが、その設備が特に素晴らしかったとメモに書いてあるが、具体的にどんな素晴らしい設備であったかは残念ながら全く思い出せないが工夫に満ちたものであったのだと思う。
西洋建築史図集にも出ているAs-Suitan Hasan (1354年)モスクに入る。イランのモスクと同様、中庭がありその4方にイワンが開いている。しかし中庭は、井戸の底のような静けさがみなぎりイランの開放的な中庭とは趣を異にしている。イワンとイワンの間は学校に成っている。このモスクが出来た頃、国民的なイスラム建築様式が完成されたと云われ、純正アラブ様式と呼ばれているようである。奥のイワンの奥の部屋にはドームが掛かっていてそれほど大きな空間ではないが、鉄格子のはまった窓のすぐ近くを歩いて行く人が見えカイロの市街が広がっている。都市のなかのモスクという印象が強い。
001cairo4.jpg
As-Suitan Hasanモスクを出て、Al Gawhara 宮殿美術館に向かう。<つづく>

近所の祠。
160124-09.jpg 160124-10.jpg
 

160123

曇っている。
午後から沖縄を除いて日本中雪らしい。
今日は出かけると、
往きはよいよい帰りが怖い。
裏のアパートができあがり、今日明日が見学会。
さて、裏の通路はどう使うのだろう。
160123-01.jpg

平塚へ、
小学校の同級生のやっているダイニングバー“ウイナーズ”へ、
折角平塚まで行くのだからと
途中で八幡神社と弁財天を見てから、
160123-02.jpg 160123-03.jpg 160123-04.jpg

登録文化財の「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」を見る。
平塚は戦災を受け古い建物が残っていない。
160123-05.jpg 160123-06.jpg 160123-07.jpg
平塚の名の起こりを示す「平塚」があるというので見たかったが、
集合時間になってしまい残念。

ウイナーズで、
160123-10.jpg 160123-08.jpg 160123-09.jpg

寒い冬は雨よりも雪の方がよいが、
交通機関が麻痺するのが怖い。
札幌は雪で長距離列車が遅延することはあったが、
その影響以外、千歳までの列車が運休することはなかった。
3年間で、札幌の雪のために飛行機がちょっと遅れることはあっても飛ばないことは一度もなかった。
しかし、羽田が雪で運休は何度かあった。
東京は雪に弱い。投資すれば防げると思うのだが、
乗客が困っても減ることはないのだからドル路線に無駄な出費をしたがらない。
客を呼ばなければならない、あるいは生活に差し支えのある札幌とは違う。

「旅と車と私たち」  46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
023.
人家の無くなったところを更に登ると Al Muqattam Hill に出る。
死者の町は昼下がりの太陽の中静まりかえっている。今でも死者を大切の葬る習慣があり、死者の住む家として墓を造る。その死者の家が町を構成しており、家々は小さめなのだが、中にはかなり立派なものもあり、少し遠くから知らずに見れば人気の無い普通の町と思ってしまう。その墓に墓守として住んでいる人もいれば、勝手に住み着いてしまっている人もいるという。水は電気はどうなっているのかと心配してしまう。
この丘からカイロの町の眺めは素晴らしい。町の向こうにナイルが流れ、その更に向こうにピラミッドが見える。
神と自称するファラオが自然の中に動かぬものとして、ピラミッドを造り力を示そうとしたことはわかる。兵馬俑や前方後円墳など同じだ。しかし、何故それがここまで純粋な幾何学的な形状をしていなければならなかったかと思ってしまう。ナイルの氾濫で毎年変わる土地や、河川の形状、砂丘の刻々の変化などを見ていると、動かない直線や円、幾何学的構成は神のもの-実は人間のもの-で、自然のものでないと捉えるに至ったからではないだろうか。
丘の上のホテルでお茶を飲んで降りることにする。降りきった所にシタデルと呼ばれる城があり、その中の Ali Mossque を見る。全ての化粧材はアラバスターで出来ており、半透明のこの石は今でこそ傷がつき汚れているが、できたての美しさを十分に彷彿させる。古代エジプトの人々が何故このやわらかさを感じさせる石に拘ったかが分かる。
夕方、見本市が開かれているという中之島の南端に行ってみる。所々にレストランがあり若い男女や外人客が食事をしていた。<つづく>

甘利経済再生相問題
世の中の流れの中で、都市開発、再開発、基準法の緩和、復興工事のあり方などを見ると,
いかに建設が能動的に扱われているかが分かる。
できれば新たに建設などしたりせずに済ますことができればよいのだが、
建設業が儲かるような方向で世の中が進んでいる。
労働条件も雇う側に都合よく仕組まれている。
それは、合法的に金が献金されているからだと思うが、
ぎりぎりの線でそれをこえるものもが膨大にあるのではないかと推測される。あくまで推測であるが。
建設業→金→政治家→仕事・仕事のやりやすさ→建設業→金→政治家→
全体の金が大きいところがおいしいところ。
だから、この問題を掘り下げていくととんでもない広がりを見せることになる可能性がある。
そして更に同じ手口が、多の業界にも使われているとすれば、
更に問題は広がる可能性を持っている。広い意味での保守政治家の殆どが関わっているのではないか。
だから保守的な野党も迫力がないし、そうでない野党議員は金がないことになる。
だからそれが表に出ることが難しくなる、
それでも激しい攻防戦が繰り広げられなければいけないだろう。

160122

今日も晴天。
やはり寒い。
本当に明日また雪が降るのかな?(朝の気持ち)
防水工事等々やること一杯。
あまり綺麗ではないが、
水が止まってくれれば大成功。
160122-01.jpg

消防署通
やがて消えゆく街なみ。
メインテナンスさててない街なみ、
計画道路として何十年も半殺しになっていたからメンテナンスがされていないのだ。
160122-04.jpg 160122-03.jpg

 「旅と車と私たち」 46年前の物語 本年の元旦から毎日連載
022.
今日は、1969年11月5日、今日も暑中の奥様にご案内頂いて、市内、郊外を見て歩く。所長を事務所に送ってから最初に訪れたのがAl-Manial Palace Museum 回教の礼拝堂のついた宮殿建築とそれに付随した狩猟美術館。宮殿の入り口から階段を上ると細かい木製の格子が空間を構成している部屋に入る。工芸品ともいえる格子は、細かな格子に支えられた格子の太い部分が、外部の眩いばかりの明るさにハレーションを起こして、宙に浮いているように見える。
001cairo2.jpg

折り上げ格天井を思わせるアラベスク模様の天井の部屋、2階分吹き抜けた天井の高い部屋、様々な色の大理石を組み合わせた水盤のある部屋、上の階にも格子のはまった部屋がある。格子によって外部からは見えず、風通しのよい贅沢が作り出されている。
このAl-Manial Palace Museum のある中之島から橋を東側に渡りナイル川に沿って遡るとナイル川の水面の高さを測るナイルメーターがある。この辺りはオールとカイロと呼ばれ、いわゆるカイロ市街地ほど整備されていない。
テヘランにも同じような場所があったが、殆どの人が上着をつけ靴を履いていたが、ここではシャツに裸足の人が殆どである。まちの中の異臭もかなり強い。踏切を渡り、Coptic Museum に到着する。Coptは原始キリスト教ともいえる。薄気味が悪いほど暗く、ローマのオーダーのついた石の柱が立ちその上に木造の屋根が載っている。教会の初期の形式を暗示するものがある。古い聖書が展示されている。神父がきて写真を撮れという。撮らないで立ち去ろうとしたら、こんな珍しく貴重なものを何故撮らないのかと実に不思議そうな顔をしていた。石畳の道を抜け表通りに出て車に乗り、 Al Muqattam Hill に向かう。有名な死者の町である。<つづく>

蒼空の中のUFO。
160122-02.jpg

160121

今日も晴天。
しかし、今シーズンは暖冬の筈が寒い。
また週末に雪?
それまでにしなければいけないことが沢山ある。
160121-02.jpg UFOに残る雪。

今日は日本建築仕上学会
帰りに代々木で降りてハンズへ。
代々木駅の鉄骨。変な所でペンキを塗り分けている。
新宿駅南口のイルミネーション。
最近はクリスマスに限らず灯っている。
160121-03.jpg 160121-04.jpg

「旅と車と私たち」  本年の元旦から毎日連載
021.
サッカーラSAQQARAの階段状のピラミッド。第三王朝のシェセル王(BC2640頃)の墓で、最初は単なるマスタバとして計画されたが、4回にわたって、拡張され6段の階段状のピラミッドになった。高さは58.8m。底面は121m×109mで正方形でない。マスタバというのは古王国時代の貴族の墳墓をいい矩形平面で台形状の断面をしている。アラビア人の腰掛けに似ているのでこの名があると云うが、いつ頃から使われ出した名称なのかは知らない。
構造家によると、ものには放っておいても崩れない角度があるという。ギゼーのピラミッドはそれを見事にぎりぎりで満たしているという。ところがサッカーラの段状ピラミッドは、各段の傾斜がそれよりもきつくかなり崩れ落ちてきているという。確かに見た目にもそうなっている。墓は縦坑に通じる地下室に安置され、埋葬後、縦坑は石と砂でふさがれ、トリックの偽扉が造られている。地下の墓には円形階段で降りていける。石棺が安置されている地下室の壁画はいまだに色も鮮やかだが貴重な部分は持ち去られている。
古代エジプトの死と蘇生に関する異常とも思える執着が生んだ埋葬技術とともに、盗掘の熱意とその技術の高さにも驚かされる。
途中からピラミッドで会った国連の方と馬車で同道することになる。
流域神殿と同じような構造の「書記の家」を見てから、古王国の首都メンフィスへ、アラバスターのスフィンクスとラムセス王の巨大な像があるのみ。近くに正体不明の葦の家があった。車に戻りメンフィスの集落を抜けてカイロに戻る。
夜は、所長さんがSOUND AND NIGHTに案内して下さる。ピラミッドとスフィンクスに光を当てて物語と音楽を楽しむ嗜好でパルテノンで見たものと似ている。両者とも色が単純に赤、黄色、緑などの原色で構成されているせいもあるだろう。
この日は物語がフランス語の日で(英語、アラビヤ語、フランス語と毎日変わるようだ)あまり物語の内容は分からなかったが、盛んにクレオパトラの名が出てきたので、エジプトの滅びる時の話だろうと想像が付いた。ナイトクラブでオリエンタルダンスを見て帰る。カイロの夜は暑くもなく寒くもなく乾燥していて過ごしやすい。<つづく>

何故かイスファハン更紗
160121-01.jpg

160120

晴天だが気温は日増しに低くなる。
今日は表示が-1℃である
道路に残った雪は落ち葉を凍り付かせている。

今日はJIA栃木地域会の新年会。
久しぶりに出席する。
その心は、
事務局にいろいろ情報を送って貰っていた。
実際にそうすぐには栃木と縁が切れそうもないと思っていたし、
何かと用事があった。
特に札幌市立大学に行くまでは、
宇都宮のコンテナーに荷物を置いていた。
しかし、もうそろそろ縁遠くなってきた。
事務局の担当者も「寿!」退任ということで、
私も区切りをつけることにした。
池袋駅で。
160120-01.jpg

田川3題。
160120-02.jpg 160120-03.jpg 160120-04.jpg

大宮駅で。
160120-05.jpg

「旅と車と私たち」  本年の元旦から毎日連載 46年前の物語
020.
現地人が運転する所長の車は、左ハンドルのクラウンで、ジェトロがキャラバンを組んでエジプト内の移動見本市をしたときに使ったもので日本製品の宣伝にも一役買っている。この所長と我が師とは長い付き合いだという。しばらく所長宅に滞在させて頂くことに成り、久しぶりにゆっくり風呂に入る。エジプトのビールもまた美味しい。
数日間にわたり、所長夫人にカイロ市内と近郊を案内して頂く。
車を使って案内して頂いたおかげで、見たところは実に数多く、徒歩で廻っていたら優に数週間は掛かったと思う。本当に感謝している。
まずは、ギゼーのピラミッド。一昨日アレキサンドリアからカイロに入ったときに、バスの高い窓からちらっとピラミッドが見えたところまで戻り枝道に入る。ナイルを少し離れるとすぐ砂漠が広がっている。ジェトロの運転手は首で何か民族的なリズムを取りながら砂漠の中を進んでいく。単になにかのけいれんのようにも見える。
ピラミッド、イラン、トルコ、ギリシャで感じた歴史と全く違うものが感じられる。幾何学、天文学、シンメトリー、単純さと巧妙さ・・・・・砂漠の中に自分の死んだあともその痕跡をいかに残すか。いや、魂は死なない。生き返ったときに魂が宿るのがミイラなのだ。間違って別のミイラに入るとか、自分のよりもできのよいミイラを横取りするとかはしないものだろうか?などとくだらないことを考える。
クフ王の第一ピラミッドの内部に入る。いまだに様々な謎ときが続けられているという。少し前まで、ピラミッドを登ってみせる見世物があったが、今は禁じられているとのこと。

車で少し走ったところにサハラシティーというところがあり、そこから西に延々と続く砂丘が見えるサハラ砂漠の東端である。化石らしいものを拾って、スフィンクスのところに戻る。第一印象は思っていたよりも小さい。それも極く小さい。多くの写真が、スフィンクスを前面にバックにピラミッドを写しているせいだろう。しかし、そうはいっても真下まで近づくとやはり巨大な造形物である。第2ピラミッドを背に葬祭殿と流域神殿が長大な御影石の廊下で連なっている。列柱の石の柱は柱と云うよりも直方体の積み木で造った積み木細工ように見える。
ナイル河に平行に走るクリークに沿って南下する。道路脇のナツメヤシの疎林の中に崩れ落ちそうな民家が点在する集落がつづく。<つづく>


160119

蒼空が広がっている。
気温は低い。
道路に雪はまだ残っている。
雪のためか昨日掃けなかったせいか落ち葉が道路一面に広がっている。

北側の塀の隙間を埋めるために、
コンクリ-トブロックと穴あきブロックを買った。
穴あきブロックの方が大きさは半分で値段は三倍。

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
019.
明くる日起き、まずジェトロのオフィスに行くことにする。市内の一般の交通手段はバスである。
バスは車内に入らなければ料金が掛からないと、中にのる余地があっても外側に何人もぶら下がっている。ドアの周囲の手すりにぶるさがるのはともかく、窓のレールや、屋根の雨樋などちょっとした手掛り足掛かりを見つけてしがみついている。一台のバスに一人や二人ではない。多いときには十数人がへばりついている。バスはそうスピードを出するわけでもなく、急カーブを無理して曲がるわけでもないのだが、道路を無秩序に(少なくとも僕の目からは)歩行者や自転車や家畜が右往左往に歩いているわけであるから何時急ブレーキが踏まれるか分からない。真に命がけである。
見知らぬ国でも、地下鉄やトラムはたいてい乗れるが、バスはその町に相当慣れてこないと使いにくい。経路が分からないことがその主な理由であるが、アラビヤ文字で書かれていると停留所もよく分からないし、料金の払い方や次の駅名の聞き取りにくさなど、特に混雑時には敬遠してしまう。更に、カイロのようにドアのところにぶるさがってる人をかき分けてバスに乗るのは現地の人と一緒でないとかなり勇気が要る。歩くかタクシーである。よくしたものでタクシーもそんなに高くはない。しかし、ジェトロのオフィスは、地図を見るとそんなに遠くではないので歩いて行くことにする。
人があふれ、町の各処に土嚢が積んであり、その中と主要なビルの玄関には、銃を持った兵隊が立っている。ジェトロについて、イランの時のお礼を述べ、しばらくご厄介になることになる。
昨日、アメリカ人から聞いたアフリカ縦断の話をすると、武装した山賊は出るし、部族間の争いは絶えないし無謀すぎて話にならないという。冒険心もかき立てられたが、新聞記事などいくつも見せられて断念する。
今でも時々思う。あのときアフリカ縦断に行くことにしていたらと。今はもう生きていないかも知れないし、凄い経験が出来たかも知れない。どうだったのだろうかなと。しかし、自分で立てた計画ではないし、直接情報も得ていない。それなりの判断だったと思うが、BOBはその後どうしているだろうか。
ジェトロの就業時間が午後2時頃に終わるというのでそれまでの時間を利用してエジプト博物館に行くことにした。博物館の中で、香水のもとになる香油の商人に捉まって盛んに店に来いと勧められる。何とか巻いて、ゆっくり多少薄暗い感じがする巨大な博物館の中を見て歩く。殆どが、古代エジプトの遺跡から発掘されたものである。展示品が墓から出てきたものであることが理由かどうか分からないが館内には数千年を経た呪いを感じさせる異様な不気味に流れているような気がした。ツタンカーメンの部屋とナフェルチチの胸像がこの博物館の目玉である。その文化の高さが現代のエジプトとどうしても結びつかない。
博物館を出て歩き出したところで、先ほどの香油商人が待ち構えていた。無理やり彼のSHAHR 2AD-PALACEという店まで連れて行かれた。日本人客も多いという。まだカイロにはしばらくいるからと何とか難を逃れる。<つづく>

160118


今シーズン初めての
もう雨に変わっているが、
溶けかけたシャーベットのような雪が10cmぐらい積もっている。
気温が低いせいか雪はなくならない。
昨日造った鳥の餌台には鳥が来る前に雪が積もった。
白梅に雪風流でよいが、
すがもれはよくない。
通常の雨ならば、低い防水の立ち上がりで、何とかなっていたものが、
雪で氷のダムができ、
防水層の裏側に水が回ったらしい。

近所の道は夕方になっても雪が残っている。
160118-01.jpg 160118-02.jpg 160118-03.jpg

冬夏会の新年会
その後、あたりや

「旅と車と私たち」 46年前の物語。 本年の元旦から毎日連載
018.
朝食が済み昼近くだったと思うが、船はアレキサンドリアの港の着く。アナウンスがあり、リビアの王様がまず降りてそれから一般客の下船だという。イランでも二度ほど王様の都合で足止めを食らったことがある。
乗船客はあまり気にせずデッキに出て桟橋を眺めている。やがて船に直角に長い赤い絨毯が敷かれ、両側に衛兵が立つ。絨毯の先に黒塗りの車が止まりいよいよ王様が降りられるかと思ったが、それから2,30分そのまま。やがて何人かに付き添われた足早に絨毯の上を歩いて車に乗り込んだ。絨毯が巻き取られ片付けられ、やっと一般客の下船となった。
あとから聞くところによるとリビア王がヨーロッパに旅行中革命が起き、その革命が成功したので、国に帰れなくなりエジプトに亡命するとのことであった。しかし、その革命を助けたのエジプトではないかとも云われていた。
アレキサンドリアからバスでカイロに向かう。昨日のBOBが隣の席にきて縦断旅行の抱負を語る。聞いているうちにこちらも胸が熱くなってくる。やがてバスはカイロに着く。カイロにはジェトロのオフィスがあるのでそこにまず行くことにして、BOBの連絡先のホテルを聞き分かれる。イランの見本市の時お世話になった所長を訪ねることにしたが、事務所は既に閉まっており、ヒッピー達が泊まると云っていたユースホステルに行くことにした。アイルランド人、イギリス人のヒッピーがBOBのジープに乗りたがっている。アフリカ縦断!魅力ある誘いであるが情報不足である。<つづく>

160117

今日もよい天気。
一月がどんどん過ぎていく。
もう半ばをこえた。

酒の入っていた箱の蓋で鳥の餌台を造る。
160117-03.jpg

樋の掃除
160117-01.jpg

 「旅と車と私たち」  本年の元旦から毎日連載の46年前の話
017.
船は夜のエーゲ海を進む。何千トンの船だか、煙突がいくつあったかなど覚えていない。白い船だったように記憶している。
いくつか島影が見えるが、何島だかは定かでない。夕食の時間になり食堂へいく。船の切符代には食事代も含まれている。何が出たか覚えていないが、幾つかのメニューがあり選ぶようになっていて、どれも結構まともな料理だったような気がする。昨日のユダヤ人が同じテーブルにいて、何を食べてはいけないのそれは何故かなど講義を始める。
食卓は周囲にミニチュアのクロームメッキの金属の手すりのような立ち上がりが付いている。多少、船が揺れて食器が落ちない工夫らしい。デッキに出ると星が綺麗だったが寒いので寝ることにする。船は静かで船酔いの心配もなさそうである。
船の中でアメリカ人のBOBと友達になる。テキサスから来たのだそうだ。学生生活を終え、親父の会社に入るまでの二年間冒険旅行をするのだそうだ。イギリスでランドローバーを買ってきたという。よく覚えていないが有名大学を卒業したエリートで、色白で、体格も好く髪は短く、眼鏡を掛けており、戦後育ちの僕には、フロンティア精神を受け継ぐ絵に描いたようなアメリカ人に見えた。彼のこれからの計画はアフリカを縦断するのだという。アメリカ人や、イギリス人のヒッピーは沢山いるが、信用がおけないから一緒に旅したくないという。何故か縦断旅行に誘われた。かなり危険な地域ではないかというと拳銃も用意してあるという。カイロに数日居るからその間に返事が欲しいという。<つづく>

我が家の梅
盆栽育ちだから咲くのが早い。
160117-02.jpg

160116

今日もよい天気。
気温はそこそこ。
午後から「府中市郷土の森博物館」に行く。
屋外公園の臘梅を見に行ったのだが、古い建物が移築展示されており、
意外と面白く、もう一度来なければと思っている。

まずは目的の臘梅など。
160116-14.jpg 160116-13.jpg160116-16.jpg 160116-15.jpg 160116-18.jpg 

紅白の梅も少し咲き出していたが見頃はもう少し先。
160116-20.jpg 160116-22.jpg

復元建物としては旧府中尋常高等小学校(内部1階が詩人村野四郎記念館になっている)、旧田中家住宅、旧島田家住宅、旧府中町役場、旧府中郵便取扱所。このほかにもいくつかあるが、今日はここまで。

160116-02.jpg 小学校の階段で。

旧田中家 道路側正面(狭い間口、奥行きが深い)。裏門。
160116-08.jpg 160116-01.jpg

一筋の金輪継ぎ、雨落とし、沓脱石
160116-04.jpg 160116-05.jpg 160116-06.jpg

島田邸。
入り口足下のディテール。防火戸との取り合わせ。
160116-03.jpg 160116-07.jpg

旧府中町役場とその内部。
旧府中郵便取扱所。
160116-10.jpg 160116-09.jpg 160116-11.jpg

庚申塚。
160116-12.jpg

地面2題。
160116-19.jpg 160116-23.jpg

夕日も薄らいできたので博物館内を見て帰ることにする。
160116-21.jpg

博物館の二階の展示場は期待を遙かに超えた立派なものであった。
中野区を標準に考える方がおかしいのか。
160116-24.jpg

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載

016.
夕方の出航までの時間、美術館巡りをすることにした。
まずは国立アテネ美術館。ミケーネから出土した黄金の仮面。あの荒れ果てた石の山と、黄金の仮面が結びつかない。女性の館員がいいものはみんなロンドンとパリにあるんだよと悲しそうに云う。
道路の並木にはいい色に熟したオレンジが成っている。一つ失礼して口に入れたが、口がひん曲がりそうに酸っぱい、とても食えた代物では無い。ビザンチン美術館、ベナーキ美術館、見学者が少なく、部屋に入る度に電気を付けてくれる。
バスに乗って、ピレウスに出る。古代ギリシャからの港町。税関の手続きをして、船に乗る。船は結構大きく甲板から埠頭まで高さが6~7mある。ギリシャからの手紙を出し忘れる。そういえば、ミケーネで写真家と話していたときに、荷物の脇にちょっと置いたフイルムのパトローネをしまい忘れたらしい。パルテノンの写真の大半が消えてしまった。船室は汚いが居心地は悪くない。船の名前はCYTHIA。すぐに話し相手が出来たが、ユダヤ人に捕まる。いかにユダヤの神様が凄いか聞かされる。
船にはリビアの王様が乗船するとかで出発が遅れている。<つづく>

160115

天気がよい。
朝から新宿に出かける。
新宿にて。
160115-01.jpg 160115-02.jpg 160115-04.jpg

日本の雇用関係はよい方向に向かっていたにも関わらず。
バブルが崩壊した後、
逆行し始め、また戦前に戻っている。

景気がよくなり、一億総中流の意識が高まり、
労働組合もその役割を殆どなくし、消滅した所で、
景気が悪くなり、
待遇の悪い働き手を守る術がなくなった。
政府は国民を守る義務があるのに、
それを果たさず、
どちらかというと企業のみを守っている。
それも大企業を重点的に守っている。
言い分は一見正しそうに聞こえる。
大企業が力をもたなければ外国と太刀打ちできない。
企業が稼げば、
雇われる方も潤うと。
ところが、コンピューター化により、
同じことをこなすのに人数は要らないし、
費用を掛けずに儲けようとする。
人が要るのは単純作業のみ。
格差は開くばかり。
雇用関係は戦前以下かも知れない。
しかし自殺は減っているという。
死にたくなる少し前程度は稼げるようにしてやっていると云いたいらしい。

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
015.
Trvl-Car-We005.jpg
バスを降りて、しばらく歩いて遺跡の入り口に着くともうすぐ閉めるから急いでみてくれと云う。獅子門(前14世紀)をくぐる。何かホーメロスの臭いがしてくる。槍を受けて倒れた英雄の鎧がカタコトと鳴った・・・・・・。アトレウスの宝庫を見る。アガメムノンの墓とも云われている。中に入ると真っ暗で何も見えない。ガイドブックの要らないところを裂いて火を付けてみるが、炎が闇の中に吸い込まれてしまう。それでも目が慣れてきたのかうっすらと円錐形の空間を作っている石積みが見える。もう遺跡の中には誰もいない。急いで遺跡から外へ出ると、すぐ後ろで門が閉められる。親切な人が車でミケーネの町まで送ってくれる。アテネ行きのバスはまだあった。サラミスの古戦場を右手に見て無事アテネのホテルに帰り着く。
昨日、明日の船の切符を買ってしまったが、デルフォイやオリンピアにも行きたいという気持ちがこみ上げてきたが、それは次の機会にとふんぎりを付ける。<つづく>

160114

天気はよいが、
日増しに寒くなる。
気温はかろうじてマイナスにならない程度。
帽子かぶって、マフラー巻いて、イヤーマフまで付けて道路の落ち葉掃き。
落ち葉も少なくり楽になった。
江古田の方まで歩いてみる。
野方4丁目と沼袋4丁目の住宅
160114-06.jpg 160114-14.jpg
この家も沼袋4丁目だが空き家になって久しい。東隣が更地になっている。
160114-17.jpg
江古田の祠。 塚から経筒が出てきたことから「お経塚」と呼ばれている。
160114-13.jpg 160114-10.jpg 160114-11.jpg 160114-12.jpg
近くに変な道路が。
ついでの変な木。青桐かな。そしてシイの大木。のびのびと枝をのばしたいだろうな。
160114-09.jpg 160114-02.jpg 160114-08.jpg

沼袋の祠
160114-15.jpg 160114-16.jpg

この家の屋根のコーナーが面白い。確かに母屋と庇。
160114-04.jpg

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
014.
食い物、飲み物の習慣というのは意外と根強いものだ。
その頃(1969年頃)、一般の日本人は、ワインを飲む習慣をまだ持ち合わせてなかったが、飲み慣れている国民にとっては、イスラム教国から美味いワインの手に入る国に入った途端、飲みたいという衝動がこみ上げてきたらしい。
もう一つ同じようなことを経験した。
中国の巷で、小さな赤い毛沢東語録が盛んに売られ、誰もが人民服人民帽を身につけていた頃、一連の調査で重慶でクリスマスを迎えた。一行十数名の中にニューヨーカーの若い女性がいたが、チョコレートが食べたいと切実な声を上げた。クリスマス=チョコレートの脳内の結びつきがかなり強かったらしい。希望は正月明けに上海でやっと叶えられた。チョコレートを口にした時の幸せそうな顔は今でも忘れられない。
話は戻るが、次の日は、ギリシャに一緒に入国したヒッピー達と分かれ、一人で、丸一日、アクロポリスの上で過ごした。午後遅くになって近くの遺跡を歩き、明後日のアレキサンドリア行きの船の予約をする。ホテルに帰る道でBOBというアメリカ人のお坊ちゃんヒッピーと知り合いになる。
明くる日バスでコリント地峡を渡り、コリントスへ、大きなオリーブの木が道路に木陰を落とし、その下で老人達が椅子を並べて紅茶を飲んでいる。
青空の中にドーリア式の柱が5本。わずか5本なのにすごい存在感がある。写真を撮っていると、この観光地で働いている写真家が話しかけてきた。しばらく写真機の話などして、お茶をごちそうになり、まだ間に合うとミケーネへの路線バスを捕まえてくれた。<つづく>

こんな門は如何ですか。
柑橘類もなっています。
160114-07.jpg




160113

また晴天が帰ってきた。
しかしだいぶ寒い。
1月だから当然。
でも例年よりは暖かいのかも知れない。
高田の馬場から地下鉄で、
お茶の水の東京水道歴史館で「水道写真展」をやっているというので見に行く。
160113-01.jpg

写真の数はそれほど多くなかったが、
常設展示がなかなか充実している。
江戸の町の上水の配水のシステムがよく分かった。
何から何まで木で造ってしまう所が凄い。
それが当時世界最大の都市江戸の住民の生活を支えていた。
特に汐留の旧国鉄操作場の発掘で明らかになった伊達家、
脇坂家屋敷跡の排水システムが綺麗に写真に納められている。
160113-03.jpg 160113-02.jpg

中野たてもの応援団で見学した和田の浄水場の全貌の写真があった。
160113-04.jpg

そこから地下鉄で六本木ヒルズ。
160113-05.jpg

森美術館でノーマンフォスター&パートナー展、
160113-09.jpg160113-11.jpg 160113-06.jpg

外の景色も楽しむ。
160113-08.jpg 160113-07.jpg

更にまた地下鉄で外苑前。
ワタリュウム美術館で「リナ・ボ・バルディ」展を見る。
気になっていたSESCポンペイア文化センターを見ることが出来た。
160113-10.jpg 160113-12.jpg

格差、景気、活性化、福祉、最低賃金、生活保護、年金、企業の所得税の軽減、
教育費の低減、教育のお座なり化、エリート教育化、少子化,高齢化、地方の過疎化、木造3階、木密住宅、都市への人口集中・高密度化、地価の高騰、温暖化、災害、古人の知恵
まだまだいくらでも出てきそうだが、
これらの問題はネットワーク状に相互関係があり、
一つを解決しようとすると他に影響を及ぼす。

特許、遺伝子操作、独占、財閥、軍需産業、プルトニュウム、原発、核処理施設、
平和、軍備、侵略、内政干渉
話はどんどん広がっていく。

小西敏正著 「平成日本らしさ宣言」建築家の目を通してみた 現代社会の暴走を止める 古くて新しいニッポンの発想
本屋では手に入りにくくなっています。
このブログで、FBのコメントで、メールで住所を書いてお申し込みください。
本代は不要。

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載       -これは45年前の物語-
013.
ここで、イスタンブールから乗ってきた汽車は戻っていく。一時間ほど待たされディーゼルカーがきて乗り継ぐ。そのディーゼルカーもサロニカまでで、更にアテネ行きに乗り換える。国際線というとオリエンタルエックスプレスを想像してしまうがえらくのんびりしている。それはそれで良いのだが、ギリシャに入った日、ギリシャの何かの記念日で休日であった。何の記念日であったかは覚えていないが10月28日だった。
その頃仲間は、増えたり減ったりするので定かではないが、男女合わせて7,8名になっていた。誰もギリシャの通貨を持っていない。何も食えない、何も飲めない。困っているとうまくしたもので、たまたま会ったアメリカ人のヒッピーがこれからトルコに行くので換金してもよいという。
同じホテルに泊まることにして、開いてる売店を見つけて、食べ物と飲み物を買う。
彼らは夢中になってワインを探し求めているのが解せなかった。売店でワインを見つけたときの感激の様は異常に見えた。しかも殆どのヒッピーがコルク抜きを持っている。何本か買いラッパ飲みで回し飲みをして盛んに盛り上がっている。飲んでみたくなり仲間に加わった。ギリシャは結構ワインの美味いところでもあるし、彼らのガイドブックにも安くて美味いワインの銘柄がちゃんと書いてある。この時始めて、ワインを知った。勿論、ワインという飲み物があるのは知っているし、赤玉ポートワインぐらいは飲んだことがあるが、あの時、飲んだワインほど美味いワインにその後お目に掛かってないといえるほど美味かった。やっと観光気分になり、皆でアクロポリスに登り、まちの中を歩く。
約束通り皆で一緒に安宿を探し泊まり、夜はアクロポリスのSound and Lightを見に行く。
その夜、またワインを飲む。明くる日からばらばらに成り別行動。<つづく>

160112

今日も晴れと云いたいところだが、
朝方小雨が降っていた。
丁度よいお湿りである。

木々のリズム
160112-01.jpg 160112-02.jpg 160112-06.jpg 160114-18.jpg 160114-01.jpg

地下宮殿入り口。白鷺の家
杉並の家(杉並区に入ると急に立派な家が多くなるように思われる。)
160112-03.jpg 160112-04.jpg 160112-05.jpg

たばこ屋さん
私の通った幼稚園との中間点。
家から1000歩、幼稚園から1000歩にこのたばこ屋さんがある。
この近くまでは友達と帰り、このたばこ屋さんまで迎えにきて貰った。
このたばこ屋さんはたばこ好きの親父のたばこを買う店でもあった。
たばこ屋のおばさんが月に何度かたばこをうちまで届けたくれていた記憶がある。
ほぼ70年続くたばこ屋さんだ。
160112-07.jpg

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
012.
薄汚い客車だが全席指定席である。僕のコンパートメントは、イギリス人のヒッピーとアメリカ人のヒッピーが一緒である。汽車の中は猛烈に寒い。彼らはシラフに潜り込む、買ったばかりの毛皮のコートをかぶった。彼らが持っている英語のガイドブックには若者が旅行するための情報が十分すぎるほど出ている。それに比べると日本の旅行案内書は何も書いてないに等しい。彼らの持っているガイドブックには、無銭旅行に役立つ情報だけでなく、食事も地域地域の特徴有る安いレストランを紹介しているし、その上、美術館や文化的な見所についてもかなり詳しい。
バスや、列車待ちの間に情報交換をする。イギリスのヒッピーが何処のユースホステルは良いとかあそこはひどいとかこれから向かう者に教える。アメリカ人のヒッピーが、ユーゴスラビアとブルガリア、とにかく東欧が素晴らしいという。素晴らしいとは、未知の新しい世界が体感できるとか、旅行者ずれしていないとか、物価が安いとかいろいろある。
当時、ヒッピーの無銭旅行、反戦運動などが盛んな時代だった。ジーパンにリックを背負って、何処へ行っても旅する若者があふれていた。その多くはアメリカ人とヨーロッパの人たちである。英語文化の広がりをまざまざと見せつけられた。彼らは何処へ行っても、切符売り場の前など人の集まっている場所で、だれか~英語しゃべれる人いませんかと、英語で叫ぶ。必ずだれか出てくる。学校で英語を習っている子供が多い。彼らが素晴らしい情報源になる。誰か日本語しゃべれる人いませんかなどと声を張り上げても、何をわめいているかうるさい思われるのが関の山である。
国境は簡単に通過、あこがれのギリシャに入る。<つづく>

160111

晴天が続く。
もう1月も1/3が終わってしまった。
中野たてもの応援団新年会 白鷺の茅葺き民家にて。
160111-01.jpg 160111-02.jpg 160111-03.jpg

新年会二次会
高円寺豊味苑にて。
ここの焼きそばがなかなか。
160111-04.jpg

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
011.
道は城の建つ丘を渦巻き状に登っていく。土地の子供が近道を教えてくれる。かなり急な踏み跡を枯れ草を押し分けて登る。
Trvl-Car-We002.jpg
城壁は石を僅かながらセットバックさせて積んでいる。ヘレニズム時代、単純明快な理想の上に都市全体を高貴で感動的な景観に創り上げるという要求が加わったと云われているが、ペルガマの丘の上の上市はBC2世紀前半の計画で、その最も見事な例と云われている。城壁の割れ目から上市の中へ入り込む。ゼウス神殿、アテネ神殿の跡を見ながら場内をゆっくりとうろつく。急な斜面を利用した屋外劇場が印象的である。秋枯れの遺跡には人影は殆どなく迷路の様な自然発生的なペルガマの町が眼下にあり、逆光で家並みがシルエットの重なりに見える。下水の完備した石畳の道を通り城門を出て、まちに下り、一度イズミ-ルに戻りイスタンブールに帰る。

(遠くに並木みたいに並んでいる緑は、すら以後フィルムのカビである。最近デジタル化した時にはかなりの傷みが出ていた。これも35年の歴史である。)
翌朝、バスの中で早朝目を覚ます。鉄道の駅にギリシャに行く切符を買いに行くが、持っている通貨は国内専用で、外国に行く切符は買えないという。しょうがないのでギリシャの国境まで切符を買う。9時35分汽車に乗る。<つづく>

160110

今日も晴天。
早朝3度ぐらい。
ことしは霜柱が立たない。
モチ小の剪定
160110-01.jpg

宇大の卒業生が、
二名飲みに来てくれた。
卒業生と云ってももうおじさんである。

「旅と車と私たち」 本年の元旦から毎日連載
010.
また海峡を渡って、アジア側に戻った。
トルコの東海岸はかつてのギリシャ植民地で、ギリシャ文化圏であったところである。目が覚めるとお茶のサービスがあった。すぐにイズミールに到着。エフェソスに行く。町からエフェソスまで結構離れていたが運良く途中でトラックに便乗させて貰う。入り口でエフェソスの地図を買い荷物を預かって貰う。青空の中、秋枯れのイエローオーカーの傾斜地に所々オリーブの緑。写真で見たギリシャ以上にギリシャに見える。遺跡は季節外れのせいか人もまばらでのんびりしている。石畳の道、崩れた列柱、その美しさはギリシャ本土の遺跡よりも強く衝撃的といっても良いぐらい胸に深く刻み込まれた。屋外劇場の上に出る。下にいる人の声が良く聞こえる。空気が乾燥して澄んでいるせいだろうか、設計が良いせいだろうか。
Trvl-Car-We003.jpg
博物館も整備されていて、発掘された様々な彫刻や陶器類などが陳列されている。イズミールの町に戻り、島に渡る船を探したが、シーズンオフで船は少なく五日待たないと出てないという。安宿のGar Hotel に泊まる。汚い部屋だが、日本人も以前に泊まったといっていた。
明くる日、ペルガマに移動。どんどん日が経っていく。昨日のうちにペルガマに移動しておきたかったのだがバスがない。しかしのんびりとした景色を眺めていると急ぐ気がなくなる。
朝、起きてバスでペルガマに向かう。ペルガマ遺跡には、まるで城を攻めているような感じでくねくねと登っていく。<つづく>


160109

よい天気だが少し寒い。
冬休みの宿題が終わる。
馬橋公園の方まで歩く。

狭い道。
160109-01.jpg

計画道路のためにもうすぐなくなる家。
160109-02.jpg 160109-03.jpg 160109-04.jpg 160109-05.jpg

ディテールも結構凝っている。
160109-06.jpg

押し縁下見の家。
160109-08.jpg この家は馬橋公園の南側

これは何の花だろう?
160109-09.jpg

「旅と車と私たち」 今年の元旦から連載
009.
ヨーロッパでもアジアでもないイスタンブールは好きな都市の一つである。
まだ日本の技術でボスポラス海峡に掛けたと云われる橋はなく、ウスクダラからフェリーでヨーロッパ側に渡る。バス旅行はウスクダラで終わって、フェリーを待つ間、写真を取り合うなど短かったが別れを惜しんだ。
Trvl-Car-We004.jpg Trvl-Car-We001.jpg
まずはホテルを決めてチェックイン。かなりの安ホテル。髪を洗おうとしたが、お湯が出ないことに気づく。恐ろしく冷たい水で首から上が凍りそうになった。それでも乾くとさっぱりした気分になった。町に出るがもう夕暮れ時で、アヤソフィア、ブルーモスクなどがシルエットになって見える。明くる日、ホテルをGezi Hotel に変え、歩いてJETRO の事務所に行く。トルコ人の事務員にタクシーを捕まえて貰って、エジプト大使館とイラン大使館へ行きビザを申し込む。出て少し歩いていたところで、日本語をしゃべるクエート人の少年と会う。独学で覚えたというが独学でこれだけ覚えられるのかと思うぐらい上手い。短波放送を聞いて覚えたといっていた。もうイスタンブールは長いらしくいろいろ案内してくれた。分かれてJETRO に戻る。歩ける範囲は自分で移動できるので、車で少し北の方の Sariyer に連れて行って貰う。海峡沿いに要塞の石垣がある。街道沿いには木造の民家が多く見られ2階が1階よりも張り出している。この地域の典型的な民家らしい。夜は数日ぶりに湯船に浸りちょっと豪勢な夕食。食堂でイラン人に会い片言のイラン語でおしゃべりをする。
明くる日、先の旅のことを考えて、鉄道の駅に行く。ヨーロッパ風のターミナル駅。ギリシャ行きの列車が毎日出ていることを確認し、建築学会の「西洋建築史図集」を参考にアヤソフィア、007で有名になった地下の貯水槽、ブルーモスク、バザールなどを見て歩く。明くる日、トプカピ宮殿をを見て、出てきたところで何人かハイシーシー売りの男に会う。JETROからの情報によると売りつけておいて、ぐるになった警察官が捕まえるのだそうだ。夜行バスに乗ってトルコの東海岸の旅に出る。<つづく>

馬橋小学校付近の唐楓。
160109-07.jpg

160108

自転車で法務局事務所。
風が冷たく顔が寒い。
中野区役所。

JIAで東京新聞の記者から鷺宮住宅について質問を受ける。
160108-01.jpg 160108-02.jpg 160108-03.jpg
四連戸の南側と北側
160108-04.jpg 160108-05.jpg

保残問題委員会A氏、茅葺き民家、鷺宮住宅を視察。

イッキン会、正月の集まり。

「旅と車と私たち」 元旦から連載

008.
慌てて飛び起きバスの発着所まで送って貰う。ジェトロの現地採用の運転手だが、現場に行くときも時々乗せて貰った。イラン語の先生でもある。どうやら間に合う。バスは満員である。屋根の上にも山のように荷物が積んである。ひたすらバスが走る、隣の席はスイス人の旅行者。若そうだがアルプスの少女ハイジのお爺さんのようなひげを生やしている。所々でトイレ休憩。一泊目はタブリツ。翌朝早起きをして、手紙を書いて投函。トルコとの国境に着く。バスの乗客にパスポートを持ってないおばさんが二人いて、交渉していたがバスの出発には間に合わなかった。アララト山(5,137m)の麓である。アララト山はノアの箱舟が漂着したところとして有名である。国境を越えると景色も変わる。食べ物も変わる。二泊目はエルズルムという山間の町。
スイス人と同室。Hotel Turistトルコに入ると水を注ぐと白濁する酒が飲める。スイス人が飲み過ぎると危険だという。沖縄の与那国島の「どなん」という酒も水を注ぐと白濁するものがある。60度ぐらいある。なかなか美味しくつい飲み過ぎる。当時はフイルムカメラで、フイルムがもったいなくて、殆ど撮れなかったが、凍てつくようなエルズルムの町も素敵だった。撮れなかったらこそまぶたに焼き付いているのかも知れない。
翌朝、起きてすぐ出発。19 Oct. '69。少し行ったところのドライブインレストランで目玉焼きの卵が4つも付いた朝食。
バスはひたすら西に向かって走る。アンカラの町を通過する。アンカラ大使館は岳父の構造設計である。バスの窓から緩い丘陵が波を打って重なって見える。その丘陵には土色をした民家がべったりと隙間なく張り付いている。民家の重なりが丘陵の起伏そのもに見える。一つ一つの民家がまた素晴らしい。そして所々にモスクとそのミナーレット。トルコの集落の特徴の一つだと思う。昨日は国境を越えるのに時間を食ったが、今日は順調に進んでイスタンブールに到着する。<つづく>

JIAの前の道の唐楓。
160108-06.jpg

160107

今日は七草。
爪を切ろう。
「ナナクサナズナ トウドノトリガ ニホンノクニニ ワタラヌサキニ ストトントンノトン」
七草がないな。

そういえば、唄で思い出したが、今年は初夢見なかった。
「ナガキヨノ トオノネムリノ ミナメザメ ナミノリブネノ オトノヨキカナ」
を唱えるのだか、書いて枕の下に入れるのだか、いろいろあるが良い夢が見られるとか。
この唄逆さまから呼んでも同じ、でもそれと夢がどう関連しているのかいまだに分からない。
よい夢・・・・・・イチフジ、ニタカ、サンナスビ。

梅がよい香り。
160107-01.jpg

森ビルで。
なんだか分からない赤いオブジェ。
160107-03.jpg 160107-02.jpg 160107-04.jpg

誰か纏めて10冊ぐらい貰ってくれないかな。

「旅と車と私たち」
007.
年が明けて1970年となる。
パーレビ国王の従兄弟は、別荘建築のコレクションをしていて、世界各国の建物を建てている。その一つに日本風のものも欲しいので何かつくれという。敷地を見に行くと、丘陵が続き見える限り自分の敷地だから何処でも良いという。大部分は土漠であるが、所々に木が茂ったところがある。緩い斜面の松に似た樹木の生えたところを選んだ。木材は入手が難しい。家具材は入手可能であるが、柱材となるとまず不可能である。鉄骨の角パイプを利用することにして話を進める。
イランも外国人旅行者は車を一月以上持てない。設計はまだ暫くは掛かりそうである。国境の倉庫に車を預かって貰うことが出来ることを知り。約一ヶ月前に通った道を逆走しイラクとの国境まで車を運びバスでテヘランに戻る。
2月に成り意図面も完成し一応一段落する。

さて、話は約1年遡るが、日本を出る前に婚約をした。そして、羽田を発ったのが、1969年4月10日。研究室で担当したジェトロの仕事で、第2回アジア国際見本市の日本館の現場監理である。監理が終わって、無銭旅行に出る。ヨーロッパはの旅は楽しみに残して2週間程度で中近東を廻ることにした。
工事が完成して、見本市の始まる日の朝にテヘランを出発した。前の日、事務局の人たちと、開催中に揚げる花火のために日本から来たマルタマ屋の親分と飲んだ。命を懸けて花火を揚げているそのものすごさが飲み方にも出ていると思った。大胆さと慎重さが交錯し、酔いながら冷めている。
寝過ごし、車のクラクションで目が覚める。<つづく>

160106

晴れの日が続く。
正月開け始めての“燃やすごみ”の日。
いつもより山が一回り大きい。

薬。効くとよいな。
160106-01.jpg

蒲団を粗大ごみに出す。
古いと云っても使ったのかな?
80年ぐらい眠っていた。
160106-02.jpg 160106-03.jpg

信号機。
よく間違わないな。
跨線橋の掛け替え。
知らないとえらい遠回りをしなければならなくなる。
160106-07.jpg 160106-06.jpg

空き家の塀はポスターのよい掲示板。
選挙ポスターだけではない。様々なポスターが貼られている。
160106-04.jpg

泰山木の大木
160106-05.jpg


旅と車と私たち
006.
再開発計画の図面をお手伝いし、模型をつくって、巨大な水車で有名なハマの町の打ち合わせ同行させてもらったりしているとすぐ日が経つ。ハマの町で打ち合わせの日、日が落ちて大砲がなってラマダンが開けた。賑やかなパーティーといってもアルコールは出ない。シリアで働く大使館の方や、商社マンとも知り合いになった。日本大使館の暮れのパーティーにも出席させていただき、参事官婦人とダンスをした記憶もある。
ダマスカスで働く日本人の商社マンの中に、車を持っておられる方がいて、通常のビザだと外国人は1年以上車所有できないので手放したいという。明るいブルーのジュリエッタかなりの中古だった。オーバヒーと気味で、暖房はあまり効かないという。車で世界を走るのは、かつての研究室の先輩達から聞いていた夢の一つだった。ベールートで手続きをして貰い買うことになった。
車を整備し出発できたのが、クリスマスイブ。ヨルダンからイラクに入り砂漠の中をただひたすら東進する。イラクに入りルトバで一泊まさにキャラバンサラエである。ベットの足に荷物をくくりつけて眠る。車は快調だったが、イラクとイランは当時交戦状態。イライラ戦争よりも何年か前の話だがあの辺りは、しょっちゅう何か紛争がある。外国人は国境は越えられるがなかなか厳しく一晩留め置かれた。テヘランに帰り着いたのが暮れも押し詰まった12月27日。テヘランを出てから二ヶ月と十日の旅であった。
かねてより、約束していたパーレビ国王*1の従兄弟の別荘の設計に入る。<つづく>

註1:パフラヴィー朝(パフラヴィーちょう、ペルシア語: دودمان پهلوی , ラテン文字転写: dudmân Pahlavi)は1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝で ある。パフレヴィー朝、パーレビ朝、パーラヴィ朝。

古民家シェアハウス。
160106-08.jpg

160105

今日も青空が広がっている。
よくもなく悪くのなく。
腹はふくれたが、
まあまあのところか!

近くで拾ったスナップ。
昔の洗面流しの裏側。たるの箍。
160105-01.jpg 160105-02.jpg 160114-05.jpg


植物4題
160105-03.jpg 160105-04.jpg 160105-05.jpg 160105-06.jpg

ただひたすら冬休みの宿題に没頭。

旅と車と私たち 今年元旦から連載
005.
1969年初冬、エジプトからヨルダンのアンマン経由でダマスカスに入る。ラッキーなことにアンマンからダマスカスまではベールートで働く日本人商社マンのタクシーに便乗させて貰う。
そもそも10月16日にテヘランを出発して、2週間程度の積もりで旅に出たが、トルコ・ギリシャ・エジプト・ヨルダンと廻ってシリアのダマスカスに着いたのは、既に11月12日、出発してから一月近く経っていた。
ダマスカスには、国連で働く研究室の大先輩とその家に同居する青年協力隊で働いている先輩がいた。私もしばらくその家に滞在させて貰うことにした。ドライエリアに囲まれた半地下の住宅。シリアもレバノンもフランス文化の影響が強く、美味いワインと手の込んだフランス料理を出す店がある。特にレバノンは自国のニュースよりもフランスのニュースに興味を持っている。その時は全く見えなかったが、そんな風潮とイスラム文化の葛藤が、現在の混乱の基になっているのではないかと思う。
一宿一飯の仁義で、先輩たちによるダマスカスの再開発計画の手伝いをして過ごした。
国連に勤める大先輩は、仕事柄世界中を股に掛けて活動してきた、理想の生活は、世界一周便の航空券を持って、フランスでシリア人と結婚し、アメリカでポルトガル人と結婚し、スペインでフランス人と結婚し、インドでイギリス人と結婚し、ペルーでロシア人と結婚し・・・・・そこを廻って一年を過ごすこと。各家には美人の奥さんと、白いワイシャツと犬とネコがいる。どこかの国で、そこの国籍を持たない人同士が結婚する分には、重婚にならないのだそうだ。結局、その夢は果たせないままなくなったが、さる国の大使がうちの女房、つまり大使夫人に手を出すなと怒鳴り込んできたことがあったとか。
車の運転も好きで、砂漠の悪路の走り方は何遍も講義された。「道路は整備されてないし、突然大きな溝があるんだぜ、車を真っ直ぐに走らせてはだめなんだぜ、そうするとショックも大きく、君、砂漠の真ん中サスペンション折ったらどうなるかご存じですか?下手すりゃ3日ぐらは誰かが通るのを待つしかないわけでございます。ハンドルを斜めに当ててかわすと結構何とか上手く通れるのでございます。気をつけなけりゃだめだぜ。」大学を出てすぐヨーロッパに出て、何十年殆どフランス語ばかりはしてきている。卒業当時の学生言葉と大使館や、国連関係の日本人との話し方が混ざっている。それでいながら何かリズムにのっている。この人の車はアルファーロメオ。
伝説の多い人で、多国籍の会議では、話を聞きながら右手でフランス語、左手で英語で同時に筆記したなどという話も残っている。
ダマスカスは中近東らしいイスラムの街、月に何度かは、ちょっとした買い物に峠を越えて、ベールートに行く。ベールートにいけばヨーロッパの食品など何でも手に入る。何分でダマスからベイルートに行ったとか。勿論、国連のパスポートは国境を楽に越えられるから、普通の旅行者にはとても太刀打ちできない。<つづく>

僕のコールテンのズボン。
履き心地はすこぶるよいが・・・・。
160105-07.jpg

160104

今日から世の中は正常に戻るようだが、
私は正常のまま?
今日もよい天気だ。風もない。
少し暖かいか。
春にかけて椎の木を剪定しなければと見本を少し集めてみた。
160104-01.jpg 160104-02.jpg 160104-03.jpg 160114-03.jpg 160125-04.jpg 160128-01.jpg




冬休みの宿題
ほぼ一日中座っていた。
道中程と云うところか。
年賀状の追加
今年は減らしてみたが結局殆ど戻って仕舞った。

旅と車と私たち 元旦から連載を始めた。
004.
ケルンを通ってアムステルダム。ベルギーを抜けてカレーからドーバーを超えロンドン。ロンドンで友人宅を探す。今と違い携帯電話などない。心配したが意外とすぐに見つかるかる。数日ご厄介になり市内の建築や、ケンブリッジなど案内して貰う。ゆっくりしたいのだが、帰国の期限が迫ってきている。またドーバーを渡り、アミアン、ラン、ランスを通りパリへ。
現代でも真っ平らなヨーロッパの田園の中にゴッシックの大聖堂がそびえそれを中心に街が構成されているのを見たときの感動は忘れられない。今でもこれらの町には高い現代建築は無く、大聖堂を中心に町が構成され続けているのだろうか。
パリで車を返す。飛行機でローマへ、ローマに泊まり見学して空港に、飛行機が遅れて、ギリシャで乗り継ぎの飛行機が我々二人を待っていてくれた。日本にはなんとか予定の通り帰国できた。飛行機の切符の有効期限一年をフルに利用したことになる。

ミラノまでお世話になった車を入手したのはダマスカス。といっても、正式にはレバノンナンバー。そこから、私の、そして、私たちの車の旅は始まった。<つづく>


160103

今日も天気。
やはり寒い。
160103-01.jpg

ちびっ子ギャング達は最後に木登りをして帰って行った。
去年の連休にも木登りしていたな。
160103-02.jpg

いよいよ冬休みに宿題を本格的に開始だ。

003.      今年の元旦から新連載「旅と車と私たち」
ジェノバ、インペリア、サンレモを抜けて、フランスに入る。そうなのだ、やはりこのときジェノバを通っている。車が調子よくなって、ただただ海岸沿いに先を急いでいたのだと思うがあまり記憶に無い。
マルセイユでコルビジュエのアビタシオンを見る。アビタシオンとは関係ないが急にアルプスでスキーがしたくなって、フランスから西へ、スペイン、ポルトガルと進む予定を北に方向を変えリヨンを通りスイスに入る。フェリーのように列車に車を積んで、峠を越える。サスフェというスキー場に着いた。ホテルはいくつもあり何処も車を止める車庫も用意されている。ところが泊めてくれるところがない。短くても十日間、大体2週間から一ヶ月単位の予約で、1日、2日泊まりなど相手にされない。それでもモーテルが見つかる。
スキーウエア-の用意などない。らくだの股引がスキーズボン代わり。どうせ遠くから見ている分には分からない。雪質は悪くないのだが、要所、要所がアイスバーンに成っている。丸一日スキーを楽しんでからロレックスの本社で、岳父に頼まれていた時計を買う。岳父が亡くなり今僕の腕にある。店から出てきたら駐車違反の紙が貼ってある。そのままドイツに抜けフランクフルトで一泊。長い車の旅で唯一の交通違反だが、その後何も言ってこない。<つづく>


160102

今日も快晴。
風も殆どない。
鬼の居ぬ間に冬休みの宿題少々。
夕方遅く八幡様の前を通ったら電気が煌々と付いて、
神主さんが二人正座していた。
境内にはネコ一匹いなかったが。
160102-01.jpg 160102-02.jpg

002.     今年の元旦から新連載「旅と車と私たち」
国境を越えイタリアに入る、ベニス、フィレンツェなどいくつか都市を抜ける。車の調子が悪くとてもミラノ経由で今日の目的地サンレモまで行けそうもない、坂道でもないのに3回もオーバーヒートをする。ようやく薄暗くなってミラノにたどり着いた。大きな都市にはホテル街があるが、そこに行き当たらないとなかなかホテルが見つからない。自分でも機嫌が悪くなっていることが分かる。結局、この旅で最も高いランクのホテルに泊まることになってしまった。
明くる朝、早速車を本社工場に持ち込もうとしたが。休日。もうしばらく走ることにして、ジェノバ、インペリア、サンレモを抜けて、フランスに入る。そうなのだ、やはりこのときジェノバを通っている。車が調子よくなって、ただただ海岸沿いに先を急いでいたのだと思うがあまり記憶に無い。
ともかく、何とかマルセイユまで行き着いた。マルセイユでアルファー・ロメオ修理工場を見つける。修理工がしばらく時間を掛けて調べてくれたが、結果、もう全くだめだとすげなく宣言されてしまった。記念になる部品を貰って良いかと聞くと、何でも持って行けという。シフトレバーなどいくつか取り外してもらう。廃車手続きも何も必要ないという。車とお別れする。ちょっと涙が出る。レンタカーの旅が始まった。ロンドンに住む友達に、ポンコツカーだが何とか動く車を友人にプレゼントする夢は儚く消えてしまった。
旅の方は楽になったが、介護の相手が亡くなり、ほっとすると同時に気が抜けてしまった気分だ。また水温が上がってきた、またエンジンが止まらないか、パンクしたタイヤは裂けて新しいタイヤが必要だがイタリアに入るまでは入手できなかった。またパンクしたらどうしようと、どきどきしながら走るのは疲れるが、走って当たり前というのも何か物足りなさを感じる。<つづく>

賑やかな夕食。
160102-03.jpg

プロフィール

konishikonishi

Author:konishikonishi
http://www.524to524.comを参照して下さい。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR